○ 江戸時代はどんな時代だったのか。
学校教育の影響から、今日に亘るも偏見に満ちた謬論が罷り通っている。
1. 江戸時代幕府の基本方針
(イ)8世紀の始めの大宝律令に定められた法律を継続、成人男女に割当て支給する耕
地と税制、刑法である。税法は米換算でその大半は絹、塩、鉄、紙、油で日本列島
は3,700以上の島からなり、農耕地になりうる土地は25%にみたないのが実情で、
旧来人口の80%が農民と云われていたが、その実態は30%程度であったと見られ、
年貢米は税令の30%程であることが現在の調査の結果である。
しかし幕府は米による税収を中心と考えていた為(税収は米で換算)に室町時代から
江戸時代の前期まで150年程の間に耕作地を3倍に拡大、いわゆる新田開発を積極的
に行った。
今まである灌漑設備を使って耕地開発をした者にはその身一代に限って、又新しい灌
漑設備を作って耕地開発をした者には、子、孫、曾孫の三代に亘って耕地の私有を認
めている、いわゆる三世一身法が制定されていた。
又、幕府は治山、治水の事業も活発に行っている。(17世紀半ばに作られたその代
表ともいえる江戸の用水路玉川上水は羽村から四谷までの工事がある)
(ロ)対 外 政 策
鎖国とキリスト教禁止
鎖国後の方がそれ以前よりも対外貿易額は増加している。そもそも国家というものは
どんな時代でも必ず鎖国体制(対外的に管理体制)をとるもので、当然の施策でっあ
た。 キリスト教の禁止、弾圧についてはスペイン人がメキシコやペルーで実施した
キリスト教の役割は、武力と一体となり、その植民地経営方式は奴隷制と変らず現
地人の人命などは人間とみなされず、無償で金、銀の採掘等に使われて多くの人命
が失われ、労働力不足に陥ったスペイン人はアフリカから黒人奴隷を大量に導入しな
ければならなかったのである。その後ローマ法王庁は現地人も人間であったと従来の
考えを改める宣言を発している。(以前の見解は人間として認めていなかった)
キリスト教は植民地政策に不可分のものであり、秀吉以下の時の権力者が行った禁止
令は西欧人が日本をメキシコやペルー化しようとする意図を防ぎ、日本の独立を守る
大きな役割を果たしたのである。
江戸幕府によってつくられた260年に及ぶ平和は世界にも例をみない大平の世をつくり
だした。これがいかに稀有な事であったかは明治、大正、昭和に連続した戦乱からも明
らかである。
当時の税収は請負制と云われて村は自治的に年貢を請負っていたが、このような体制
は文字と数字を百姓たち自身が使えなくては成立しないもので、村の成立と文字の普
及は不可分の関係にあった。町にしても同様で村以上に多くの人々が数字、文字を駆
使して、それなりの自治を保っていた。
幕府は徹底した文書主義をとっていたのである。
農民は全体の人口の30%、他に漁業、商業、林業、職人と多様な構成で独自の自治権
を有して、一定の自由が存在していた。
識字率は全国で50%前後とみられ、江戸府内に限っては70%を超えてたり、当時の世
界で群を抜いていた。
○ 生 活
各国がその処理に苦慮していた糞尿は発酵熟成させて肥料とし、板切れから紙片至る
まで再利用した完全なリサイクル社会を実現させ、当時世界一の都市であった江戸を
中心とした治安、衛生面でもヨーロッパ各国がそのことに驚嘆していたのである。
女性の地位
離婚率は非常に高く、法制的には夫が離婚の専権を持っていたが、実情は圧倒的に女
性の権限が強く、いわゆる”三くだり半”も夫に書く義務があったようだ。結婚の際に
女性が男性に書かせたものであった。特に江戸は出稼ぎの都市で女性の数は少なく、
火事の多い冬には女性を都外に避難させる家が多く、冬場の女性人口が大幅に減少し
ている。
女性は大事にされて、日本では男女各自が自分の財産を有して、時には妻が夫に高利
で貸付けてもいた。
女達は財布を握っており両親にも、夫にも無断で一日でも数日でもひとりで好きな所
へ出掛けていける自由を有していた。伊勢参りなどは日本全国の安全と女性の自由の
その大規模な見本である。
裁 判
律令国家以来、耕地は少なく、割当てられた土地は遠方の場合も多く、土地を領所、
寺社、領主に寄託する事が多かった為に世代の交代に伴って所有権をめぐる紛争が頻
発、農民達は誰と組んで、どこに訴えるかを考え、至る所で訴訟が発生、鎌倉幕府も
そのあまりの多さに悲鳴をあげている。江戸時代に入ってもそれは変らず、江戸に多
くの公事宿があったことから、その数の多さが見てとれるのである。
百姓(農民、漁民、職人、林業等)が虐げられてばかりいたのではなく、自分の権利
を生活の為に、力を尽して賢く闘い、したたかに生きていたことがみてとれる。
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