遠藤周作「沈黙」を読む

徳川家光の時代島原の乱が鎮圧されて間もない。
キリスト教弾圧の最も厳しかった頃、日本に派遣されていた英才フェレイラ教父の行方

が知れなく、なりやがて長崎で穴吊りの拷問を受けて棄教したとの報告が教会にもたら

された。

 

ローマでは4人の司祭逹が集まりフェレイラの棄教という教会の不名誉を雪辱する為に、日本での潜伏布教とフェレイラの棄教の実態を調査するべく、又当時30万人とも云われる信徒を有した日本を放棄することは許されなかった為でもあり、ポルトガルの3人の

司教を派遣することが決まった。

密航の途中一人は病に倒れ二人は何とか日本上陸を果たすが、間もなく捕らえられ、

苛酷な拷問を加えられついに棄教のやむ無きに至る。

 

物語の結末は始めから予測できるのであるが、作者はキリスト教徒としての信仰上の悩

みをここに色濃く投影している。

 

一人残った司祭ロドリゴは処刑される直前獄中で番人の鼾らしい物音が執拗に伝わって

来て、その愚鈍な鼾に腹立たしさを抑えきれないが、実はこの鼾は信徒が穴吊りにかけ
られてその呻き声であると知らされて、ロドリゴは棄教に至るのである。
激しい拷問が続くにもか拘わらず、神は頑なに「沈黙」を守ったままであり、ロドリゴ

は信者の祈りは神に届いているのか、それとも神は存在するのかと、問いかける。

 

ヨーロッパでは常にこの問題がくり返し問われている。

 

サルトルの劇作「悪魔と神」の中に主人公傭兵隊長ゲッツが悪のかぎりをつくして生き

てきたが、ある時サイコロを振って絶対の善を誓うが、その結果は悪の時代よりも遥か

に大きな犠牲を払うことになる。

ゲッツは「天に言葉を送った。なんの答えもない。天はおれの名だって知られておらぬ。いつもいつもおれは自分が神の目に何でありうるかを心に問うてきた。

いまやっと答えがわかった。無だ。神にはおれなど見えぬ。おれの声など聞こえぬ、

おれなどという人間は知られておらぬ。おれ達の頭上のあの虚空がお前にみえるかい?

あれが神だ。沈黙が神だ。不在が神だ。神は人間の孤独だ。ただおれがあるのみだった

のだ。おれ一人で善を発案した。いんちきをしたのはおれ。奇蹟をやったのもおれ、

今日のおれを裁くのはおれ。おれの罪をゆるしうるのもただおれ一人だ。おれ、つまり

人間だ。もし神が存在するなら、人間は虚無だ。もし人間が存在するならば・・・」

と語り神は存在しないと悲痛な叫びとともに、ゲッツは農民運動の指導者となる。

映画「第七の封印」でも神は存在するのかが主題となっている。


一神教でない私などは、こうした問題提起がされる度にある種の戸惑いを覚えざるを得

ないのである。