浄心寺石佛描く

文京区浄心寺石佛

江戸城開府時に城築城の為、全国から石匠が集められた。日本橋には石町という町名が戦後直ぐまで残っていた。明暦3年(1657年)の振り袖火事で江戸城は焼け、修築の為に各地から安山岩等を舟で江戸城に運んだのである。工事を終え石工達は仕事がなくなったが、寺より平安時代から続いていた墓に佛を刻む依頼が始まり、一般の町人にこれが伝播し空前の石佛ブームが起こったのである。

 

17世紀の半ば頃に江戸府内で三百五十万基の石佛が造られたのである。今東京には約三千の寺院があり、現在三十万の石佛が遺存されている。その多くが無縁塚として境内の隅に集められたり、セメントで固められたり又は転がされていたりしている。日本全国には一千万余りの石佛が存在していたと思われるが今その一~二割しか残っていないであろう。田中角栄の日本列島改造でその貴重な文化財は蔽履のごとく破壊されたり埋められたりしてしまったのである。

 

作品は文京区向丘にある浄心寺に存する舟形光背に真誉西念法師(明和九任/辰天六月十一日)とある。無縁塚としてセメントで固められた無残な姿で二十体余りのなかの一体であるが、その端正な美しさは今までみてきた数千体の石佛の中での白眉の一体である。私の過去十九回の展覧会の中でDMに4度登場してもらったいつまでも心に残る石佛である。