モハメド・アリ死す

2016年6月3日 米アリゾナ州の病院で死去 74才。オバマ大統領は「モハメド・アリは世界を揺るがした。そして、それによって世界はより良い場所になった。ベトナム戦争への反対や、信仰を理由に米軍への入隊を拒否して王座を失っても立場を貫き、やがて復帰して勝利したことが、今日の米国に私たちを慣れさせてくれた」と声明を出している。

 

アリは1942年7月米ケンタッキー州ルイスビル生れ。60年9月ローマ五輪の L ヘビー級で金メダルをとり帰国直後に南部のレストランで入店を拒否され、金メダルを川に投げ捨てている。このときから彼の態度は一変した。すぐさまプロに転向、アンジュロ・ダンディの指導を受けて優雅さとスピードを兼ね備えたヘビー級の稀有のボクサーが誕生する。ヘンリー・クーパーを破って勢いに乗り、次戦で王者フロイド・パターソンを2度に亘って1R KOに下し王者について最強と謳われたソニー・リストンに挑戦。予想を覆えして6R終了後リマトンの試合放棄によるKOで王者につき、再戦では1R KOに下し、スターダムにのし上がる。

 

その後カシアス・クレイからイスラム教徒としてモハメド・アリに名前を変えて欧州で3度、カナダで1度、アメリカで5度タイトルを防衛したが、ベトナム戦争に対して「私はベトコンと戦う理由がない」として徴兵拒否を表明。

ボクシングの統括団体はライセンスを剥奪、これを取り戻すのに3年を費やすのだ。


1971年3月、タイトル復帰を狙ってジョー・フレージャと闘うが判定に敗れ初の1敗。

しかしアリは不死鳥のように再起、1974年10月ジョー・フレージャーを6度ダウンの上KOに下したジョージ・フォアマンに挑戦。フォアマンの戦跡は38戦全勝35KOと無敵の強さを示して、「象も倒す」と皆はその強さを表現した。

アリは73年3月の対ケン・ノートンとの試合で顎の骨を折るダメージを受け、又健康状態も思わしくなかった。試合は開始早々からフォアマンが一方的に攻めて、アリがロープに釘付とになる展開となった。アリのコーナーはロープに詰まるな、足を使えと声をからして叫ぶが、アリはこれに応ずることなくロープに詰まったまゝ、アーム・ブロックで顔面を覆いまともにパンチを受けないようにして、時折鋭い左ジャブを放って対応、いわゆるロープ・ア・ドープ作戦である。

フォアマンは試合の9割を4R以内に終らせていて、自分のパンチ力に絶対の自信をもっていた。しかし自分の必殺パンチをいくら繰り出しても倒れない相手に始めて遭遇し、

自分を失っていた。冷静さを欠き無闇に体力を使い、苛立ってワンパターンの攻撃をくり返し消耗していった。8Rすっかりスピードが落ち、力のなくなったフォアマンを確認するや、突如としての右ストレートが無防備のフォアマンの顔面を直撃し、フォアマンはよろめくようにマットに沈んでいった。
もはや立ち上がる気力も体力も失っていたのである。人々はこの試合を「キンシャサの奇蹟」と呼んだ。

 

1975年10月1日フィリピンのマニラでのタイトル戦で、永年のライバル、ジョー・フレージャーとの3戦目である。お互いに1勝1敗。

フレージャーはアメリカ、サウスカロライナ州ビューフォード生まれ極貧の中に育った。

1964年の東京オリンピック、ヘビー級の金メダリストのあと65年プロ転向。

68年にアリが剥奪されたタイトルを獲得する。71年3月アリからダウンを奪って文字通りの王者となったが73年フォアマンに敗れタイトルを失った。


さて、アリ対フレージャーの15回戦はアリも足を止めてお互いに1Rから死力を尽くして打ち合う意地と意地のぶつかり合は14Rまで続いて試合の帰趨はどっちに転ぶか分からなかったが、終盤のフレージャーの消耗の方が激しく、意識も朦朧とした状態をみてレフリーはR終了時コーナーに確認。トレーナーのエディ・ハッチは「座れ、我が息子よ。これで終りにしよう、今夜のおまえの戦いは誰ひとりとして忘れはしないさ」とフレージャーに語り棄権を申し出るのである。

この一年後フレージャーは引退する。戦跡 37戦32勝4敗1分。

 

アリは代名詞となった「蝶のように舞い、蜂のように刺す」の言葉通り、リングの上で軽やかにステップを踏み、スピード豊かな右ストレートを駆使して、ボクシング界に新しい時代をもたらした文字通りのスーパースターであった。
又ベトナム反戦運動にも大きな影響を与えたアメリカの反戦運動の象徴的存在ともなったのである。


アメリカは自身がボクシング界から追放したアリに対して2005年11月市民に与える最も栄誉ある勲章「大統領自由勲章」を与えている。