宮本 常一(1907~1981年)は民俗学の泰斗である。渋沢栄一の孫、敬三の援助を受け
日本全国を歩き、農業、林業、漁業をくまなく調査し「民俗学の旅」を始め多くの著作
を出版する。
1960年「忘れられた日本人」で宮本の名は不朽のものとなったのである。
歴史を科学的に分析する歴史科学と、庶民の生活を描き出す民俗学を兼ね備えた民俗
学者であった。
対馬では村所有の「帳箱」を代々大切に伝えており、外部の人に開帳するに当っては寄
り合いを開き、結論が出るまで何日も延々と論議を重ねている。
この寄り合いは200年近い資料も残っている。
「対馬にやぁ虚空宏大もない魚がいて、海は魚で埋まっちょる」との広島の漁師の言葉
を頼りに、玄界灘をいく周防大島の久賀の漁師。更に話しを聞いた伊豫国から漁師が
ブリ釣にやってくる。
対馬から九州より、朝鮮のほうがはるかに近いことを考えると、朝鮮との交流のほうがもっと頻繁であったろうと考えるのが自然であったろう。
福井県敦賀では10数人の老女が民家やお堂に集まって、食事を定期的に共にして話し合い、彼女達は「世話焼きばっぱ」「泣きごとの会」「おばすて山的世界」をつくってい
た。一定年齢に達すると隠居し、年寄りは村の政治的公務から手を引くか、祭礼行事な
どにたづさわっていた。
開放的な「エロ話」が多く語られ「気品のある女には恋歌を書いて渡すと大ていは言う
ことをきいてくれた」等おゝらかな性の解放が明治初期まで続いていたことが分かる。
村の寄合いは郷士も農民も区別なく対等であったという。
これは京都、大阪以西にみられるもので、以東と著しく異なっているようで江戸時代ま
での日本は単一的社会でなかったのが窺われるのである。自由な社会は明治政府によっ
て統制されていったようである。
封建時代の中でむしろ現代よりも貧しいながら、いきいきとたくましく生きる人々の
姿がまぶしい。
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