名人栃錦の活躍していた当時の相撲界

栃錦
栃錦

昭和20年代に相撲の醍醐味をたっぷりと味あわせてくれた力士がいた。

栃錦である。
昭和26年春場所から30年夏場所あたりまでが全盛期で、横綱時代は勝率こそ高かったが、その魅力はそれ以前にあった。

26年春場所、初日から7連敗したが、その後8連勝して勝ち越し(当時前頭2枚目)本場所が15日制になって以来、今日に至るまでこの快挙をなしとげた力士は彼以外にないのである。

当時は全盛期の東富士を筆頭に、アンコ型で色白の人形のようで、しかも相撲の巧い照国、筋骨隆々、不動明王か金剛力士のような風貌で力強い相撲の羽黒山の横綱陣、大関陣は突っ張りの千代の山、汐の海、佐賀の花、関脇は美男で豪腕の吉葉山、体力に恵まれ右差し大きな相撲を取る鏡里と150キロを超える力士がひしめいていた。
栃錦は80キロに満たない体格で、取的のころ、生涯の親友出羽錦と初ッ切り(ショッキリ、興行相撲の最初に行うコントのようなもの)をやっていたが、初っ切りと弓取りの力士は大成しないと言われていた。

 

初土俵は昭和14年春場所であった。途中戦争末期に応召入営している。復帰して22年夏場所に入幕、177センチ、77キロの小兵力士で名うてのしぶとさと左いちがいの、とんだり、はねたりの半端相撲で、誰一人として名人横綱と称されるようになるとは予想するものはなかった。
体力不足を補うため右からの攻めと猛烈な稽古と無類の研究熱心で重量力士に対抗できるスピードと技の豊富さを身につけていった。

 

26年夏場所小結となった栃錦は3日目巨漢 不動岩と対戦、突いてくるのを右手でその左手を取り、腕をかいくぐって飛び込み、襷反りの奇手で敗る。この決まり手はその後、二度と出現していない。

 

27年秋場所関脇栃錦は大関吉葉山と一敗同士で対戦。当日40度の高熱を発していた栃錦は、早い相撲を考えて立会い左足を飛ばして蹴たぐりにいき、吉葉山これを残すと両手で強烈なノド輪攻めに出た。栃錦これを外して、左で外無双を切るが残され、左四ッガップリとなるや、吉葉山を引き付けて吊り、左足をとばして二枚蹴りを放った。栃錦得意技の一つである。吉葉山の巨体はドッとばかりに倒れ落ちた。この場所初優勝大関に昇進。

 

28年春場所13日目栃錦1敗、東富士2敗優勝をかけた一番であった。東富士176キロ、栃錦105キロ、立会い素早く双差しとなり、そこへ東富士は得意の上手出し投げを打っが、これを残すや、東富士の左肩を顎で押さえて右下手出し投げに東富士横転、2度目の優勝。

 

30年夏場所千秋楽、既に優勝を決めていた栃錦は新大関大内山と対戦。
205センチ、142.5キロの大巨人で対栃錦戦に常に闘志を燃やす大内山は、立ち会い、栃錦の顔面を張り、突っ張りを数発、集中、脳しんとうをおこしながら栃錦、下から組みつく,大内山これをカンヌキでしぼる。栃錦二丁投げ、左内掛け、二枚蹴りと連続技を繰り出し大内山振りほどいて再度突っ張りまさに乱闘ついで双差しの栃錦を大内山、左から栃錦の右を抱え押して出た。栃錦異常速度で引き、大内山必死で追うが栃錦左差し手を抜くやいなや大内山の首にまき乾坤一擲、首投げを打つと大内山の両足は木村庄之助の頭の上を越して一回転し空を舞って土俵に沈んでいったのである。戦後相撲史上の名勝負といわれる首投げであった。

 

一度も誉めたことのない春日野親方がこの一番を誉めたといわれている。

若い頃の稽古場での、あまりのしぶとさに六代目菊五郎があの食らいついたら離れない小さいのはなんて名だ。まるでマムシだな。きっといい関取になるよと言ってから「マムシ」の異名をとる。小兵の彼を支えていたのは最後の最後まで決して諦めない闘魂であった。

 

同時代の代表力士は東富士である。身長179センチ、体重176キロ、東富士が花道に現われると観客の大きな拍手に「キンちゃーん」と次々に声がかかった。愛称で声援を受けたのは東富士以外にいない。稽古場に双葉山が現われたときに30歳。

幕内の関取の誰もがその胸を借りるが憧れで、十両以上でなければその夢はかなわなかった。栃錦はそんな中で三段目にも拘らず神様双葉山体に2度触っている。当時幕下の東富士は、その将来性を見込んだ双葉山の薫陶をうけて散々に可愛がられた。自分の後継者を見込んだからである。

 

19年11月、新関脇の東富士は23歳、双葉山33歳に初挑戦に勝利し双葉山は「安心して引退できるよ」と東富士に声をかけて翌年6月場所で引退。誰もが双葉山の後継者とみて、明るいキャラクターと江戸前のキップの良さから絶大な人気を誇った。全盛時代はその小山のような巨体で、立つとすぐに左差し、ドットばかりのガブリ寄りに相手はなすすべなく土俵を割るしかなかった。残されたとみるや、得意の上手出し投げが待っていた。

双葉山の再来と誰もが思った逸材であったが6度の優勝のうち全勝も連続優勝もない。淡白な性格で勝負に対する執着心が乏しい勝負師として向いていない性格が大横綱になるのをさまたげたのである。

 

巨人朝潮は特に栃錦戦となると実に巧い相撲をとり、丁度鶏を追い込むように西脇から挟みつけるように前に出る取り口で、度々苦杯をなめさせられている。長く大関を張った琴ヶ浜は90キロに満たない体格でありながら、胴長の特徴を生かして、立ち会い素早く左四ッになるや、自分は上手を握って、腰を振って相手の上手を切り、相手が上手を取りに来るところへ左足一閃、目にも止まらぬ早業で刈り倒し、実に勝ち星の半数以上がこの内掛けであった。

 

双差し名人信夫山は双差しになるやいなや出足鋭く前に出る取り口で上位の力士を悩ませた。日常の鍛錬に常に寝るときまで両脇に藁を挟んで寝たと云われていた。

 

北の洋は、左差し、一散に前進する出足の鋭さは上位陣に警戒で、残されて土俵に詰まると、綱打ちの奇手で逆転を狙うしぶとさをみせた。四ッ相撲の巧い時津山四肢の名手、上手投げの清水川、忘れてならないのは栃錦にとって苦手中の苦手玉の海である。110キロあまりで右差しの怪力の持ち主で相撲巧者の栃錦に対し右を引っ張り込む大きな相撲をとられて大の苦手としていた。松登は「突貫松登」と称され、150キロの巨体の突進をまともに受ければ誰でも土俵下にとばされる凄みがあった。各人が自分の型を持っており、この型になれば横綱でもそうはいかんとの自負を持っていた。

 

さて好敵手の若乃花である。若乃花は栃錦より3年遅れで初土俵。3歳下である。26年夏場所掛け投げで若乃花が勝って以来、激闘を展開、若乃花が大関に上がる頃までは若乃花の出世のかかる大事な一番をことごとく栃錦につぶされてきたが大関に上がる頃からは次第に若乃花が優勢となっていった。通算は栃錦の19勝15敗である。横綱後の栃錦にスピードと技能の冴えと旺盛な闘争心が少しづゝ失われていき、若乃花の力が上回って来たことによるだろう。

 

若乃花は全盛時代でも100キロに届かない体格にも拘らず、頭をつけて相撲をとったことがない。常に相手十分で、自分は上手でも下手でも右でも左でも褌を取れば十分という相撲で、褌をつかめば、自分の倍以上の体重の力士でも投げ飛ばす驚異の力を発揮、その代わり下位の力士にも苦杯を嘗めることが多いことから異能力士と呼ばれたが、大関に上がるころから少しづつ取りこぼしもなくなり、鬼神のごとき強さから「土俵の鬼」とうたわれた。

横綱になってからは当日の取り組みが盛り上がらないとみるや、対戦相手の双差し名人信夫山に対し、双差しを許し、自は褌をとることなく、相手に十分攻めさせたあと土俵に足がかかるや観客をあわやと沸かせたあと、やおら褌をつかむと信夫山を放り投げて観客にため息をつかせた。

 

登り調子の若手「褐色の弾丸房錦」の突進を止めたとみる間に上手から呼び込み、いきなり左差し手を突きつけるや、房錦の体は両足を天井に向けて頭から土俵に落ちていった。呼び戻しの荒技で別名仏壇返しとも云う。よほどの力の差がなければありえない技であった。観客はこれを見て若乃花の強さがどれ程のものか驚異の目を見張った。

 

若乃花に対抗できたのは栃錦ただ1人であったのである。栃錦の上手出し投げの冴えは上手を握り相手に上手を渡さない体勢から、相手が上手を欲しがって前に出た時、体を開いて下に打つのが基本で、相手は土俵中央から土俵溜りまで飛んだほどの切れ味であった。また二枚蹴りは、自分の倍の体重の相手を吊り上げて両足を払う技で、余程の足腰の強さがないと不可能な技であったが、得意技の一つとしていた。

 

2人とも強靭なバネと強い足腰を持って、信じられない程の稽古によって驚異の肉体をつくりあげ、不屈の闘志を前面に。あれ程の華麗で力強い肉体の作り出す芸術ともいうべき又こんなことが出来るのかと観客に思わせる様式美と肉体のつくり出す取り組みの数々を表現してくれたエンターティナーであったのである。82手の決まり手の中、60を越える技を繰り出していたのである。

 

ただ勝つだけでない相撲のしきたりと型にのっとった様式美の上に立つプロだけにしか出来ない相撲を見せてくれたのである。

 

彼等が引退した後にも多くのスターが輩出したが匹敵する力士は1人として出てはいないと思う。