平成23年99歳で亡くなった佐藤忠良の自伝である。明治45年7月宮城県に生まれ6歳の時父を病気で亡くし、母は30歳で6歳と2歳の兄弟を抱え北海道へ移転、女手一つで和裁を生かして育てたことは並大抵の苦労ではなかったことであろう。
忠良は3年に亘ってシベリヤへ抑留されたが、その中で何事でも手に仕事を持つことが極限の世界で生き抜く力となる。大工さんでも、左官屋さんでも職につかせられると同じ配給のものを食べながらしゃんとしてしまうのであると述懐している。忠良の作品は「群馬の人」で初めて日本人の手で日本人の顔を作ったと評価され、その後「木曽」「常磐の大工」「魚商の女」と続くのである。いわゆる「汚な作り好み」の作品の数々であり美男・美女でない。日本の人の顔を自信を持って創りだしたのである。それにしても彼のデッサンの凄さは実に驚くべきもので美しい。
またロダンが言葉の中で「習いごとは徒弟でないと駄目だ。生徒は駄目」といった意味のことを語っているが、いま私ども(忠良)はこの言葉の持つ意味をしっかりと考えてみなければならないときにきているのではないだろうかと警鐘を鳴らしている。
永年たゆまず努力を続けた結果、忠良は具象彫刻作品の類例をみない美しさに到達したのである。
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