1955年 英 監督 アレキサンダー・マッケントリック
ロンドンの一軒家にお婆さんが一人暮らしをしている。年金生活で何の不自由もない。
お金が必要な訳ではないが部屋が余っているので下宿人を置くことにするが入居者は
5人の中年男で弦楽五重奏の練習をしたいと各自楽器を持参している。
しかし彼等はギャング団で現金輸送車を襲って莫大な現金を手に入れ、各自の楽器の
ケースに納めている。ケースに入れた金の一部がひょんな事からお婆さんに見つかり
殺そうとするが、口うるさいが気の良い彼女を殺すことに気がすすまない。
そのうちに疑心暗鬼が拡がって次々に仲間割れで殺されていく。死体は陸橋の上から
夜行の貨物列車に突き落とされ各地に運ばれて行く。
遂に5人とも死んでお婆さんのもとに大金が残る。彼女は警察に届けるが日頃から日常的に苦情やら、文句やらを言ってくる彼女を持て余している警察は取り合わない。
「どうぞ自由に貴女が仕舞っておいてください」と言われる。
5人組みはアレック・ギネス、ハーバート・ロム。ピーター・セラーズ等芸達者を揃えて実に上手い。特に強面のハーバート・ロムが血も涙もない殺し屋なのに皆にお婆さん殺害の役を振られるが、柄にも無くうろたえるところがさもありなんと思え面白い。
ありそうもない話をいかにもあるように見せるストーリーとギャグのテクニックは垢抜けて無条件に楽しめる作品でとなっている。
ロック・ハドソン
1948年ロック・ハドソンは「特攻戦闘機中隊」
でデビュー。1956年「ジャイアンツ」でスターとなるが
1985年エイズで死去。
「大空の凱歌」は記憶が定かではなく違っている
かもしれない。
1944年 第一部、 1945年 第二部 ソ連
監督 セルゲイ・ミハイロウイッチ・エイゼンショテイン
1925年11月7日10月革命と呼ばれたロシアによって社会主義国家が成立する。
28年経って社会は落ち着き、スターリン治下での恐慌政治が顕となっていった。
エイゼンショテインは1925年に「戦艦ポチョムキン」を制作し、ロシアはもとより全世界から絶賛されたがその7、8作目としてこのイワン雷帝を制作した。
史上最大の暴君といわれたイワン雷帝を16世紀のロシア統一国家を作り上げるためにあえて暴君と言われるようね強力な独裁政治を行った苦悩する偉大な君主として描き出そうとしたが、その暗部を描き出すことによってスターリン批判と受取られて失脚するのである。
俳優たちはまるで歌舞伎芝居のように見得を切り大時代的な芝居を演ずることによって様式美を作り出そうとした。この事は功罪半ばしており、そのスケールの雄大さは高く
評価されるが、その仰々しさにはうんざりさせられる面も又あったのである。
しかしエイゼンショテイン独特の雄勁な作風は確かに躍動しており、後年の「戦争と平和」等と比べれば明らかに際立った作品であったが「戦艦ポチョムキン」に生動していた詩や情緒は既に失われていたことも事実であった。
エイゼンショテインは以降映画制作にかかわることが出来ずに映画大学で教師として後進の指導に当たることになる。
1926 ソ連 監督 フセホドロ プドフスキン
原作はゴーリキーの同名の小説である。1905年1月9日のいわゆる「血の日曜日」から歴史は急速に展開して行く。
当日14万人の群衆が「ロシア工場労働者協会」を主宰する僧侶に従ってツアーの肖像と教会旗を掲げて讃美歌を合唱しながら皇帝に請願する為に冬宮に向かった。しかし皇帝の軍隊は彼らに銃弾を浴びせ1000人以上が死亡、2000人以上が負傷した。これに憤激した労働者はその日の夕方までにペテルブルグでバリケードを築き、ストライキの波は全国を覆った。ここに第一次ロシア革命が始まったのである。
映画の時代設定は1905年。息子パーヴェルは工場で労働者を扇動したことから逮捕投獄されるや、場面は法廷場面へと続き、小市民的傍聴者の群れをパーヴェルの母との対応を描き出す。母は法廷闘争と仲間たちの連帯の中で「真理」に目覚めていく。
一方父ミハイルはいつも酔っぱらって帰って家族に当たるがやがてウォートカ一杯で買収されてスパイとなり、スト
破り先頭に立つのである。
脱獄したパーヴェルは仲間たちと手を取り合って、喜び一杯となる。そしてメーデーのデモ、軍隊との衝突、パーヴェル
と母の死。クライマックスへと一気に進むのである。
エイゼンシュテインとは異なり、プドフキンは、ヴェラ・パラノフスカヤやニコライ・パチーロフ等モスクワ芸術座の
名優を起用している。父の死のシーンで白い覆いをかけた遺体の傍らに座る母パラノフスカヤに監督のプドフキンは「もう
何時間もそこにじっと座っている座り方をしてくれ」と注文をつけたという。
もう何時間もだけでなく、これから何時間も座っている座り方をパラノフスカヤは演じた。
この作品はエイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」と並んでソビエトの革命芸術のピークを形成し、無声時代の世界
映画の代表作ともなっている。
プドフキンは彼の3本の映画「母」「聖ペテルブルグの最後」「アジアの嵐」について、「私はいまだに視覚的な映像こそ
映画の基本的な力であり、まだ十分に開拓されつくされていない力であると考えている。」
サイレント映画の恐るべき力は人間自身のなかに横たわっている。
人間の眼と顔のなかに、観客は言葉がそこから生まれる感情そのものをよみとる。言葉自体は字幕のなかにあらわれたが
その字幕には観客自身によって用意された正確で必然的なトーンがすでにしみこんでいた。サイレント映画は、言葉の源泉と
創造過程にある言葉を示して、演劇が完全に近寄りがたい驚くべき明晰さで人間の内面生活を明らかにしたと述べている。
哀愁 1940年 米 監督 マーヴィン・ルロイ
脚本 ロバート・エイメット・シャーウッド
ロイ・クローニン大佐役 ロバート・テイラー
マイラ役 ヴィヴィアン・リー
哀愁は1931年に「旅路の終り」の題で映画化されている。若い兵隊が戦争に行く前に街の女を買う、女は兵隊から金を沢山貰って喜び橋の上で数えていた。男はホテルの窓からそれを見ていたが女と目が合って手を振る。そのとき爆弾が落ちて女は煙と共に消滅してしまうというものであった。
MGMは当時高名な脚本家ロバート・エイメット・シャーウッドに頼んであらん限りの悲さと美しさを盛り込んでこの作品に仕立てたのである。
今は老いたイギリス人大佐ロイ・クローニンは車でウォータールー橋に差し掛かると車を止めさせて過去の思い出に耽るのである。あのマイラの声が生々と甦ってくる。
第一次大戦の空襲のさなかロンドンのウォ-タ-ル-橋で若きクローニン大尉はバレリーナのマイラと知り合う。二人は愛し合い結婚の約束をするが戦地に向かったロイ戦死の公報が新聞に出て、戦火の激しくなる中で職も失っていたマイラは絶望しフラフラと夜の女に転落してしまう。この日も駅で復員兵の中から客を漁っている中にロイの姿を発見。二人はロイの希望で彼の自宅で婚約とお披露目のパーティーを開くがその夜
マイラはウォ-タ-ル-橋の上で車に飛び込んで死ぬ。マイラは死ぬしかなかったのである。
監督のマーヴィン・ルロイはユダヤ系の職人監督でギャング映画、ミュージカル、文芸娯楽映画と何でもこなす監督であったがこの「哀愁」は彼の作品の中でも一番の出来と言えるのではないかと思う。
ロイ・クローニン大佐のロバート・テイラーは話の進行に必要な相方に過ぎない。戦地からやっと故郷に帰ってきたのに戦塵に煤けている訳でもなく、多くの仲間の死を見続けてきたのに戦争に対する懐疑心をうかがわせるでもなく、まるでピクニックから帰ってきたような様子である。また、マイラに駅で会う訳であるが、彼女の着ている服装、様子を見ても何とも思わずにただ喜ぶだけで、戦火の中で身寄りのないマイラがどんな生活をして凌いできたのか等考えてもいないのには驚くしかない。これではその無神経と能天気さで彼女を死に追いやっても仕方がないとも言えるがメロドラマの主役はあくまで女性であり、これで良いのかも知れない。
一方マイラを演じるヴィヴィアン・リーは「風と共に去りぬ」で大ブレークしたがこの「哀愁」は脚本家シャーウッドの思い通り美しく可憐で適役であり演技も巧く「風と共に去りぬ」よりも彼女には嵌り役であり「哀愁」は彼女の女優としての地位を決定的とした。
「哀愁」は後に菊田一男が数寄屋橋をウォ-タ-ル-橋に見立てて「君の名は」を書き、ラジオで放送されるやその時間帯は銭湯の女風呂が空になると言われるほど多くの女性の支持を受け、女性の涙を絞ったのである。
1953年 米 監督ウイリアム・ワイラー
アン王女: オードリー・ヘップバーン
ジョー: グレゴリー・ペック
ローマのある大使館の大広間、アン王女が各国大使、外交官、政界、財界の人々と公式会見を行っている。アン王女のローマ訪問はヨーロッパ各国を巡る親善旅行であるが、忙しい日程が重なってやや疲れ気味である。公式会見を終えた王女に侍従は休養をすすめ、鎮静剤を与えるが、かえって眼がさえて眠れない。
思い立って街へ出るが鎮静剤が効いてきて王女はベンチで意識が朦朧となるが通りがかった米の新聞記者ジョーに彼の下宿に連れ帰られベッドに寝かされる。
社では王女失踪で大騒ぎ、始めてジョーは彼女が王女であることに気づいて大特ダネに狂喜する。彼は下宿にとって返し、王女の希望に従って後一日ローマ見物の案内をすることになる。床屋で髪をショートカットにした王女はジョーに連れられて一日を遊びあるく。 ジョーは同僚のカメラマンに王女の姿をフイルムに収めさせる。
その後ひと騒動あり、二人の間に恋心が芽生えるが所詮実らぬ恋であり、ジョーはアン王女を大使館に送りとどける。
記事を書くために書いたメモを破り捨てたジョーは大使館で行われた記者会見の場で
撮影した写真をそっと手渡すのである。
● ウイリアム・ワイラー
1947.10 米国合衆国下院非米活動委員会の聴聞会が始まる。委員長のパーネル・
トーマスが責任者であった聴聞会には19人が共産主義者の容疑をもつ非友好的証人として委員会前に立つことを明らかにしていた。そのうち11人が証言に立ったところで
聴聞会は打ち切られた。1947.9.あるレストランで映画監督、ライター、俳優のグループが会合を持つ。ウイリアム・ワイラー、ジョン・ヒューストン等が発起人となる第一条修正条項委員会である。
合衆国憲法の発効後追加修正された条項は1~10条あるがそのうち修正第一条「連邦議会は法律により国教の樹立を規定し、もしくは信教上の自由な行為を禁止することは出来ない。また言論及び出版の自由を制限し或いは人民の平穏に集会をし苦痛事の救済に関して政府に対し請願する権利を侵すことは出来ない」
ウイリアム・ワイラー監督等の呼びかけに応じてハリウッドで500人を超える人々が
会員になったのである。
やがてこの組織は政府の手練・手管、金融資本の前に崩壊していくのであるがワイラーは自分の出来うる限りハリウッドの良心として努力したことは大いに評価されるべき
であろう。ワイラーの作品はアメリカ映画のリアリズムの正統派を行くものでありハリウッド映画芸術の頂点に立つ存在であった事は明らかである。
15才から20才台の半ばまでに主だった映画のほとんどを見てきた。
1930年代から1960年代の作品である。
私にとって映画は小説とならんで娯楽というよりも人生の教師であり、各国の社会・歴史・恋愛・人間の生き方、人間とは何か等を吸収する教室であったのである。
その中心を占めていたのはフランス映画であり、ジャン・ルノワール、ルネ・クレール、ジュリアン・デュビュビュエ、ジャック・フェデーの4大巨匠が味わい深い作品と連発していた。又30年代の後半は迫り来る戦争の足音を背に感じられる作品が次第に多くなって行く。戦中から戦後にかけてのマルセル・カルネ。
彼に続くルネ・クレマン、アンリ・ジョルジュ・クルーゾー、そしてルイ・マル等次々に生まれ、その中でジャン・コクトーの「美女と野獣」「オルフェ」は詩人ならではの多才作品として異彩を放っていた。
衝撃を受けたのは、1958年日活名画座でみたセルゲイ・エイゼンショテインの「戦艦ポチョムキン」があった。無声映画で時々字幕が入るが、その的確な表現と映像の斬新さと力強さに圧倒された。
そしてロベルト・ロッセリーニの「戦火のかなた」と「無防備都市」であるこの2作は映画が時代の証言者となったと思わされた。
このシリーズを振り返ってみるとヨーロッパでは第二次世界大戦がアメリカではアカ狩りが巨大な影響を与えており、全ての映画人がこれにかかわりなくして作品はつくれないのだとの思いが深い。
アメリカ映画界は全体として権力に屈服した為に、今回に至るも立ち直れていない。アカ狩り以前に米映画に流れていた、自由で真面目な面はもう望めないと痛感する。
ヨーロッパは戦争と戦争直後の激動期をすぎて、それに替るモチベーションが下がった為か低迷しているように見える。
その中でインゲマル・ベルイマンとフェデリコ・フェリーニの2人が意識の流れに取り組んで映像の可能性を拡げたことと、アンゲロプロスの歴史と現代、ギリシャ悲劇を融合させた大作を次々と発表したことは特筆されると思うのである。
私の見てきた外国映画の中で心に残る作品はほとんど網羅されている。
2004年 ギリシャ 監督 テオ・アンゲロプス
1919年頃ギリシャのテサロニキ湾岸の荒れた草野に東を目指して歩き続ける3人がいる。ロシヤのオデッサに移民として行き、赤軍占領下のオデッサから脱出した在留ギリシャ人の一団である。40年代の男スピロスが一行の長であり、病弱な妻、5歳の息子アレクシスそしてオデッサで両親を失ったエレニがいる。難民の村で成長したエレニはアレクシスと愛し合い密かに双子の男の子を生む。スピロスの妻はアレクシスとエレニを応援しスピロスから隠し通そうとする。そのことを知らない義父のスピロスは妻の死後彼女に結婚を強要する。エレニはアレクシスと共にテキサロニキの難民村に逃げ、町のバイオリン弾きニコスに助けられる。追ってきたスピロスは町でエレニに突然遭遇しショックで死ぬ。アレクシスはアメリカに渡るが米国兵として沖縄戦で戦死、エレニはニコスをかくまった罪で投獄される。刑期を終えたエレニは釈放されるが第二次大戦終結後の1946年王制を支持する右翼と民衆派の左翼が国民を二分し内戦が始まり、息子たちは敵味方に分かれ二人共死ぬ。
洪水、戦争、獄中生活を経たエレニはもてる総てを失って「ずっと難民だった!」と呟く。 神話のオッデセウスのように。
10年に及ぶトロイヤ戦争で生き残り、木馬によりアテネを勝利に導いたオデッセウスは戦利品を舟に積み故国を目指すが、10年海上を漂流して辛苦を味わう。総てを失った彼はやっと帰郷するが留守の家が多くの貴族が居座って財宝を浪費尽くしていたのである。
エレニの名はギリシャ女性に多く見られる名でギリシャの愛称でもある。難民としてギリシャ現代史をひたすら愛で旅していくエレニはギリシャそのものの姿が投影されているようである。
監督のアンゲロプスは「エレニの旅を自分の母に捧げている。彼女は20世紀の始まりに生まれ、20世紀の終わりに亡くなった。つまり私の母は20世紀のすべての冒険を体験してきた。様々な戦争、逮捕、周りの人々の死。母のことを考えた時、私は彼女のために何かをしなければならないという衝動を抑えることは出来なかった。そこで彼女の世紀、20世紀についての映画、エレニの旅をつくったんだよ」と語っている。
アンゲロププスについては「旅芸人の記録」「狩人」「シテール島の船出」「霧の中の風影」「エレニの旅」とみてきた。
1936年 米
監督・脚本・音楽・主演
チャ-リ-・チャップリン
出演 ポーレット・ゴタート
1929年に始まった世界恐慌はアメリカの工業生産を1905~06年まで引き下げた。またギャングの横行も生み出し映画もそれを反映し「ギャング映画」が盛んに作られた。しかしルーズベルトの掲げるニューディール政策によって一転する。
一方労働者の擁護を謳う反面独占資本の強化を図るという両面を持っていたのである。ともかくも当面の不況は同時にギャング映画も影をひそめていった。
しかしオートメイション化による「人間性の喪失」が始まっており労働者は自分達が何を作っているのか、作ったものが消費者に如何役立っているのか人間の幸福のために向上のために使われているのかといったことが一切切り捨てられて、製造機械の部品と成り果てまでいったのである。
チャーリーは鉄鋼会社の工員で巨大な機械に支配され振り回されて発狂状態におちいり精神病院に送り込まれる。やがてパンを盗んだ娘を助け共に生活を始める。
チャーリーは機械修理工の助手になるが、彼のガラに合わずそのうえストライキが始まり否応なく彼は職場から追い出されてしまう。
キャバレーの踊り子になった娘が口利きでここに雇われることになったが感化院の役人が娘の脱走罪に対する逮捕状をもって現れる。娘はチャーリーと隙を見て逃げ出す。翌朝人気のない郊外の道を二人は歩いていく。
チャップリンは資本主義社会が人間の疎外化を促進し仕事から喜びと、仕事充実感を奪うものであることを喝破しこの作品を作ったのである。
相手役のポーレット・ゴダートは独裁者でも共演しているがこの作品の完成後チャップリンの3度目の妻となっており、結婚生活は6年で1942年に離婚している。ゴタートはその後「凱旋門」で知られるエーリッヒ・マリア・レマルクと1958年に結婚している。
1952年 仏 監督・脚本 アンリ・ジョルジュ・クルーゾー
出演 イヴ・モンタル
シャルル・ヴァネル
ヴェラ・ジョルジュ・クルーゾー
メキシコに近いラス・ビエドラスの町から500kmの油田、ドーゾーにて火災発生。ニトログリセリンの爆風で消化することが決まり、賞金目的で4人マリオとジョー、ルイジとビンバが組となりニトロを積んで出発する。落ちぶれて流れてきた男達の行きついた所がラス・ビエドラスで住人は何とか脱出したいとは思っている。
そこへ願ってもない話が舞い込む。
ニトロを積んだ車は緊迫した道中の連続で、その中に人間の本性がむき出しになる。ジョーはギャングの大物であったが危機に直面していくじの無さをさらけ出す。ルイジの組は途中爆発に死に、4人の中で残ったのはくそ度胸を発揮したマリオ唯一人。賞金をもらって意気揚々と帰る途中運転を誤って崖から転落する。
クルーゾーの演出は全編息もつかせぬ緊張感で押しまくり一部の隙もみせない彼の最高作である。
イヴ・モンタンがマリオを演じているが、当時モンタンが歌手であるとは知らなかった。それ程の演技を見せていた。又、シャルル・ヴァネルのジョーはさすがにうまい。ヴェラ・ジョルジュ・クルーゾーは監督の夫人である。
1925年 米 監督・主演 チャーリー・チャップリン
チャップリン36才の作品。
友人の俳優ダグラス・フェアバンクスからアラスカの金鉱のドキュメンタリースライドを見せられてそれがヒントになったという。
時はアラスカで砂金が発見され、金鉱さがしの男達がアメリカ中からこの北の上地にやって来た。ゴールドラッシュの頃である。
チャーリーもこのなかにいて山師として悪戦苦闘していたが、猛吹雪の中、大男ジムの山小屋に逃げ込む。吹雪に閉じ込められて食料も底をつき、飢えたチャーリーは自分の履いていた靴を食べるのである。紐はマカロニのように、釘はスープに入った骨のようにしゃぶる。しかし飢えはおさまらず、ついにジムの目にはチャーリーが七面鳥に見えてきて追いかけ廻す。
小屋は吹雪で断崖の渕まで押しやられ転落寸前となる。やっと2人が小屋を出たとたん小屋は崖から転落する。
金鉱を発見して成金となったチャーリーは凱旋して、町のダンサー、ジョージアの愛も獲得するのであった。
チャップリンの作品の中でも最も評価の高い作品である。
1940年 米 監督・脚本・主演 チャーリー・チャップリン
ヒットラーの名声が絶頂であった時期にチャップリンが独裁者の素顔を完璧に描き上げたもので国家の政策に支えられたわけでもなく、芸術映画としてでもなく、大衆相手の娯楽作品として興行的に成立する作品として出来上がったことは実に驚くべきことであった。
当時ドイツ・イタリヤからアメリカに対し公開に横槍を入れ、日本も輸入を禁止している。米国間においても相当の批判があった。
ここに映画の最後に6分間にわたる大演説がある。
私は皇帝になりたくない。支配はしたくない。できれば援助したい。ユダヤ人も黒人白人も人類はお互いに助けあうべきである。
他人の幸福を念願としてーお互いに憎しみ合ったりしてはならない。世界には全人類を養う富がある。人生は自由で楽しいはずであるの に、貪欲が人類を毒し、憎悪をもたらし悲劇と流血を招いた。スピードも意思を通じさせず機械は貧富の差を作り知識をえて人類は懐疑的になった。理想だけがあって感情がなく、人間性が失われた。
知識より思いやりが必要である。思いやりがないと暴力だけが残る。
航空機とラジオは我々を接近させ、人類の良心に呼びかけて世界を一つにする力がある。私の声は全世界に伝わり失意の人々にも届いている。
人々は罪なくして苦しんでいる。人々よ失望してはならない。貪欲はやがて姿を消し、恐怖もやがて消えさり独裁者は死に絶える。大衆は再び権力を取り戻し自由は決して失われぬ。兵士諸君、犠牲になるな!彼等は諸君をあざむき犠牲を強いて家畜のように追い廻す。
彼等は人間ではない!心も頭も機械に等しい。
諸君は機械ではない!人間だ!心に愛を抱いている。愛を知らぬ者だけが憎しみ合うのだ。独裁者を排して自由の為に戦え!神の王国は人間の中にある。すべての人間の中に!諸君の中に。諸君は幸福を生む力を持っている。人生は美しく自由でありすばらしいものだ!
諸君の力を民主主義の為に結集しよう!
よき世界の為に戦おう!青年に希望を与え老人に保障を与えよう。独裁者も同じ約束をした、だが彼等は約束を守らない!彼等の野心を満し大衆を奴隷にした!
戦おう!約束を果す為に世界に自由をもたらし国境を除き、貪欲と憎悪を追放しよう。良識の為に戦おう。文化の迫害が全人類を幸福に導くように兵士諸君、民主主義の為に。
ちなみに1889年4月16日チャップリン誕生。その4日後にヒットラーは生まれている。
1950年 仏 ロベール・ブッソン監督
カトリック作家ジョルジュ・ベルケノスの小説の映画化である。
初学校を出たての若い司祭が田舎の教区の担当になって赴任する。そこで教会にやってくる様々な家庭の悩みや苦しみを聞き続けるが彼には解決する手法も又、力もないまま話を聞き祝福を与えるしかないのである。
彼は胃腸の持病にも悩まされており、やがて苦痛に堪えながらただ一人でひっそりと死んで行く。
監督のブレッソンは作品のほとんどを素人を使っているが、彼は役の人物が持っているであろう教養や育ち、身分などを重視して同じような教養や育ちの人物を選ぶのだそうである。
素人の演技者にうまい演技は求めない、表情は無表情でセリフは棒読みであるが自己の義務をひたすら遂行して行く田舎司祭にまさにピッタリとはまっているのである。
ブレッソンは「既成の俳優を使って真実の人間を表現することは出来ない」と語っており、一貫した考えは見事にその結果を示している。
1939年 米 監督 ジョン・フォード
出演 ジョン・ウェイン
トーマス・ミッチェル
アリゾナのトントからニューメキシコのローズバーグまで様々な社会的立場の乗客9人を乗せた駅馬車が大平原を走る。途中アパッチインディアンの急撃されるがこの戦いの中で乗客は一致団結するという主題は西部開拓史の美化と移民社会のアメリカの隠喩 として機能しえたのである。アメリカ先住民は建国神話の敵役として長年西部劇の中で誤解と偏見に晒されてきたし、この作品も又その役割を担ってきたのである。
衰退期に入った西部劇は1960年代にそれまで「ハリウッドインディアン」表象に積極的に加担してきたジョンフォード遂に過去の罪科を償うような作品「シャイアン」を64年に発表するのである。ジョン・フォードはアイルランドの移民出身でジョン・フォードという名も兄のフランシスがつけた芸名である。1935年「男の敵」でアカゲミー賞をとる。
内容はアイルランド独立党員でありながら金に目がくらんで党を裏切った男の夕刻から深夜までと描いた作品であり裏切り者の狡猾で腕力にすぐれながら卑怯未練で薄汚い 人間の本性を余すところなく描き出して、監督になって20年やっと世に出ることになる作品であったが社会的な題材を取り上げて作品を作り続けるが興行的に成功せずに商業娯楽路線に変更することを選択その記念すべき作品が「駅馬車」であった。
1955年 米 監督 エリア・カザン
キャル 役 ジェームス・ディーン
アブラ 役 ジュリー・ハリス
ジョン・スタインベックの長編小説の一節を脚色したもので、そのテーマは聖書にあるカインとアベルの物語の現代化である。
場所はカリフォルニアのサリナス農場主アダムには二人の息子アロンとキャルがいる。兄のアロンは真面目で父の信頼が厚いが、弟のキャルに冷たくキャルは悩み屈折していく。「紳士協定」「波止場」とカザンは既に2個のアカデミー賞を受賞、3度目のオスカーを得て初めてのシネマスコープ
(カラーピクチュアとして第一作目)。出演者はカザンが発掘した若き命を交通事故で失ったジェームス・ディーンとニューヨーク舞台の花形女優ジュリー・ハリスを当てて大成功をとげる。
しかしこの作品はカザンの転向者心理が色濃く現れており、家父長の権化父のアダムに賎しめられ突き放されながら贈り物を持って父にひざまずき自らの過去をざんげするカザンそのものであり、アロンは現状を察知しないで自己主張を貫き破滅するハリウッド-テンの人達とも受け取れる。
映画では父に許され、兄の婚約者であったアブラの愛も受け入れるが、カザンの社会的状況にはアブラは現れる事はなかったのである。
-(上)よりの続き-
アメリカ映画人の間で蛇蝎の如く嫌われている監督の第一はエリア・カザンであり、次いでエドワード・ドミトリフである。
カザンは1952年4月9日非米活動委員会あてに宣誓供述書を出している。「私は聴聞会で答えられなかった質問、つまり私が共産党に加入した1934年の夏から1936年の冬の終わり-または春の始めまでの間に-私が知った共産党員は誰かという質問にだけ答えます。私はかってこうした名前をあげるのを保留したのが間違いであったという結論に達しました。というのは秘密を守ることは共産主義に奉仕することになるし、まさにかれらの望むところです。アメリカの人民は事実が共産主義のあらゆる側面についてのすべての事実がそれを賢明にかつ効果的に取り扱うために必要なのです。私の知る全てを話すのが市民としての私の義務です」次いで入党のいきさつ、友人、知人の党員の名前、彼の作品「ブルックリン横丁」を始めとした一連の作品が全ていかに共産主義のアメリカに対する中傷と正反対であるかを縷々非米活動委員会に訴えている。
彼は友人や仲間を敵に売り渡して自分の身の安全を図ったのであるからスパイの中でも一番卑劣で恥ずべきスパイ行為者であった。1947年10月2日非米活動委員会の第一回聴聞会は始まった。
一日目は監督のサム・ウッドが激しい調子で映画界に巣くう「共産主義者」を攻撃し「彼等は自由主義者だと言っているがシャツの片隅にはきっと”ハンマーと鎌”(ソ連の国旗)が書いてあるにあるに違いない」と述べ、
二日目はスターのマドルフ・マンジューがもし共産主義者がアメリカに上陸してきたら私はテキサスへ引っ越すだろう。何故ならテキサス人なら奴らを目の前で打ち殺すだろうから」と得々として証言している。
三日目のヒーローはロバート・ティラーで「私個人の意見では共産党は法律で禁止すべきだと信じる。もし私にそのような権限が与えられるならば、彼等を皆ロシアに送り返してしまうだろう」と尤もらしい表情で証言している。
1940年代後半から1950年代初めにかけてアメリカ全土を席巻した反共ヒステリーの嵐のことを「マッカーシズム」といわれている。密告者の卑劣さに比して孤立無援となった被密告者達は見事な抵抗を示した。会社から解雇され職場を失ったが自らの正義と明日への勝利を信じて、トラックの運転手、荷役労働者、セールスマンその他の職に転換して生きていった。
「友情ある説得」「黒い牡牛」「戦場にかける橋」「手錠のままの脱獄」「栄光への脱出」等は追放された彼等の書いた作品であった。
ヨーロッパに渡って苦心の末映画監督となったジョセフ・ロージーは1967年4月追放以来16年振りにニューヨークでの記者会見で「まず始めに申し上げたい事はあれ(赤狩り)はすべてマッカーシーの罪だというのはあまりにも安易だと言う事です。あれはマッカーシーではなくみんなだったのです。あの時沈黙を守っていたすべての人々だったのです。私は昨日ラジオに出ました。そこで誰かが言いました。”いまあの事件について話し合えるのは素晴らしいじゃないですか?”ところが私はちっとも素晴らしいと思わないのです。これが大きな自由だとは思えません。あの時だってこの位の自由はあったのです。この種の事件は、全国民を愚劣化することなしには起こりえないからです」と語った。アメリカの映画人がカザンを嫌う資格は果たしてあるのであろうか。彼等がカザンを嫌うのは自分達の情けなさの極限をカザンに見せ付けられるからに他ならない。
1935年 仏 監督 ジュリアン・ディヴィヴィエ
ピエール役 ジャン・ギャバン
リュカ役 ロベール・ルヴィガン
アイシア役 アナ・ベラ
殺人を犯したピエールは追いつめられてスペイン領モロッコの外人部隊に入隊するがそこでリュカという男に出会う。砂漠の町でモロッコ人の女アイシアと結婚するが、彼女を通してリュカが自分を追ってきた刑事であることを知る。
現地住民の反乱が起こり、総員24人の守備隊は砂漠の砦に立てこもるが包囲さ次々に死んでゆく。やがて残るのがピエールとリュカの二人だけとなり、それまで対立していた彼等は憎しみを忘れる。ピエールは敵弾に倒れリュカは生き残る。リュカはピエールの死体に取りすがり号泣する。
ディヴィヴィエは1935年から37年にかけてジャン・ギャバンを主演にした3部作とも言うべき「地の果てを行く」「我等の仲間」「望郷」を作るが、その内の一つ「地の果てを行く」は望みを失った男達が窮極の外人部隊の中でなお執念を持って争うという題材がディヴィヴィエの巧みな映画づくりによって今も我々の心を打つのである。
1946年 伊 監督 ロベルト・ロッセリーニ
牧師から少年まで命を賭したレジスタンスがイタリア人の大戦の末期の闘い方であった。これを6つの話にまとめたオムニバス方式で作品としたものである。
フェデリコ・フェリーニと「無防備都市」マンフレディ役のマルチェロ・パリロエがシナリオ作りに協力している。
連合軍のシチリア上陸にまつわる第一話。シチリアの村娘とアメリカ兵との友情の芽生えがドイツ狙撃兵の一撃で終わる。
第二話はナポリで黒人兵が少年に靴を盗まれる。黒人兵は少年を見つけるが少年達の住居が穴ぐら同様の貧民部落であるのをみて暗澹たる気持ちになる。
第三話 ローマはアメリカと寝た娼婦がその兵士が語る6ヶ月前に知り合った親切な良家のイタリア娘が自分であったことを知る。
第四話 フェレンツエでパルチザンが市街戦を展開している最中、イギリス人看護婦が昔の恋人で今はパルチザンの男を探す。
第五話 山中の修道院に3人の従軍僧が宿を乞うことから始る。一人はプロテスタント、一人はユダヤ教と知ってカトリック僧侶達は大騒ぎするが、結局自分達用の食事を3人の従軍僧に提供する。
第六話 ポー河に展開されるパルチザンの戦いである。敵味方入り混じった地域で結局ドイツ軍に包囲され逮捕されたパルチザンは一人づつ水中に突き落とされる。
また焼き討ちにあった民家や泣き叫ぶ赤ん坊の描写など凄惨な映像が続く。
「戦火のかなた」こそ時代とイタリア人の歴史的事実を描いた傑作であり、文字通り歴史の証言者と言える。デシーカーの「自転車泥棒」とならぶイタリアン・ネオ・リアリズムの双璧であるが、作品の完成度こそデシーカー作品に譲るが、世界に与えた衝撃の大きさは「無防備都市」と並んで他の追従を許さない。今日に至るもなお世界に屹立する作品である。
イングリット・バーグマンはこの2つの作品を見て驚愕したが、彼女にとって映画とはここまで真実に迫ることが出来るものか、それに引き換えハリウッド映画のなんと薄っぺらな事であろうかを実感した事であろう。
これこそが求めていた映像の姿であると確信しロッセリーニのもとへ走るのも当然の成り行きだあったろう。彼女もまた真実の姿を求めてやまなかった映画人としての表現者の一人であったのである。
1932年 仏 監督 ジュリアン・ディヴィヴィエ
原作 ジュール・ルナール
にんじん役 ロベール・リナン
父親役 アリ・ポール
赤髪だという事で母親から”にんじん”と仇名で呼ばれている少年の、親に疎んじられた辛い日々を綴っている。両親の夫婦愛が冷めた頃に頃に生まれた余計者として母親は長男を甘やかす傍ら末っ子の”にんじん”をいじめる。
父親は子供に全く関心がない。家庭の中に身の置き場のない”にんじん”は悲観して自殺を図るがすんでのところで父親に助けられる。父親は自分が子供に無関心であったことが子供を苦しめていたことに気づき、心が通い合う親子となる。
ヨーロッパでも特にフランスでは子いじめの伝統を持っており、自由や個人主義とは大人になってから享受できるもので、子供はその邪魔をしてはならないのである。日本は伝統的に子供を甘やかして育てるのを是としている事が(もっとも今日はそうとも言い切れない)この映画が日本人に解り難いものとしている。何故母親がこんなに子供に辛く当るのか?
長い文化の違いがそこには横たわっていた。仏文学や映画には家庭及び寮生活で大人にいじめられる子供が多く描かれている。
監督のディヴィヴィエはこうした抒情的作品や「望郷」のような犯罪がらみの作品、「舞踏会の手帖」ようなノスタルジックな作品と多彩な作品を作り、才腕を発揮している。
ロベール・リナンはルナールの”にんじん”そのままのようである。アリ・ポールは「舞踏会の手帖」で初老の神父役を演じており1930年代から40年代の名優の一人である。
ロベール・リナンは「針路」を演じた後レジスタンスに参加しプーシェ・デュ・ローヌ県のカッシを中心とする組織の一員となった。1943年2月7日地下活動中フォンクルーズで親衛隊に捕らえられ、一時マルセーユの刑務所に監禁されていたがドイツに送られ1944年4月4日23歳の若さで銃殺されている。
1955年 英 監督/主演ローレンス・オリヴィエ
百年戦争でフランスを破ったイギリスはその後ヨーク家とランカスター家が王位を継承の「ばら戦争」を起こし30年にわたって戦ったが、1471年チュークスベリーの決戦に於いてヨーク家が勝利しヨーク家全盛の世となった。しかしヨーク家の王の第二弟リチャードは王位簒奪を策し障害となる親族を次々に倒し、幼い皇太子エドワードを担いで自らは攝政となり実権を握るや皇太子を始め有力者を幽閉し多くを殺害し、遂にリチャード3世として王位に着くが、ランカスター系の王位要求者リッチモンド伯大軍を率いて寄せてくる。対抗すべくリチャード軍らは一夜のうちに味方有力者が敵方に寝返り、孤立したリチャードは敗北し殺される。うぬぼれの強いふた心ある暗殺者でありながらそのスケールの大きさと鬼気迫る演技は舞台を彷彿とさせる様式演技方法を見せて凄く、リチャード最後倒れた後断末魔で芋虫のように身体のたうつ姿はオリヴィエの執念のようなものを感じさせる。
出演者は クラレンス公 サー・ジョン・ギルガット
バッキンガム公 サー・ラルフ・リチャードソン
王女アン クレア・ブルーム
リッチモンド伯 スターリング・ベーカー
これだけの名優を揃えて芝居をロンドンで見るとすれば法外な入場料を要求されるだろうと思われる。
1940年 米 監督 ジョン・フォード、 原作 ジョン・スタインベック
トム役 ヘンリー・フォンダ
母親役 ジェン・ダウェル
1930年代半ば殺人容疑で入獄していた小作人の息子トムは4年振りでオクラホマの農場に帰ってくるが、一家の生活は極めて貧しい。カリフォルニアへ農業出稼ぎに2000マイルの道を移動する。途中農業労働者の待遇改善の集団交渉の動きを察した農業経営者側は暴力団を使って騒ぎを起こし、これをきっかけとして運動首謀者を弾圧しょうとするくだりなど、その後の大衆運動の抑圧にくり返えさせた手口が巧みに語られている。さいごに母親が「金持ちは子供が出来が悪いと没落するが我々はそんなことは決してない。我々は人民である」と高らかに語る。母親役ジェーン・ダヴェルは魅力的である。1960年代もアメリカで300万人を超える農業季節労働者の実態が日本のTVで放映されたが、アメリカは自国の重要な社会劇の映画化にコンプレックスを持ったのか、この作品が日本に輸入されたのは漸く23年後の1963年であった。フォックス社は日本代表はアメリカにとってこうした作品の輸入はマイナスであると公言している。健全な時代のアメリカはこのような作品も作ったのかと改めて驚くような素晴らしい作品となった。
1952年 米 監督 フレッド・ジンネマン
脚本 カール・フォアマン
ウイル・ケイン役 ゲーリー・クーパー
アミィ役 グレース・ケリー
1870年の西部の小さな町ハドリーヴイルとその近くの停車場を背景とした作品で時間と空間が合致して人物の行動を展開している。
ある朝町保安官ウイルはアミィと結婚式を済ませ5年の任期を終え、本日限りで保安官を辞し町を去ることになっていたが5年前にウイルに捕えられ獄中にいた悪党フランが何故か釈放され正午の汽車で町に着きベン・ミラー等3人の子分を連れて復讐に来ると知らせが入る。ウイルは再びバッジを胸に対決することを決意する。時の判事は町を逃げ出してしまう。ウイルは酒場や教会に集まった町の人々に助けを求めるが皆結局要請に応じない、これはウイルとフランクのの個人的な遺恨でウイルが町を去れば治まるという口実で彼に町を出ることをすすめる。開拓の時期を過ぎ商業者達の町になろうとしており、資本と商業が支配する都市に進もうとしていて住民は安定を求め、その為には悪党フランクの一味まで受け入れようとさえしていたのである。
ウイルは素朴に町の人々を信じていたが彼は時代を察知していなかったといえる。孤立無援となったウイルは暑い日差しの中で砂埃の立つ街路を助けを求めて歩き続けるが扉を閉ざす町の人々。一人となったウイルは悪党一味と戦うことになる。
拳銃の名手でもなく、特に勇気のある男でもない初老の男であるウイルがどうにか彼等を倒し、扉を開けて集まってくる町の人々の前にバッジを投げ捨てアミィと共に町を去っていく。今まで信じていたのが全て裏切られたウイルは果たして今後何を拠り処に生きてゆくのか深く考えさせられるラストである。
孤立奮闘する保安官はマッカーシー旋風の中で孤立する思想信条の自由という民主主義の精神を守ったハリウッドの少数の良心的な人々を表わし、悪党どもはマッカーシー議員やニクソン議員とその仲間たち、自分は戦おうとせずに保安官に逃走をすすめる町の人たちは大多数の映画人、いやアメリカ人を表わしている。
監督ジンネマンはもっとも良心的に行動した映画人の一人であり、脚本のカール・フォアマンは当局に目をつけられており、この作品のあとハリウッドを捨てゝヨーロッパに去っている。なおゲーリー・クーパーは共産主義の大嫌いな保守派で開拓時代の西部の経験も少しあり、昔の西部の人々はあんなでなかったと回顧録に書いている。
クーパーにはこの映画の意図が解らなかったのかも知れない。
デミトリー・テォムキン作曲の主題歌「ハイヌーン」はテックス・リッターが唄い、より一層緊迫感を映画に与えていた。
1960年 スエーデン 監督インゲマル・ベルイマン
脚本ウラ・イサクソン
テーレ役 マックス・フォン・ジドウ
コーリン役 ビルギッタ・ペテルソン
16世紀の片田舎テーレとメーレタの夫妻の一人娘コーリンはマリア様にローソクをお供えするために教会へ行く途中3人の羊飼いに会う。羊飼い達はコーリンを犯してのち殴り殺し彼女の持ち物を奪っていく。テーレ牧場の夕暮れ3人の羊飼い達が表の扉を叩く。テーレは3人を食卓に招き、夕食をとらせる。羊飼達はマントを取り出し買ってくれるように言う。それはこの朝娘に着せてやったマントであった。しかも血までついている。総てを悟ったテーレは復讐を心に決め彼等を殺害する。復讐を遂げたテーレは娘が死んだその地の上に教会を立てることを誓う。コーリンのなきがらの下から清らかな泉が湧き出てくる。ベルイマンは「スエーデンでは何世紀も前にキリスト教に改宗しているが、その間にも古い神々は密かに崇めつづけられていた。父親を復讐に駆り立てる激怒も根源は異教にあり自然に怒りに身をゆだねる。復讐の前に湯浴みで身を清めるが彼にとってキリスト的伝統と異教的伝統の両方が持っている意味と規範に結びついている」と語っている。「処女の泉」は13世紀のスエーデンの民話(バラード)のヴェンデのテーレの娘を翻案した。この泉は今日尚オストロゴチのケールナ教区の墓地に見られる。聖ヨハネ祭の頃になると農夫達がこの泉を訪れ、心の罪を療してくれると言われるこの泉の水を飲み喜捨していくという。
1938年 仏
監督 マルセル・カルネ
原作 ウージェーヌ・ダビ
脚本 アンリ・ジャンソン
サン・マルタン運河に近い安ホテルを舞台とした庶民のドラマである。北ホテル界隈の生活描写は実にこまやかなタッチでクレールの「パリ祭」「パリの屋根の下」の流れを汲むようないかにもフランス映画といった作品に仕上がっている。
悪い仲間を裏切って一人逃れたロベールは名前を変え以前と異なる生活スタイルを作って、出獄した仲間から隠れてヒッソリと暮らしており、生活は夜の商売を生業とする女に頼っている。
北ホテルで若い男女が心中を図るが失敗し、男は入獄する。ホテルで働くようになる娘にひかれたロベールは自堕落な生活を清算し一緒に人生をやり直そうとするが、彼女が心中の片割れで獄中にある恋人を忘れかねているのを知り、ロベールは生きる意欲を失って自ら死を選ぶのである。
「北ホテル」制作の38年、ヨーロッパは重苦しい空気につつまれていた。オーストリアを併合したヒトラーはチェコに対しズデーテン・ドイツ北方の分割を迫り戦争前夜の状態にあった。
ロンドンでは防空壕掘りが始まり、パリからは小学生の疎開が開始されチェコ軍には動員令が下った。
チェコを犠牲にしたミュンヘン会談で戦争の危機は一時遠のいたが、イギリス・フランス両国の及び腰がヒトラーに戦争の決意を促したのである。
ジャン・ルノワールは1937年名作「大いなる幻影」を製作し大革命を題材にした「ラ・マルセイエーズ」を製作するが戦争の流れを止めることは出来ずに米に去ることとなる。
「北ホテル」はルイ・ジュヴェ、アナ・ベラ、アルレッティと芸達者を揃えて充実していたが、カルネの戦中戦後の一連の作に遠く及ばなかった。
脚本家アンリ・ジャンソンは「舞踏会の手帳」「望郷」(いずれもデュビュビュエ監督)のセリフを書いている。
1960年 伊 監督フェデリコ・フェリーニ
出演 マルチェロ・マストロヤンニ
アニタ・エクバーグ
主人公マルチェロは作家になることを目指して地方からローマに出て来たが、今はゴシップ記事を書いているジャーナリストである。同棲中の女が自殺しようとしたり、ハイウッドのグラマー女優シルヴィアを取材に行ってうまく二人になり、トレヴィの泉に一緒に入って戯れたり、奇蹟をみた子供達がいると聞いて取材に駆けつけたりする根無し草のような生活をしている。
彼の心のよりどころとしているのはインテリの友人スタイナー一家のあり方であったが、スタイナーは突然子供を道づれに自殺する。
自暴自棄になった彼は海岸の別荘で仲間と狂宴をくりひろげたが夜明けの海辺に巨大な魚が打ち上げられ、腐臭を放っているのを皆でみる。
川向こうから少女が何か呼びかけるがマルチェロには聞えない。そのまま又別荘に向うのである。
冒頭ローマ郊外の廃墟の上をヘリコプターに吊り下げられたキリストの像が運ばれてゆく。又聖母マリアを見たという二人の子供達を取材に出かけたマルチェロだが、そこはテレビキャメラの放列と物見遊山の群集でごった返しているが奇蹟は起こらない。宗教を風刺したこの二つの映像のためにヴァチカンから激しい非難を浴びたのである。
フェリーニは神を信じているかどうかはさだかではないが、宗教の権威主義と特権階級たる代議士・貴族・大富豪に嫌悪感を抱いているのは確実のようである。
マルチェロはスタイナーの死によって打ちのめされたが、海辺での少女の呼びかけは彼に伝らなくなっており「道」のジェルソミーナによる魂の救済はもはや「甘い生活」では存在しない。
腐臭を放つ怪魚はローマそのものであり、宗教の権威主義であり腐敗した特権階級なのである。
マストロヤンニはこの作品で一流スターの仲間入りを果たした。スタイナー役に「悪魔が夜来る」のアラン・キュニーも出演して健在振りを示している。
1955年 仏 監督 アンリ・ヴェルヌイエ
初老のトラック運転手役 ジャン・ギャバン
若い恋人役 フランソワーズ・アルヌール
初老のトラック運転手ジャンは家庭を持っており、冷え切った仲の妻と生意気で芸能界に憧れを持ち、自分もその道に進みたいと願っている娘がいる。彼は毎日が味気ない。仕事の途中でいつも立ち寄る食堂の若いウェイトレスと恋に落ちる。家庭を捨てて若い恋人と新しい人生に踏み出そうとしたときジャンは失業、彼女は妊娠する。病院で子供を堕した彼女と幸運にも仕事が見つかったジャンは喜んで彼女をトラックに乗せて仕事先へ出かけるが、長距離の道のりである。途中彼女は気分が悪くなって苦しむ。
病院を探すが何せ夜中のことである。病院は見つかったが彼女は死ぬ。ジャンは再び元の家庭に帰り、砂を噛むような日常生活がまた始る。
若い恋人との生活は彼にとって夢の中の出来事のようである。ジャンは若い娘と一緒になる喜びで一杯だったが、若い恋人は残る肉親の母親に相談するが母親は自分の新しい恋人のことで一杯で娘につれない。彼女は孤独で、自分の人生に希望を失っておりジャンとの関係も成り行きでこうなった感があり積極的でない。
人生を半ば投げたかに見える娘をフランソワーズ・アルヌールは実に巧みに演じ切っており彼女の出演した作品の№1である。10年程前にどこの週刊誌であったか60~70代の作家や画家等の人達にアンケートを取ったことがあり「我が青春の映画女優」はとの問いに日本では久我美子、外国ではアルヌールが断然他を圧していた。久我美子は
「又あう日まで」の蛍子役により、アルヌールはこの「ヘッドライト」によるのであろう。
ギャバンは中年男の哀しみを見事に演じており、数多くの名作に出演した中でも最もすぐれたものである。監督ヴェルヌイエも哀歓と詩情を全編を通じて描き出したこの作品が自身の最高作である。「枯葉」の作曲家ジョセフ・コスマの音楽も哀歓に満ちて素晴らしい。
1958年 仏 監督 ルイ・マル
ジャンヌ役 ジャンヌ・モロー
新聞社主 夫 アラン・キュユー
若い学者ベルナール ジャン・マルク・ポリー
4大巨匠に続く新人の第一人者とも言うべきルイ・マルは「死刑台のエレベーター(1957)で一躍注目され第2作「恋人たち」によって確固たる地位を築いたと言える。
新聞社主の夫との生活に飽きている妻ジャンヌは恋人のポロ名手と逢瀬を楽しんでいたが自分の交際することのなかった世界に住む或る若い学者と出会い愛し合うことになる。会った翌日に二人は家を出て行くのである。夏の夜庭に出てきたジャンヌに若い学者がついてくる。ワイングラスをあわせるグラスの音で幽玄のような世界に入っていき、二人は愛し合うようになる。愛と美の世界を見事に描いておりこの映像の美しさと研ぎ澄まされた感覚凄い。二人で家を出て学者の運転する車で出かけるジャンヌの顔にはすでに倦怠感のかげりが僅かに見えるのである。
1932年生まれの早熟の天才が作り出した脆いガラス細工を見るような作品ではある。
1948年 伊 原作 ルイジ・バルトリーニ
脚本 デ・シーカー / チェザレー・ザハッテーニ
監督 デ・シーカー
父 ランベルト・マツジョラーニ
息子 エンツオ・スタローラ
デシーカーが1946年「靴磨き」に次いで発表した。ネオリアリズムの代表作品である。主人公は失業者で職業安定所に通ってやっと広告貼りの仕事にありつく。質屋に入っている自転車をシーツを売って受け出し仕事にかかるが、ポスターを貼っている間に自転車を盗まれる。翌日から息子を連れてローマじゅうを探して歩くが見つからない。思いあぐねた彼は一台の自転車を盗んで逃げようとする。たちまち捕まり群集にこずきまわされ警察に連れて行かれそうになるが、息子が駆け寄って来るのをみた被害者がもういいから許してやれと言い解放される。父と息子は手を握り合ったまま夕暮れの中を呆然と歩いてゆく。父と息子はこのことで親子の絆をより強くしてかたく寄り添うのである。
この映画はすべて素人を使って、オールロケーションで作られた。戦後のイタリヤを豊かな人情味溢れた作品として表現している。父役のランベルト・マツジョラーニはこの後数本の作品に出演しているが成功していない。監督の演技指導が彼をまた使ってみたいと他の監督に思わせた程デ・シーカーは素晴らし力量を示したと云える。映画史上の傑作である。
1952年 仏 監督 マルセル・カルネ
脚本 マルセル・カルネ, シャルル・スパーク
テレーズ役 シモーヌ・シニョレ
ローラン役 ラフ・バローネ
カルネ監督作品は「嘆きのテレーズ」を最後に急速に光を失って行く。「天井桟敷の人々」「悪魔が夜来る」「愛人ジュリエット」と「嘆きのテレーズ」が彼の代表する作品と言える。ゾラの「テレーズ・ラタン」の映画化である。
テレーズは病弱な夫と口やかましい姑に不満を募らせていたが、夫の友達のローランの積極的な誘いにのり恋に落ちる。夫と汽車に乗ったテレーズをローランが追って汽車に乗り込み夫と口論となり、夫はローランに列車から突き落とされて死ぬ。警察の執拗な追求を何とか躱して、列車経営する会社より賠償金40フランを手にするが転落するいきさつを目撃した水兵からゆすられる。水兵は戦場から帰っても仕事がなく中古の自転車屋を開きたいというささやかな希望を持っており脅迫を思いつく。ゆすられたテレーズとローランは水兵に40万フランを渡すが金を手にした水兵が外に出た途端トラックが突っ込んできて水兵は死ぬ。死に際に「手紙・・・」とうめくがテレーズ達には何のことか分からない。そのころ水兵が泊まっていた安宿の若い従業員が一通の手紙をポストに入れに行く。水兵が自分に何かあった時に警察に宛てた通知文で、夕方5時までホテルに戻らなかったらポストに投函するように頼んだ手紙である。カルネの作品の中での出来映えはナンバーワンと思われるが「天井桟敷の人々」のような作品作りに燃えるような情熱は失われてきており、映画作りは巧みになっているが、戦後安定しつゝある社会にあって作品作りの目的をやゝ失って行く作家の気持ちが窺えるのである。
1956年 仏 監督 ルネ・クレマン
脚本 ジャン・オーランシュ
ジェルヴェーズ役 マリア・シェル
クポー役 フランソワ・ペリエ
エミール・ゾラが「ルーゴン・マッカール叢書」のうちの一つとして1877年に発表した「居酒屋」を「禁じられた遊び」でコンビを組んだジャン・オーランシュの協力のもと制作した。1850年代ナポレオン3世治下の第二帝政時代パリの労働者は混乱した経済情勢の中で貧しい生活に追い込まれていた。勝気で働き者のジェルヴェーズは界隈で一番の好男子と自負するランチェと結婚するが籍は入れていない。身持ちの悪いランチェは浮気の果て女と出て行ったが、彼女は挫けず働き、やがて貧しいが真面目な屋根職人のクポーと結婚。二人は懸命に働き預金も出来た。二人の間にナナも生まれ希望に燃えて、一軒の店を借り洗濯屋を開くことになったが、クポーが屋根から転落して働けなくなり店を開く余裕はなくなった。クポーは働く意欲を失い酒びたりの生活に落ちていく。
やがて昔の男ランチェがやって来たが、クポーは男気を出してランチャを同居させてしまうのである。何くれとなく力を貸してくれていた鍛冶職人のグ゙ジェはストライキ運動で入獄。彼女は全く希望を失い二人の男と同居する泥沼の生活が残り、或る夜ランチェから誘われて関係を再開させてしまう。出獄したグジェはこの醜い関係を知って絶望して旅出してしまう。グジェの資金により持った店であったが急性アルコールの発作に襲われたクポーが店をぶち壊してしまう。発狂したクポーは死に、精魂尽き果てた彼女は酒びたりの生活に沈殿する。
戦後ドイツの名女優の一人と言われ、ヴェニス映画祭の最優秀女優演技賞を得たマリア・シェルの演技は素晴らしい。入魂の演技である。クポー役のフランソワ・ペリエは「オルフェ」のウルトビーズ役で出ているが、クポー役で一躍名優の地位を獲得したと言える。又気障な色男ランチェ役は歌手マルマン・メストラルが好演している。音楽は仏映画音楽界の第一人者ジョルジュ・オーリックが担当している。フランス映画の充実した作品を多く創り出した時代を代表する一作である。
1927年 デンマーク 監督 カール・ドライエル
ジャンヌ役 マリー・ファルコネッテイ
捕らえられたジャンヌ・ダルクは宗教裁判にかけられる。全編クローズアップの連続で登場人物の心理を抉り出した名作である。舞台の名女優ファルコネッテイの演技は素晴らしい又宗教裁判の僧侶達の醜悪な顔、顔、顔で宗教の残酷さを見事に描き出している。ジャンヌ・ダルクを題材にした映画はバーグマン主演の外多くあるがファルコネッテイのこの作品に遠く及ばない。
トーキー以外の作品には今でも輝きを失わないものも数多くあるが制約された状況の中でこそ良い作品が生まれる見本のようなこの一作である。
宗教裁判は19世紀中ごろまでヨーロッパでは存在しており、ナポレオンがスペインを攻めた時にスペインの民兵が抵抗して民族独立運動の色が濃くなって遂にフランス軍が撤退、スペイン民衆はフェルデナンド7世を君主として迎えたがフェルデナンド7世はすぐさま異端審問審査会を再会して独立運動の中心人物及び魔女狩りを強行して刑場に送っている。
宗教裁判は近年まで存続していたがオウム事件は依然として宗教の恐ろしさが今でも生きていることを私達に教えている。
1946年 米 監督 ジョン・フォード
ワイアット・アープ役 ヘンリー・フォンダ
チワワ役 リンダ・ダーネル
ドク・ホリデイ役 ヴィクター・マチュア
クレメンタイン役 キャシィ・ダウンズ
ワイアット・アープは1848年3月にスッコットランド系移民の子として生まれている。
後年西部に勇名をとどろかしたが早抜きを修練して殆ど殺人をおこなわなかったといわれる。保安官稼業で各地で勇名を馳せたが後アラスカの金鉱経営が成功して裕福な生活を送り81歳で没。
ドク・ホリデイは肺結核でデンバーの療養所にて35歳で没している。
ジョン・フォードは1939から1941年の間に「駅馬車」「怒りの葡萄」「我が谷は緑なりき」等の名作を作ったが50歳台で海軍を除隊して始めての作品が「荒野の決闘」である。
一コマ一コマの画面が絵のように美しく詩的な抒情性を持っており他の西部劇に類を見ない。ワイアット・アープが日曜の朝散発をした後ポーチに椅子を持ち出してのんびり教会に行く人々を眺める場面や教会建設予定地でダンスに興じる人々の姿も開拓期に生きた人々の喜びも我々にしみじみ感じさせる。
ラストシーンでトウムストンを去るアープが死んだドク・ホリデイの婚約者クレメンタインに「なんて美しい名前だクレメンタイン!」のセリフを残して自分の思いを告げることなく去る場面等よき時代のアメリカがこの映画に良くみられる。
クレメンタイン役の清楚な役者キャシィ・ダウンズはこの一作限りで引退している。
1937年 仏 監督ジャン・ルノワール
脚本シャルル・スパーク、ジャン・ルノワール
音楽ジョセフ・コスマ
マレシャル中尉役 ジャン・ギャバン
ド・ボアルデュ-大尉役 ピレーネ・フレネ
フォン・ラウフェンシュタイン大尉役 エリッヒ・フォン・シュトロハイム
エルザ役 ディタ・パルロ
第一次大戦のさなかフランス参謀本部のボアルデュー大尉と操縦士マルシャル中尉はドイツ軍陣地を偵察飛行中に撃墜されてドイツ軍捕虜となる。
ボアルデューは貴族、マレシャルは労働者出身である。収容所を転々と廻され古い城を改造した山上の堅固な収容所に移される。所長は典型的なプロシヤ貴族で特にボアルデューを手厚くもてなす。脱走計画が進められてマレシャルとユダヤ財閥のローゼンタール中尉をボアルデューが犠牲となって逃がす。
二人は山中の農家に身を潜めマレシェルはドイツの寡婦と恋仲となるが追手が迫り二人は雪の中をスイスへと国境を越える。
「今に戦争はなくなる」とマレシャルは言うが「それは大いなる幻影だ」とローゼンタールは答える。
ジャン・ルノワールは「映画を作り始めた頃私には数人のグールーがいました。それはチャップリン、D.W・グリフィス、そしてシュトロハイムでした。彼等の監督した作品は全部覚えています」と語っている。
シュトロハイムを迎えてシナリオの書き直しにかかり、それまで群像の一人であったラウフェンシュタイン大尉を創り出したのです。このことがこの作品の深みを増したことは言をまたない。脚本はシャルル・スパークと共同だがこの時点でルノワールの脚本になったと思われる。
第一次大戦までは騎士道精神に溢れた軍人が存在していたし、またボアルデュー型の気位の高いフランス将校もいたのだが第二次大戦時には存在することはなくなってしまった。この映画はそれぞれの階級、国、人種と現代の社会の中に含まれている色んな問題が集約されて人物設定がなされている。
気位が高く収容所の中でも白い手袋を欠かさないボアルデュー大尉は仲間のフランス兵からも煙たがられる存在であったがマレシャルたちが脱獄する際に自分の身を犠牲にして脱獄を成功させるがそれがフランス貴族としての伝統と美意識に適合したしたものであったからである。
ラウフェンシュタインも相手が貴族である以上彼を信じており又自分達がこの戦争の終わりには崩壊していく階級であることを自覚し愛惜の情をボアルデューと共有しているのである。
最後は国を越えて戦争に反対する考えを示す労働者マレシャルに財閥のローゼンタールは現実主義者として「それは幻影だよ」と否定する。
ルノワールの平和と民主主義の熱い思いが溢れる名作である。
1944年 米 監督 ジョージ・キューカー
ポーラ役 イングリット・バーグマン
夫 役 シャルル・ボワイエ
ロンドンで女性歌手が殺されその姪のポーラが遺産を受け継ぎ音楽家と結婚したがその後に次々と不思議な出来事が起こる。カバンから首飾りから紛失したり、部屋のガス灯が暗くなったりするが男は彼女の神経の異常によるものだと言い続ける。彼女も自分の精神状態に自信を失っていく。心理的サスペンススリラーであるがバーグマンの美しさがあってより良い出来に仕上がっている。バーグマンはこの作品でアカデミー主演女優賞を受賞する。
1963年 米、伊 監督 ヴィトリオ・デ・シーカ
ローマのテルミニ駅を舞台にした恋愛ドラマである。ドラマの進行時間と上演時間が一致しているのは米「真昼の決闘」と同じ趣向である。ローマの姉夫婦を訪ねたアメリカの人妻が案内役のイタリヤ青年と恋に落ちる。人妻は姉の息子をみて家庭を思い出し別れを決意する。そしてフィナーレは駅での場面、青年の熱い思いを最後に振り切って別れるが名場面である。ジェニファー・ジョーンズの人妻とモンゴメリー・クリフトの青年は実に名演技である。監督のデ・シーカーは脚本家チューザレ・サヴァティーニと組んで多くの先駆的作品を生み出した。「靴みがき」1947年、「自転車泥棒」1948年「ウンベルト・D」1952年とネオリアリズムの傑作を次々に製作し、ロッセリーニと並ぶ巨匠となった。厳しい現実を人間味溢れる眼差しで描いた「ミラノの奇跡」1951年 恋愛映画もこの「終着駅」「ひまわり」1970年等数点製作している。また喜劇にも才能をみせ「昨日、今日、明日」1963年年、「あゝ結婚」1964年と幅広く手がけどんな題材でもデ・シーカーの手にかかると黄金の輝きを放つ作品となったのである。しかしこのコンビは最後までネオレアリズムの道から離れることなく、取り上げる題材は違ってもこの道を貫き通したように思う。サヴァティーニはネオリアリズムを「ネオ・リアリズムにより現実が極めて豊かである事を知り従って現実を知るだけで十分となる。芸術家の仕事は人間を比喩によって怒らせたり、感動させたりすることでなく人間を彼が行うものつまりあるがままの現実の諸事物に反映させる事であるということを知ったのだ」と語っている。
デ・シーカーとサヴァティーニのコンビは映画史上の最良の組み合わせの一つであり数多くの傑作を残した。
1946年 英 監督キャロル・リード
ジョニー役 ジェームス・メイスン
恋人役 キャスリン・ライアン
画家役 ロバート・ニュートン
アイルランド共和国軍(IRA)メンバーのジョニーが活動資金を得る為仲間と共に銀行を襲って逃げる途中、出獄したばかりで弱っていた彼は建物の外に出た途端に日差しをまともに受け立ちくらんだところ警備員ともみ合いとなり警備員を誤って射殺自らも負傷する。仲間の運転する車に乗ろうとするが振り落とされて戦災ビルの廃墟に潜み夜のダブリンを彷徨う。途中負傷した彼を二人ずれの主婦が助け、一人の自宅に連れ帰る。彼女は看護婦で傷を見て犯人と知るが通報することはなく応急手当をして包帯を巻く。夫が帰宅しオロオロするが夫人は毅然として夫を制し彼を夜の街へ送り出す。解けた包帯を垂らして街を彷徨する。その後画家と医者に助けられ画家は死に瀕した顔を描きたいと我を忘れて絵に熱中する。やがて画家の家を出たジョニーは逃走計画を練って舟を予約した恋人と埠頭まで逃げるが警察隊に追いつめられて射殺される。
キャロル・リード38歳の作品でこの一作で世界的な舞台に進出した。
ジェームス・メイスン畢生の名演で名優としての地位を確立した。ロバート・ニュートンの狂気の画家も凄い。
1951年 仏 監督 ルネ・クレマン
クレマンは1945年の処女作「鉄路の闘い」でフランス国鉄労働者の対ドイツ軍へのレジスタンスを描いて世に出たが「海の牙」で潜水艦でドイツを脱出しアルゼンチンに逃げようとするナチス高官を描くサスペンス映画で一流監督の仲間入りを果たした。
禁じられた遊びでフランスを代表する監督となり彼の最高作となった。
1940年ドイツ軍の侵入でパリから人々が田舎に逃げ出す。ドイツ軍の飛行機が機銃掃射で大勢の人々の死ぬなかで若い夫婦が死ぬ。残された幼い少女ポーレットが近所の農家に拾われそこの男の子ミシェルと兄妹のように育てられたる。少女が始める墓地から十字架を取ってきて動物たちの墓に立ててやる遊びが騒動をまき起こす。やがて施設に引き取られる事となった少女は駅の雑踏のなかですれ違った女性に母を思い出し”ママン”と呼んで追っていってしまうラストは哀切でナルシソ・イェペスのギターも絶品であり、映画音楽として有名になった。
ポーレット役のブリジット・フォッセイ、ミシェル役のジョルジュ・プーシュリーは監督が演技をどのように指導したのか正に驚嘆するしかない。またフランスが実は農業国であることを再確認したのを思い出す。
1942年 仏 監督 マルセル・カルネ、
脚本 ジャック・プレヴェール
15世紀のフランスの城で雷鳴と共に悪魔が男女二人の弟子を従えて突然現れる。その目的は城主とその娘を籠絡することである。二人の弟子は現世では恋人同士であるが女のドミニクは忽ち城主を籠絡し自分の思うままの人間に取り込むが、男の吟遊詩人は城主の娘に恋する。悪魔は怒って抱き合う二人を魔法で石に変えてしまうがそれでも二人の心臓の鼓動は続いていた。このラストシーンはナチズムの暴虐に反対する人間の愛の強さをうたいあげてやまない。石にされたこの二人はフランス人である。
カルネとプレヴェールは戦時下の激しい状況下の中で自らの知性を如何に磨いてきたかが分かる作品である。ドミニクを演じるのはアルレッティ(当時44歳)であるが彼女以外にドミニクはないと言って過言ではないそれ程素晴らしい。
「天井桟敷の人々」のギャランス役とならんで彼女の代表作である。他に城主の娘にマリー・デァ、城主はマルセル・エラン「天井桟敷の人々」の悪漢ラスネール役、吟遊詩人はアラン・キュニーで彼は「甘い生活」でマルチェロの生きる希望であった教授で子供を道づれに自殺する役で出ており、また「エマヌエル夫人」で性の奥深さを指南する教授役で出演している。カルネとプレヴェールのコンビは「天井桟敷の人々」「悪魔が夜来る」「愛人ジュリエット」「嘆きのテレーズ」が中でも跳び抜けた作品と言える。
1935年 仏 監督ジャック・フェデー
ますます露骨に軍事拡張を推しすすめるヒットラーを見て永く不信の仲だったフランス社会党と共産党は急速に接近し1935年「人民戦線」が生まれた。1935.7.14 (パリ祭の日)では革新政党、労働者、知識人を中心とする反ファシズムの大デモンストレーションがシャンゼリゼの大通りを行進しラ・マルセーズとインターナショナルが行進とともに歌われ続けた。1935年思想と形式の統一、時代に対する卓越した目で30年代フランスの最高傑作のひとつが生まれた。
時代は17世紀フランドルーの一都市に征服者スペインの軍隊が通過すると云う情報がもたらされる。過去そのために何度か散々な目にあっているため市の有力者達は慌てふためき市長は死んだことにして男達は家に引き籠る。そこで今まで男達に虐げられていた女達は市長夫人を中心として立ち上がり、スペイン軍を女達だけで大歓迎して迎え、歓迎攻めにして征服軍を骨抜きにしてしまう。翌日スペイン軍は礼儀正しく町を去り市は平和を取り戻す。
云うまでもなくスペイン軍はファシズム、市の有力者達はフランスの政治家達であり女たちはフランス民衆であり、民衆は危機の前に団結し対抗するのである。
脚本は「ミモザ館」「外人部隊」を書いたシャルル・スパークで監督フェデーと脚本スパークコンビでの3大名作の一つある。彼の作品作りに果たした役割は極めて大きい。
そしてこの作品で特筆すべきは市長夫人を演ずるのは監督ジャック・フェデ-の夫人のフランソワーズ・ロゼ-でありまさに快演である。ロゼ-は「ミモザ館」「外人部隊」ともに出演しており30年から40年代フランスを代表する名女優である。また生臭坊主を演ずるルイ・ジュ-ヴェは相変わらず存在感を示している。
1952年 仏 監督ルネ・クレール
音楽教師クロード: ジェラール・フィリップ
1900年貴婦人 : マルチーヌ・キャロル
1830年のアラブの姫 : ジーナ・ロロブリジータ
ルイ16世時代の貴族の娘 : マガリ・ヴァン・ドウィエ
貧しい音楽教師の青年クロードは夢の中で色んな時代背景の美女達と出会う。1900年の夢の中では貴婦人に愛され、オペラ座では自作の自作の上映も成功、1830年の夢ではアルジェリア征伐軍のラッパ手になりアラブの姫に恋される、ルイ16世の時代の夢では貴族の娘に恋される。
古きよき時代を懐かしんでいるが同時に現実に対する醒めた眼も失っていない。総てを柔らかいオブラートで包んだような品の良い知的なファンタスチック・コメディーである。ルネ・クレールの自分のスタイルを崩さない姿勢がこの作品でも貫かれているが往年の輝きはない。
ジーナ・ロロブリジータは「ノートルダムのせむし男」1956年でジプシー娘エスメラルダを演じ熱狂的な支持を受けフランス語に「ロロブリジーダ的な」と言う女性を形容する新語までつけくわえさせた程であった。又彼女は1975年にはキューバの国家元首フィデル・カストロについてのドキュメンタリー映画「フィデルの肖像」を監督しており後年は写真家としても名声をなしている。
1963年 伊 監督フェデリコ・フェリーニ
「道」「甘い生活」で興行的に成功し完成度の高い作品で一挙に巨匠となったフェリーニはここで自分の作りたかった作品を作る機会を得て思い通りの映画を作制した。
映画監督のグイドは映画制作に行き詰まり精神的に追い詰められて温泉治療に出かけるがそこに愛人や冷え切った仲の妻が出現しおちおち温泉治療が出来ない。
グイドの中に過去現在そして空想の世界が去来する。少年時代の母や祖父、売春婦たちハーレムの幻想や大女のサラギーナ等が脈絡なく表われては現実と相俟って物語りは進んでいく。グイドは遂に映画制作を断念する。舞台は過去の人達幻想の中の人物が現れて消えていく。
20世紀初頭に文学界に現れたプルースト・ジョイスは世界を驚嘆させ圧倒して以来今日まで世界に屹立する存在となって彼等を除外して文学を語ることや自己の作品を作ることは出来ないが、その最大の理由は人間の心に脈絡なく現れる「意識の流れ」を書き出したことである。映画界では1957年スウェーデンのインゲマル・ベルイマンが「野いちご」でその兆しは見えていたが文学に遅れること半世紀にして本格的にこの試みがフェリーニによっておこなわれる事になった。
8 1/2 は8は自身の監督作品、1/2は共同監督の意味で物語はフェリーニ自身を語って自身の告白の作品であり、故に普遍的なテーマを獲得し得たといえる。
フェリーニの言葉:今私はどんなことでもすることが出来る。なぜなら私は新しい物の見方・新しい愛し方をえることが出来たからだ。つまりグイドに起ったことが私にも起ったのである。
1956年 脚本・監督 インゲマル・ベイルマン
騎士ブロックは長い十字軍の遠征を終え従卒ヨンスを従えて帰郷の旅にあった。出発時彼は希望と自身そして自分の決定、行動が神の意志と合致している事に確信を持っていたが、10年に亘るパレスチナでの戦いに彼は神への懐疑にとらわれていた。
帰郷の途中ペストの流行、魔女狩り等死体の山、自分の肉体に鞭打つ人等悲惨な状況を見る。そして彼は死神と出会う。彼は死神にチェスの勝負を挑んで猶予を請う。決着が着くまでその間に神について真実を知りたいと思っていたからである。
しかし結局神に出会うことは出来ない。死神は神はいないのであろうと言う。家に辿り着いた彼を待っていたのは家族全員で死神に導かれて踊りながら天国へ昇っていく道であった。西洋文明は進歩こそ善であり希望であると確信していたが原爆の
出現によってそうした幻想に冷水を浴びせられた。この現実に直面した人類の恐怖感を改めて我々に示したが今日ではヨーロッパを中心とした経済的危機と原発の恐怖によってこの作品がより切実に感じられるのである。
題名ー第7の封印は「ヨハネ黙示録の第七の封印が開かれる」よりつけられたものである。
1939年 米 監督 ヴィクター・フレミング
マーガレット・ミッチェルのたった一つしか発表しなかった小説1936年6月出版されると翌月にはデヴィッド・D・セルズニック(製作名)は映画化権を買い取り、即座に映画製作が始った。キャストのレット・バトラー、アシュレイ・ウイルクス、メラニー・ハミルトンは配役が決まったがヒロインが決まらずオーデションを行った。集まった1400人の中から9名がスクリーンテストを受けたが、いずれも決定に至らなかった。また主役が決まらないまま撮影は進んでいたところ訪米中のローレンス・オリビエが招待され、彼と恋愛中だったヴィヴィアン・リーが後を追ってきて、セルズニックの目にとまり翌日彼女が主役として発表されたのである。3時間50分に及ぶこの長大作映画は発表されるや否や全世界で次々と公開され、その後何度も上映され続けている。この映画の魅力は女主人公スカーレット・オハラの性格的悲劇として描かれているからであるが、南北戦争という巨大な破壊と暴力が人も自然も破壊し人々を苦しみのどん底に落とし込む姿がしっかりと捉えられているからに他ならない。そのことが歴史と人間・社会と人間を写し出している。
特筆すべきはヴィヴィアン・リーの美しさと激しい生き方を快演していること事で、この映画は彼女なしではこれほどまでに人々を魅きつけることはなかったと言える。戦後日本で公開された時に日本人の多くがこの時期にこんな映画を作れる国と戦争したことが如何に無謀なことであったかと実感したようである。
1941年 米 監督・脚本 オーソン・ウェルズ
天才オーソン・ウェルズの監督第一作の作品。アメリカの新聞王ハーストをモデルにした作品で、破産寸前の新聞社を買い取りニューヨーク一流の新聞に育てたハースト、彼のエゴイズムから妻は去り、愛人も自殺する。大富豪となった彼は何でも自由に出来たがその空しさは彼を孤独にし患部をむしばんで行く。ウェルズは自らハーストをモデルにした役を演じたが興行的には惨敗した。ハーストの息のかかったアメリカの大部分の新聞がこの映画を黙殺し広告の掲載を拒否したからである。徹底的な悪口を書く批評家もいてハーストはこの映画に対する憎しみの世論を作り上げたのである。しかしその後この作品の偉大さは全世界に知れ渡り、今では世界の映画の中の名作となっている。この映画の中で初めてパン・フォーカスという撮影法が工夫された。至近距離から遠距離まで鮮明に写す方法である。
1957年 スウェーデン 脚本・監督 インゲマル・ベルイマン
主人公イサクは80才位の老人である。彼は既に引退して田舎に住んでいる医学者で、都市部の大学で名誉ある賞を受けるために車で何時間もかかる道を行く。
出発当日の朝彼は夢をみる。道を歩いていると前方から馬車が柩を乗せてやってくる。開けてみると自分の死体が横たわっている。老人は嫁の運転する車で大学へ向かうが二人は折り合いが悪くすぐに口論となるが、その都度過去の嫌な思い出をつぎつぎに思い出す。子供の頃従姉妹の少女を好きだったが彼女は自分を好きになってくれなかった事、少女と一緒に摘んだ野いちごを摘みながら感慨にふける。彼等の車にヒッチハイクの若者達が乗ってくる。彼らの若さと陽気さが老人を幾分なごませる。また中年の夫婦が乗ってきて車内で口論を続けるとまた嫌な思い出に落ち込む。現在の不愉快な経験と嫌な記憶が相重なって老人はやっと授賞式に出席し疲れ切って宿舎のベットに倒れ込むが、ここで初めて愉しい夢をみる。過去の思い出と現実がともに苦い味で重なりあって映像化され、人間の孤独と生と死について考えさせられる作品である。映像は美しい。
イサク役はスウェーデン映画の代表的監督ビクトル・シュストレムでこの老人を見事に演じている。ベルイマンの作品は北欧の陰鬱でしかも難解な作品が多いがこの作品は
最も解りやすい作品と云えるし完成度も高い。
1971年 米 監督 ドルトン・トランボ
トランボは1939年にこの小説を書きレマルクの「西部戦線異状なし」、ヘミングウェーの「武器よさらば」とならぶ反戦小説の傑作として反響を呼んだが65才でこの自作小説を唯一の監督第一作として制作した。
第一次世界大戦で両手、両足、耳も眼も失って名前も失ったが、しかし神経は生きつづけその意識は確かなものによみがえる。物体化した人間がまさに人間そのものに復活していくさまを見つめた驚異的な感動編である。
第二次大戦の終盤から「冷戦」は始まり、日本に原爆が落とされたのもその一環といえるが、ヤルタ会談ではチャーチルとスターリンは冷たい火花を散らしていた。
米英ソの三国が共通の敵が外れるや否や米国政府は1945年1月非常設であった非米活動委員会を常設とし、1947年2月パーネル・トーマスが委員長に、有力委員にリチャード・ニクソンが就任するや満を持してハリウッドに襲いかかった。所謂ハリウッドの赤狩りが始ったのである。
映画はマスメディアとして最も重要だということと、映画人の知名度の高さを利用、証人として大スターや大監督を召喚すればアメリカ中の新聞のトップ記事となり政府が共産主義の弾圧に断固たる決意をもっていることを国民に知らしめる絶好の方法であると判断したのである。
非協力者予定者19人の内10人を召還、これが名高い「ハリウッド・テン」の面々であったがうちエドワード・ドミドリクは途中脱落した。
☆監督のハーバード・ビーバーマン。
☆シナリオ作家 アルバー・ベッシー、レスター・コール、リングランドナーJR、ジョン・ハワード・ロースン、アルバード・モルツ、サミエル・オーニッツ、ドルトン・トランボ。
☆プロジューサーのエイドリアン・スコットである。
映画界も当初アメリカ憲法第一条付帯条項委員会を結成500人を超える人員を擁して対抗したが、やがて国家権力と金融資本の力に屈服し彼等(トランボ達)を映画界から追放した。上記の9人は下獄しその後は映画関係に関わることが出来なかった。
1957年3月ハリウッドのパンテージ劇場でアカデミー賞の授与式が行われていた。
原作、脚本賞の順番となり司会者が受賞者の名を読み上げた。Mr.ロバート・リッチ「黒い牡牛」の原作に対する授賞である。プロジューサーが替わりに壇上に上がったがロバート・リッチは現れなかった。ライターはトランボだという噂は広まり、トランボ自身追放後匿名で30本以上のシナリオを書いていたことを認めた。やがて「栄光への脱出」「スパルタカス」で本名を出しハリウッドに復活するのである。
アメリカ映画界は赤狩りによって映画人個人の権利と自由を売り渡したことから有能な人材を多く失い(多くが海外へ移住)映画界全体に自由で創造的な空気が失われた事は当然の結果であり今日に至るも立ち直ることが出来ないでいる。
トランボはこの作品で政府の行った暴挙とそれに屈した映画界、そしてアメリカ国民に対して己の不屈の精神とその実力を誇り高く立証してみせたのである。
1937年 仏 監督 ジュリアン・ディビュビュエ
ピエール役 ルイ・ジューヴェ
シャンデリアの光、踊る裳裾 の波、モーリス・ジョベール作曲のワルツ、20年も昔の自分が社交界へ登場した頃の夢のような優雅な美しさと今の現実はこれを悉く打ち壊していく。主人公のクリスチーヌに昔愛を囁いた中の一人弁護士希望だったピエールは今ではキャバレーの経営者となっているが裏ではギャングの首領でありクリスチーヌの前で警察に逮捕され連れて行かれる。久し振りに再会した女と一緒にヴェルレールの詩を誦して失われた青春を思い出す。ピエール役のルイ・ジューヴェは舞台の名優としてまた演出家としてもコメディから悲劇まで何を演じても完璧だった。フランス演劇界の巨匠である。この作品の演技も素晴らしいが1935年「女だけの都」の生臭坊主も凄い。
☆-☆-☆ 2012年7月18日のブログも合わせてご覧下さい ☆-☆-☆
1952年 仏 監督 クリスチャン・ジャック
ファンファン・ラ・チューリップ役 ジェラール・フィリップ
一流監督は競って彼を起用したがった。特にルネ・クレールは彼を気に入り「悪魔の美しさ」「夜ごとの美女」「夜の騎士道」に起用している。彼の最高作は現実と夢の世界を往き来する「愛人ジュリエット」1951年だが、人気を高めた作品は1947年ミシューヌ・プレールと共演した「肉体の悪魔」であろう。「花咲ける騎士道」は大活劇娯楽巨編で美女ジーナ・ロロブリジータ共演もあり彼の魅力を存分に発揮させた作品となった。
1925年 ソヴィエト 監督 セルゲイ・エイゼンシュテイン
1917年10月ロシア革命に成功。社会主義共和国が誕生した。1925年3月19日全中央執行委員会の革命祝典委員会は若き天才(エイゼンシュテイン当時27歳)に記念映画の制作を命じた。ニーナ・マガジャノヴァ女史のシナリオは膨大であったが戦艦ポチョムキンの事件は8つのエピソードの中の一つであったが12月の記念祝典に間に合わせるために大幅に書き替えた。エイゼンシュテインの親友で助監督のシュトラウフが図書館で1905年革命の時フランスの画家がオデッサで軍隊による民衆の弾圧を描いた絵を見てエイゼンシュテインの想像力は大きく羽ばたき、即座にシナリオに書き加えられオデッサ市民の協力をえて数日の内に撮影が行われた。映画全体が根本的に作り変えられ、戦艦ポチョムキンとオデッサのエピソードだけで映画が作られることになった。
映画は専門の俳優は出演していない。革命前ヨーロッパ諸国に比して大きく立ち遅れていたソヴィエト映画の状況からエイゼンシュテインは研究材料として使い古されたアメリカ映画のプリントを払い下げてもらい、一つ一つの画面が何コマで組み立てられているか、一つの場面がどれ位の画面により成り立っているのか等細かく分析。またエイゼンシュテインは赤軍にいて国内戦を戦っていた頃モスクワの東洋語学校の先生と親しくなり、日本語と漢字を習った。特に漢字の性質に強い興味を抱いた口と犬が組み合わされると吠える、口と鳥で鳴くになる。一つ一つの字が持っている意味が組み合わされて全く新しい意味が生まれてくると云うわけである。彼はこういう漢字のモンタージュにヒントを得て世界に衝撃を与えるモンタージュ理論を生み出すのである。
1925年12月に間に合うように厳命されていた。祝典はモスクワのボリショイ劇場で行われたが、その当日になっても作品の編集が終わらなかった。出来た部分だけをもってボリショイ劇場にかけつけ映写が開始された。残りの部分を持って駆けつけ試写室に飛び込んだときは既に観客席は総立ちとなって拍手をあびせていたという。
「戦艦ポチョムキン」は西欧諸国で上映されると、上映禁止が相次いだが上映にこぎつけると、いづれの国でも大反響となり世界の名画として地位を確立した。
1952年ブリュッセルで世界中の映画監督にアンケートを出し映画史上のベストテンを投票してもらったところ断然トップで「戦艦ポチョムキン」が1位となった。第2位は「黄金狂時代」、第3位は「自転車泥棒」以下「街の灯」「大いなる幻影」であった。1958年にも同じような投票が行われたが、再び圧倒的な人気でトップに選ばれたのである。
1926年に横浜税関に来たこの映画は即座に追い返された。天皇制下の検閲制度は殆どすべてのソヴィエト映画の輸入を禁止した。太平洋戦争が終わってからも今度は商売にならないとの理由で上映されることはなく、1956年6月新しいプリントが日本の土を踏んだが、今度は輸入割当(占領軍が作ったもので輸入の70%を米映画とする)を、1951年当時に出来ていた輸入会社でないと割り当てをもらえない為に輸入できなかったのである。1958年10月「戦艦ポチョムキン上映促進の会」が結成され正式に輸入割当を獲得して全国の劇場で上映さると云う目的は果たせなかったがプリント一本を監督協会に寄贈してもらい非劇場上映という形で実現される事となるのである。
1975年 仏 監督 ドウッチョ・テッサリ
ゾロ アラン・ドロン
ドン・デエゴ 同 上
オルテンシア オッタビア・ピッコロ
ウェルタ大佐 スタンリー・ベーカー
スペインとカナリヤ諸島で長期ロケを行った。黒いソンブレロに黒いマスク、黒マントを翻し「Z」のマークも鮮やかに風の如く現れ、風の如く去る正義の剣士ゾロ。1920年にダクラス・フェアバンクスで、1940年タイロン・パワーによって映画化されている。
また日本で放映されたテレビ主演のガイ・ウイリアムズのゾロがあるが、何といってもドロンのゾロが傑出している。原作の「ゾロ」は淡い月光の下で活躍するのだが、ドロンのゾロはギラギラ輝く陽光の中である。特にラストの15分間にわたる悪役ウェルタ大佐との戦いは5週間にわたって撮影され折れた剣は400本。ドロンはこの重労働で体重が8kgも減ったと云う。ドロンの他の映画は殆ど常に憂いを秘めた表情がクローズアップされるが、この作品は「黒いチューリップ」と並んで”陽”であり、実に生きいきしておりこれほど活劇を軽々と楽しく魅力的に演ずることができる役者は今後も出ることはないかもしれない。「我が青春のフローレンス」でカンヌ映画祭で女優演技賞を受け、登場したオッタビオ・ピッコロは嵌り役で得な役どころ。その後出演作品が少ないのは残念である。ウェルタ大佐役のイギリス俳優スタンリー・ベーカーはアラン・ドロン自らの強い要請 によって選ばれただけに出色の悪役振りである。
1946 仏 監督 ジャン・コクトー
野獣及びアブナン ジャン・マレ-
ベル ジョゼット・デイ
ルブランス・ド・ボーモン夫人作のお伽話の映画化である。森の奥の古いお城に一匹の怪獣が住んでいる。破産して家に帰る途中の商人が嵐の中お城に迷い込んで朝帰り際に庭のバラを一輪折るや怪獣が現れて「お前は死ななければならない、娘を一人よこせば助けてやろう」と言う。姉にいつもいじめられて末娘ベルが犠牲になって怪獣の差し向ける馬マニフィックに乗ってお城に行く。お城の生活が始り怪獣は一日一回姿を現す。夕食後に同じ質問をする「私の妻になって欲しい」と。数日が経ち父親が病気と知り家に帰して欲しいと怪獣に頼む。帰ってくることを条件に娘を返すが戻りが遅く怪獣は死に瀕している。娘が怪獣を哀れむと魔法がとけ、元の姿に戻った王子と娘は王子の王国へと向かうのである。
幻想画家クリスティアン・ベラールのデザインによる衣装とセット、撮影のアンリ・アルカンでさまざまな技法を駆使して幻想的イメージを作り出している。商人が無人の城に夜中嵐の中迷い込むが彼が歩く前方に壁のろうそくに灯が点り、テーブルにつくと空中から腕が伸びてワインをグラスに注ぐ。怪獣がベルに宝石を与えるが、手の掌に宝石が自然に集まってくる場面、怪獣が死に、替わりに王子が甦る場面、そして二人が手をたづさえて天上に舞い上がる場面、怪獣の使い馬マニフィック等々全編楽しませてくれる。マレーは1937年「オイディプース王」のオーデションでコクトーの目にとまり(コクトー48才、マレー24才)コクトーの死まで公私をほぼ共にしている。
1958年 仏 監督 ジャック・タチ (主演・脚本・編集)
ぼくの伯父さんのユロ氏は金持ちのアルベール一家の一人息子ジュラール少年の伯父さんのことである。タチは少年の目を通して万事人工化され機械化された生活を奇妙なセットや視聴覚的なギャグと笑いのうちに描いてみせる。殆どセリフがない。
1953年「ぼくの伯父さんの休暇」で独創的な「ユロ氏」を創造してこの作品で完璧に仕上げている。タチは67年に大作「プレイタイプ」を公開するも興行的に惨敗し破産しているが彼はフランス国籍を持つロシヤの亡命貴族タチエフの息子である。ちなみに出演者は彼以外は全部素人である。
1937年 仏
監督 ジュリアン・ディヴィヴィエ
ペペ・ル・モコ役 ジャン・ギャバン
ギャビー役 ミレーユ・バラン
アルジェリアの無法地帯に潜むカスバのボス、ペペ・ル・モコはその場所から出れば即座に警察に捕まる状況にあったが、パリから来たパリのメトロの匂いをまとったギャビーの魅力の虜になって永年狙っていた刑事スリマンに逮捕される。港から出港するパリ行きの船の甲板に立つ彼女を見て逮捕された身のペペは「ギャビー」と叫ぶがドラの音にその声はかき消される。彼女はドラの音に耳を覆って客室に向かう。ペペは自ら動脈を掻き切って果てる。あまりにも有名なラストシーンである。アルジェアは1830年代から仏の植民地であったが、1910年から62年に独立するまで独立運動が活発なっていた。映画がつくられた当時このアルジェリア問題は不況やナチズムの脅威と並んでフランスを重苦しい空気に閉ざしていたのである。「望郷」は「舞踏会の手帖」と並んでディヴィヴィエの最も脂の乗っていた作品である。
1948年 英 監督・主演 ローレンス・オリビエ
オフェリア役 : ジーン・シモンズ
ハムレットの性格描写を主とした心理劇のため白黒映画としており、セットは13世紀の北ヨーロッパの城郭建築を考証してつくられている。1947年春から秋にかけて作られ,舞台では4時間半かかるが2時間半に縮められている。
脚本は「ヘンリー5世」に続いてアラン・ライトが担当している。デンマーク王クロディアスは性奸智に長け、兄を毒殺しその妻をめとり、王位と王妃を奪う。王子のハムレットは父王が蛇にかまれたという死因に疑念を持ち、父の死後すぐに叔父のクロディアスと結婚した母に不信感を拭えず憂鬱は日増しに濃くなっていくのである。エルシノア城の一角に夜な夜な父王の亡霊が現れると言う噂が拡まり、或る霧の深い夜、城郭にのぼりハムレットは父王の亡霊から「クロディアスに殺された。昼寝をしていた時に耳に毒薬を流し込まれた。但し母親のことは天に任せよ」と聞かされる。
復讐の誓いをたてたハムレットは時節到来を待つ。或る時城内に伺候した役者達を利用し「ゴンザコの悲劇」を上演、クロディアス王に見せる。劇は弟が兄の耳に毒を流し込んで毒殺、その妻をめとって、王位と妃を簒奪するという筋書きである。それを見せられたクロディアスは色を失って中座する。このことで母と二人きりになった母は父王に対して無礼だとハムレットをなじるがハムレットは逆に母の不倫を責める。
母はハムレットの狂気が嵩じたと感じて大声を立てるがカーテンの陰に隠れて様子を伺っていたオフェリアの父は女王の一大事と叫びハムレットの刺し殺される。
このことにより王はハムレットを英国に送り英国王にハムレットの暗殺を依頼するが乗った船が海上で海賊に襲われ海賊はハムレットがデンマーク王子であることを知って彼
の国へ送り返すのである。
オフェリアはハムレットに父を殺されハムレットも発狂したと思い込み遂に気が狂って
水に落ちて死ぬ。クロディアスはオフェリアの兄レアチーズを唆してハムレットと決闘
させる。剣に猛毒を塗ってあり、ハムレットは刺されるがレアチーズの剣を取り上げて
レアチーズはハムレットの前に倒される。
レアチーズは毒のまわった苦しい息の下からクロディアスの悪計をハムレットに告げる。クロディアスは万一に備えて毒杯を用意していたが女王はこの毒杯を仰いで死ぬ。
ハムレットは全ての扉を閉めさせてクロディアスを刺し殺す。
オリヴィエは有名なオウルド・ヴィックを再興した劇団の大立者でむしろ劇団のオリヴ
ィエとして有名なのである。映画はまるで西欧の古い銅版画をみるような味わいがあり、映画に於ける「ハムレット」の決定版である。
1956年 仏
監督 ロベール・ブレッソン
実在のアンドレ・ドヴィニ大佐の手記の映画化である。ドイツの占領下にあったリヨンでドイツのゲシュタポに捕われ死刑の宣告を受けたドヴィニは、モントリュック監獄の独房に入れられて、いつ刑の執行が行われるか判らない状況の中で4ヶ月間着々と脱獄の準備を進め、遂にその目的を達成する。ブレッソンはモントリュック監獄にカメラを据え終始ドヴィニ大佐の細かい指示を受けながら製作した。感情を押し殺し情緒的なものを一切排し映像そのものの力を信じて抵抗戦士の細かな 行動を冷徹な眼で見つめて人間の信念と意志の力を見せつけた作品となった。
入牢者の会話は情報を伝達するささやき、又扉のきしむ音、足音等それ以外の音は抑えられ、緊張感をいやが上にも盛り上げている。脱獄に成功した後、特別に喜びを表すこともなく無言で夜の中に紛れていく。再び戦いの場に。主演のフランソワ・ルテリエは無名の27歳になる哲学科の学生で、他の出演者も著名な新聞記者、劇評価、装飾家等を起用し俳優の起用はない。
1947年 仏
監督・原作 ジャン・コクトー
女王役 エドウィジュ・フィエール
スタニスラス役 ジャン・マレー
ある王国の美貌の女王は王が死んで支配者となっていた。女王の暗殺を企てる無政府主義者で亡き王に生き写しのスタニスラスは宮殿に忍び込むが、女王に匿まわれやがて愛し合うようになる。宮廷内で孤立する女王を助けて共に戦おうとするがかなわず二人とも毒と剣で死ぬ。誇り高き女王を演ずるエドウィシェ・フィエールが気品ある毅然とした美しさに満ちている。ジャン・コクトーは古典的な神秘の世界に耽溺するようになっていった。
1936年 仏 監督 ジャン・ルノワール
脚本 シャルル・スパーク
原作 ゴーリキ
場所、時代をフランスの現代に移し、男爵を没落する階級の象徴とし、泥棒ペペルを成長する新しい階級の代表として描き分けている。
同じシャルル・スパーク脚本の「大いなる幻影」の貴族階級のフランス大尉ド・ボアルデュー大尉とドイツ軍収容所長ファン・ラウフェンシュタインを没落する階級マレシャル中尉を労働者出身として描き分けたのと共通している。ジャン・ルノワールは画家オーギスト・ルノワールの次男で長男は俳優のピエール・ルノワールであり、また、人民戦線を熱烈に支持したことも、彼がトーキー以後好んで社会的視点から人間を見、作品を作るようになったことがわかる。ペペルをジャン・ギャバン、没落男爵をルイ・ジュヴェが演じ賭け事で財産を食潰し、自殺しようとする男爵を思い止まらせるペペル。2人の息の合った演技は見どころの一つである。
1954年 仏 監督 ジャン・ルノワール
第二次大戦中アメリカで生活していたルノワールは戦後もアメリカに滞在し5、6本の作品を残している。その後イタリヤで一作、1939年以来故郷パリに帰って始めての作品である。愛するフランスでフランス的な映画を作ろうとした気持ちが溢れる作品となった。「フレンチ・カンカン」はムーラン・ルージュの創始者シャルル・ジードレルを中心に芸に、興行にに生きる人々の美しい時代の群像を描く人生絵巻である。自由と生命がみなぎる19世紀モンマルトルを描き、ジードレル(映画ではダングラール)の興行師をジャン・ギャバンが貫禄十分に楽しげに演じており、洗濯女ニニイを当時人気絶頂のフランソワーズ・アルヌールが共演している。
ここに特筆すべきはイベット・ギルベールに扮するパタシュー・ユジュヌ、ビュフに扮するエデット・ピアフが「見知らぬ人よやさしくして」を唄う。アンドレ・クラヴォーが「小さな舗道」を唄っているがなんといっても声だけではあるがコラ・ヴォケールが主題歌を唄っているのが嬉しい。(モンマルトルの丘)。コラ・ヴォケールは詩人フィリップ・ヴォケール夫人で来日もしている。「さくらんぼの実る頃」「お城の階段」「白いバラ」「ソフィ」「グレゴリー」等のレコードも出している。どの唄も魅力十分であり、特に「ソフィ」「バルバラ」「フレディ」「白バラ」「グレゴリー」等は各一編のフランス映画を見る如く内容の詰まった美しい詩である。
1961年 ポーランド
監督イェジー・カワレロウイッチ
1962年日本で最初のアートシアターがスタートしたが、上映第一作がが問題のこの作品であった。原作はイワシキェウイッチの短編小説である。
17世紀のポーランドは文化的暗黒時代であった。またイエズス会がポーランドを混乱の極みに陥れた時代でもある。映画は閉ざされた世界、まさに出口なしの世界を描いている。
ポーランド東部の荒れ果てた僻地に立つ修道院の童貞女達の悪魔にとりつかれた乱交を鎮めるためにスリン神父が派遣される。前任者は失敗して火あぶりの刑にあっている。修道院に足を踏み入れたスリン神父は院長ヨアンナに会う。彼の当の相手であるが白い衣につつまれた悪魔のように美しい女である。スリン神父の努力の甲斐あってヨハンナがスリンへの愛に目覚め、悪魔に取り付かれた彼女が自分という個になった事実をスリンに告白する。
スリンは彼女の手に接吻するがこれは彼の愛の告白であった。スリンは自分の身体に悪魔が乗り移ったのを知る。彼は悪魔に懇願する”悪魔はヨアンナを去った。これでヨアンナは聖女になるのだが、悪魔が自分から去ったらヨアンナに戻るに決まっている。悪魔よどうか自分を捨てないでくれ”・・・と。
スリンは斧で2人の無関係の人間を殺す。「無償の行為」であるがこれは「愛の行為」であり自分の自身の中に悪魔を引き止めることでヨアンナを聖女にするために。悪魔払いを主題にして悪魔が乗り移った修道女達の性的な錯乱状態を描いているが必ずしも宗教的映画ではない。閉ざされた世界に置かれた人間の特殊なあらわれかたから真実を探求し人間の自由を考えようとするものである。
1946年 英 監督 マイケル・パウエル
クローダー デボラ・カー
ディーン デイビット・ファーラー
ルース ギャスリン・バイロン
カンチ ジーン・シモンズ
ヒマラヤ山麓に近い高地に尼僧院が作られることになりリーダーのクローダーら5人の尼僧が赴任する。僧院は旧後宮跡の建物で壁には男と女の抱き合っている絵が描かれている。以前に男の僧達が赴任したが直ぐ撤退しており、地元の唯一の白人案内人のディーンは彼女達が続くかどうか極めて懐疑的である。彼女達はすぐに何事をするにもディーンの手を借りなければ何も進まないことを知らされる。仕事は教育と医療であるが地元の人と徐々に親しさをましていくが危険な患者は手掛けないようデーンに忠告を受ける。もし患者が死ぬことがあれば事業の継続はおろかこの地に止まることは出来ないのは当然である。やがて彼女達は信仰とあまりに異なる厳しい環境の間で精神的に追い詰められていく。ディーンに心を奪われたルース尼は許しなく還俗、ディーンのもとに走るが受け入れてもらえずに原因はクローダーにあると判断、鐘つき堂の建つ断崖から彼女を突き落とそうとして誤って自分が落下する。クローダー一行は結局敗北してこの地から去って行く。色彩が素晴らい。
黒水仙とは麻薬的な香りであり、別にお稚児さんの意味もある。この地の王子が黒水仙の香水をつけていることから題名にしたのであろう。15~16歳の少女カンチが勉強中の王子を誘惑して彼の学業を放棄させるがカンチをイギリス女優ジーン・シモンズが演じている。クローダーはデボラ・カーで嵌り役。ハリウッドに行ったのは失敗であったとつくづく思う。
クローダー役のデボラ・カー 6態
1954年 伊 フェデリコ・フェリーニ監督
ザンパノ役 アンソニー・クイン
ジェルソミーナ役 ジュリエッタ・マシーナ
キ 印 リチャード・ベイスハート
大道芸人で大男のザンパノと薄幸な女ジェルソミーナの旅を描く。ザンパノはオート三輪車を運転しながら鎖を胸の筋肉で切ったり、道化芝居をして見せたりして旅をする粗野で疑り深く暴力と欲情以外に生き方を知らない男である。ジェルソミーナは彼に金で買われた揚句鞭で打たれて芸を仕込まれる。何とか彼に馴染もうと努力するが全く受け入れられない彼女に,人生を信じるように教えた新しい友人道化師のキ印を怒りにまかせて殺したザンパノを絶望の淵へ沈んだ彼女は許すことが出来ないままザンパノを責め続ける。言い知れぬ恐怖に悩まされ続けたザンパノは彼女を道端に棄てたまま逃げるように立ち去る。
数年後ある港で流れてきた美しいメロディで歌っていた女に聞けば4、5年前にここで病死した気違い女が子供達によく聞かせていたという。その夜例によって酒に酔い喧嘩の
果てに袋叩きにあって店の外に出されたザンパノは浜辺にひれ伏し男泣きに泣き続ける。キ印がジェルソミーナに語る「どんなものでも存在価値があるのだ。たとえ道端の石ころでも」という言葉はまるでまるで仏教の言のようである。「悉く佛心あり」と符合している。これがジェルソミーナを勇気付け自信を持たせるのである。
キ印のヴァイオリンのメロディがジェルソミーナを経てザンパノの心にしみとおる。極めて力強く直接的な感銘を我々に与えるのである。
フェリーニはロッセリーニの無防備都市(1945)、戦火のかなた(1946)の原案、脚本に協力し、最も影響を受けた人がロッセリーニであると云っているが「道」は上演時ネオ・リアリズムから著しく乖離していると云うことで左翼の人達から批判された。
フェリーには「道」についてこう語っている。「道」は映画が利用しうる手段によってこのようなことを表現しています。それは男と女のつまりザンパノとジェルソミーナという生来お互いを理解することなどまずありそうにないように見える人と人との超自然的で個人的なコミュニケーションを見せようとしているため、自然で政治的なコミュニケーションだけを信じ込んでいる人々によって攻撃されてきたのだと思います。だが映画が熱心に見せようとしているのはただ全く人間同士の関係のなかで女性がどんな機能を持ちうるかということ、そして女らしい感情(あるいは女性の詩情とでも言いましょうか)が他人を精神性と愛へ引き寄せるさいにいかに重要なものであるかということを問いかけているのです。
映画が見せるのは沢山のありそうな例のなかから選び出した人間的な例なのです。つまり映画が見つけることが出来そうな例で、しかもひょっとしたら人間同士が一緒に生きることの最も希望のない例を見せています。またこの関係の暗さがいかにゆっくりと
変化をとげて根源的で超自然的な社会へと花咲いていくものであるかを見ようともしています。