山陽は文士とはなったが小説の類は作らなかった。しかし「日本外史」の中で戦闘の描写をするのに文学的効果を挙げるために時刻を史実から半日もずらしたりしている。(注「日本外史」-数多くの書籍から膨大な書き抜きを行い、それを山陽の文体に直したものである。外史とは官製の物ではないことを明らかにしたいが為の意図による)文化年間の末の山陽は開塾匆々で年中生活の不安に脅えて、数少ない弟子達にも親身な態度で当っていた。時にはパトロを兼ねた弟子も迎えている。次第に名声も上がり多くの弟子達が集まってくると、天下国家の議論を聴かせるようになり、多くの慷慨家が育っていった。晩年の山陽は慷慨家とは又別の特徴をみせる。多くの弟子達は晩年の師の慎重で現実的な生活態度の影響を受けて、且っての山陽が嫌っていた仕官への道へ進むことになる。
慷慨家グループが反体制だとすれば、このグループは体制内で自己実現を図る道を選んだのである。
山陽死後はグループに分かれて争うことになる。天保3年山陽が死の床にあった時不治の病(結核)を自覚した彼は病床に於いて未完成の著述の完成、整理を急行した。「日本政記」(日本外史から除かれた部分を集め集大成をしたもの)
死の床にあった3ケ月間彼は最も勤勉に著述の仕上げに当り、自分の死について思想的考察を行う余裕はなかった。疲れれば阿片によって眠り、目覚めれば弟子達の浄書した原稿を校正し、臨終に際しても藤陰の差し出す「政記」の跋の誤字を訂正する為に眼鏡を掛けたままだったという。山陽は安定した藩儒の地位を自ら拒否し京都の町儒者として生き、漢詩という輸入された外国語を駆使して明治の改革を乗り越えて知識階級はもとより庶民にまで熱烈でかつ広範囲な支持者、
愛好者を持ち又意の赴くままに多くの友人、知人を積極的につくり多くの弟子を育てて、動乱ともいうべき時代を巧みに生き抜いたのである。
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