大岡昇平「戦争」

大岡は昭和19年3月35歳で近衛歩兵第一連隊に召集入隊し、暗号手に配属される。

3ヶ月の教育召集の後除隊。7月に半月かゝってミンドロ島にやられた。

ミンドロ島はレイテの次に米兵が上陸したところでレイテとの間は700km。

彼は暗号手として討伐や演習にいくことはなく、比較的楽な軍隊生活ではあったが、マラリアに苦しみ、米軍に包囲され退避する日本軍から足手まといと置き去りにされ、残されたところで自殺を計るが手榴弾が不発で死ねないうちに米軍の俘虜となる。

 

やがて復員した彼は「マッカーサーがパイプをくわえたかっこうは、いきだけど、向こうで見たのはミンダナオかどっかで日本兵の死骸の山の中に立っている写真だった。こいつが日本の民主主義を育てる王様だとはどうしても思えなかった」「当時の日本は完全にマッカーサーの強制収容所みたいになっていた」「 ガンサーの『マッカーサーの謎』の本にマッカーサーの言葉として『日本列島が強制収容所なんだ』とある」「マッカーサーが民主主義とか云っているけどそういうもんじゃないんだ。1947年3月ころからトルーマンも日本を対ソ連の基地にしようと考えが固まってくるんですね」と語っている。

 

1941年11月から2年7ヶ月をかけて「レイテ戦記」を書き上げる。

ミンドロ島では4百人行って20人しか残っておらず、レイテ島では9万人行って、2千人しか残っていない。

 

資料は主にアメリカの公刊戦史を使っている。復員後俘虜達は村八分にされたり又は銃殺されるのではと多くが思っていたらしい。

彼は「自分の国が攻め寄せられた時の愛国心てものは、これは強いけれども、国を愛するからよその国へいって掠奪して、よその国の人間を殺してもいいかと言うと、これはそうはいかない」また「日本の徴兵制度は奴隷的なものだったから脆かったんですよ」と述べている。

 

更に「今までやってきた核戦争というものをパッタとやめてしまうと、そういう企業はペシャンコになってしまう。

これは同時にアメリカの経済全体を破壊してしまうことになるでしょう。

その経済体制を継続していくためにもあくまでこの競争を続けていかなければならない訳です」と喝破している。

最後に「戦争と言うのはいつでも、なかなかきそうな気はしないですよね。人間は心情的には常に平和的な人だから。しかし国家は心情で動いているのではない。戦争が起きた時にはもう間に合わないわけだ。強行採決、なんにも議会には計らないで、重大な外交、内政問題をどんどん休会中に決めてしまう今の政府のやり方を見ていると、いつどんなことが行われているかわからない。

権力はいつも忍び足でやってくるんです」と結論している。

 

本書は1970年に大光社より刊行されたものだが、こゝに語られている事柄は今も現実問題としてまことにリアルに私達に迫ってきている。

 

現に9月28日朝日新聞の天声人語に「安倍首相が所信表明演説で領土などを守る決意を述べたあと、海上保安庁、警察、自衛隊に今この場所から心からの敬意を表そうではありませんかーーと呼びかけた。自民党議員たちは一斉に立ち上がって拍手を始め、首相も壇上から手をたたいた。とある。

 

当日の朝日川柳には 

 ○ 斜め前 右手を上げればうりふたつ (ハイル・ヒトラー)

 ○ よみがえる「兵隊さんのお陰です」 (第2次大戦中の標語)      

 ○ 起立せぬ議員いずれは非国民    (きな臭さが加速してきた)

 ○ 万雷の拍手で送る死の戦場     (あながち杞憂とも言い切れなくなって

                                 きた昨今)

これが日本の現実的政治状況である。