「藤田 嗣治 異邦人の生涯」 近藤史人著

藤田の生まれは東京牛込区新小川町。父は森鴎外の次の軍医総監を務めた陸軍の軍医であった。代々の名門である。家庭は自由な雰囲気に包まれており、子供の個性を尊重して育てようとしていた。小学校時代は秀才で、14歳の時画家になりたいと父に打ち明けた。父は藤田を医者にしたいと考えていたが画家への志を認め画材を買うようにと当時は大金の50円を与えた。18歳で東京美術学校に入学するが時の指導者、黒田清輝の教える絵画は藤田を満足させることはなく、26歳で新妻のときを日本に残して渡仏する。30歳まで父が費用を負担する条件であった。

 

当時のパリはシスレー、モネ、ピサロ、セザンヌ、ルノワール、ゴーギャン、ゴッホ、ヴァン・ドンゲン、ピカソ等の活躍する二つの大戦に挟まれたモンパルナスは外国から集まる芸術家たちによって、独特の廃頽と狂乱に彩られた文化が花開いていた。

 

藤田は「乳白色の肌」で一躍画壇の寵児となる。一般のキャンパスは二つの層から出来ているが、藤田のキャンパスは三つの層から出来ている。まず布の上に膠を塗りその上に硫酸バリュウムを塗り、更に鉛白と炭酸カルシュウムを1:3の割合で混ぜて塗った独創的なもので、藤田はその製法を秘密にしていた。体を縁取る黒い線によって肌の美しさは際立たしているが、面相筆を使用し墨汁で描いており、洋画と日本画から独特の手法をつくり出したのである。

 

1929年アメリカに始まる世界恐慌によってパリも狂乱の時代に幕を閉じて、冬のj時代がやってくる。画家の生活も困窮に追い込まれてくるが、1930年代は、一方映画は全盛時代となるがナチスの足音が高くなり次第にペシミズムの色に覆われるようになる。

戦火を逃れて日本に凱旋帰国した藤田は正当に評価されることなく、宣伝屋のレッテルを貼られたエコールド・パリの時代。誰もが戦争画を描いたにも拘らず、藤田の責任だけが追及された終戦直後。離日後も藤田の絵は荒れたと悪口を叩かれた戦後。1955年夫人と共に仏に帰化し、1959年洗礼を受けカトリックの信者となった。洗礼名はレオナルド・ダ・ビンチから取ってレオナール・藤田となる。戦後日本を去って2度と日本に帰ることはなかった。藤田は悪い思い出しかない日本と決別したが仏でも異邦人でしかありえなかったのである。

1886年11月27日生まれ(明治19年) ~ 1968年1月29日没 昭和43年)