大江健三郎の定義集を読む
◎言葉の曲者(くせもの)について大江健三郎は随所で語っている。
1.政府は強制しないと(当時は小泉首相)言明した国歌及び日の丸の旗が東京都に於いてどうなっているか。文科省が作った「心のノート」は全国小中学校に配られ「その他の」「その他適当な方法によってと書かれているが実際は強要されている。」曲者(くせもの)その1
2.日本史の教科書で「集団自決に追い込まれたり、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般市民もあった」「県民が日本軍の戦闘に妨げになるなどの理由で集団自決に追い込まれた人々もいた」曲者その2
誰が、なにか、追いやり、追い込んだか、主語を隠す、そして受身の文章にして辻褄を合わすと大江は指摘している。
3.曽野綾子が渡嘉敷島の戦跡碑に刻ませた言葉「3月7日豪雨の中を米軍の攻撃に追い詰められた島の住民達は恩納(オンナ)河原ほか数ヶ所に集結したが、翌8日敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或いは車座になって手榴弾を抜き、或いは力ある父兄が弱い母や妹の命を断った。そこにあるのは愛であった。この日の前後に394名の島民の命が失われた(6年生の社会科)
曲者 その3
追い詰めたのは果たして米軍だけか?母親も幼児も自分で死を選んだのか?
愛という言葉はこのような言葉か?
4.被爆国の道義的責任とは何かの中に
広島平和記念式に参加した菅当時首相が挨拶で「唯一の戦争被爆国である我が国は
核兵器のない世界実現に向けて先頭に立って行動する道義的責任を有していると確信しています」 曲者 その4
その数時間後の記者会見では核抑止力は我が国にとって引き続き必要だ。首相の挨拶で非核3原則の堅持を誓ったけれども同じ日、官房長官はその法制化の必要はないと明言した。(核抑止力とは核による恫喝のこと)
5.魯迅の「人をだます言葉」
亡くなる年東京の総合誌の社主に寄稿をすすめられ「私は人をだましたい」と書く。魯迅は実に注意深く書くが、日本側は検閲する。魯迅は上海での戦争を語るが日本側にとっては事変であり伏字にされる。伏せ字は死体、俘虜である。魯迅が注意するのは中国の権力についても同じ。そこで「人をだます」ことを学ぶという。 別の曲者である。
日支親善のもっと進んだ日を待たねばならない。遠からず支那では排日即ち国賊(中略)あらゆる処の断頭台上にもxxxを仄めかして見せるほどの親善になる
だろうか併しこうなってもまだ本当の心の見える時ではない。
(xxxは太陽的円圏(日の丸)
原発が潜在的抑止力とは
「原発を維持すると言うことは核兵器を作ろうと思えば一定期間のうちに作れる
という「核の潜在的抑止力になっている・・・・原発をなくすと言うことは潜在的抑止力を放棄することになる(石破茂自民党政調会長)当時「サビオ2011.10.5」
日本が原発でいつでも原爆が作れると堂々と誇示したのであす。
曲者ではなく明らさまな主張です。
大江健三郎は一貫して原爆、原発に反対している。
我々は原発を容認することによって諸外国に対して原爆を作る準備を整えているのだと恫喝しているのを認識することが大切である。
原発を作ることに固執している最も大きな理由は原爆の原料である原発の廃棄物
(プルトニウム)を製造することにあるのではないか。
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