野党協力の深層 平野 貞夫 著

① 衆議員事務局に33年正、副 衆院議長秘書を6年、参議院議員等の経歴を有し、日本の政治史に携わってきた永田町の生き字引である著者は小沢一郎氏と半世紀に亘って

親交を続けており、文字通り同志とも言うべき関係にある。

宮沢喜一元首相から「永田町のなまず」と呼ばれた。

 

② 共産党との関係
彼の先祖は自由民権と議会開設運動で知られる「土佐自由党」に関わり、戦前は父方か

ら1人、母方から2人が非合法共産党に入党しており、当時彼の両親は上田耕一郎、

不破哲三兄弟の父庄三郎と土佐で啓蒙活動を行っていた。

母方の弟が私の知人田辺均氏で(いとこ同士)父親は土佐の教育者上庄こと上田庄三郎

と一部論壇で話題となった「アナ・ボル」論争を行っている。

 

③ 1950年6月マッカーサー書簡で共産党は24名の公職追放を受け、機関紙「赤旗」は発行禁止となり、日本全国にレッド・パージがが吹き荒れた。

1952年4月日本は独立国となりパージは解除されたが、日本政府はアメリカの共産党非合法化の要求に妥協し、破防法が制定される。これは治安維持法の再来とも云うべきも

のであった。1952年衆院選に共産党は107名の立候補させたが当選にはならなかった。破防法の威力を見せ付けられたのである。その後少しづつ政治勢力を拡大していったのが国民の中に根強く残る武装闘争のイメージを払拭するのに苦労を続ける事になる。

 

④ さて、1957~8年頃に上田耕一郎、不破哲三兄弟による理論書「戦後革命論争史」が出版されたが党中央委員会の批判を浴びて本は絶版となり自己批判をさせられている。

 

1961年第8回大会で決定された新綱領で日本の革命の道すじとして2段階革命論が提唱

された。1段目は政治、経済、軍事総てに亘って日本を支配するアメリカ帝国主義とこ

れに従属する日本の独占企業を打倒することによって、真の独立と自由、民主主義を勝

ち取る事、すなわち民主主義革命である。その為に労働者階級を中心とした民族、民主統

一戦線政府をつくり、民主主義を発展させて革命の政府とした社会主義革命建設すると方針を定めた。しかし「革命論争史」は打倒すべき相手としてこの2者と天皇を中心として存在する家父長制度等の根強い封建的勢力をも一掃しないかぎり民主主義革命は成功しないと論じていたのである。これが党中央の批判を浴びた原因であった。

 

兄耕一郎は本では共産党と言えば獄中で非転向を貫いた闘士のイメージが強かった時代

にイタリアではレジスタンスの中心となって闘った共産党に対する国民の厚い信頼があり、得票率は常に30%を超えて大きな政治勢力となっていた。党首ベルリンゲルは、貴族出身の事もあり、その理論、弁論、立ちい振る舞いから絶大な人気を誇り、当時イタリアに大統領制があれば当選確実と言われたものであると述べている。


日本に於いても27歳と24歳の兄弟の論文の内容は誠に切れ味鋭く、多くの論客の理論を取り上げて論評し、私達を魅了した。日本にも古いイメージを払拭し、若い才能溢れるスターの登場をみる思いがしたものである。まさに日本版ベルリンゲルの登場を思わせた。

その後の2人の目覚ましい活躍は皆の周知するところである。

 

さて議会の中で少数政党として論議の外に置かれ続けてきた感があった共産党も少しづゝ勢力を拡げ、優秀な人材も次々に参加し、議会活動に熟練の度を加え綱領の基本を守りつゝも、与党と渡り合い、又、妥協点を見つける作業も地道に探って来たのである。

当時の自民党には優れた人材も多く存在しており、マルクス主義の洗礼を若い頃に受け

た人も多いことから造詣が深く議論を挑んでくる議員も少なからず居て今のように議員

のレベルが低く強行採決を連発するような事は行われていなかった。

お互いの違いを承知した上で妥協点を探す作業が双方の努力で粘り強く続けられていた

事が平野氏の文章から良く伝わってくるし、双方の議員個人個人が仲々良く描かれている。

 

さて小沢氏の主張だが、今の自民党に対しかつての自民党は許容範囲の広い政党であったが、現在の党は異常な状態で、考え方も体質もあらゆる意味で以前と異なっている。

又民進党の混迷の原因はリーダーの問題であると断じている。小沢氏の安全保障についての考え方は

1.政府の憲法9条解釈は自衛以外の実力行使、あるいは集団的自衛権に基づく実力行使は認めない。

2.国連が国際社会の平和維持の為、必要な措置を担保する「国連集団安全保障」を

憲法前文や第9条は国連の設立や憲章の精神からしても「集団的自衛権」とは別の理念

である。

3.「国連集団安全保障」に参加することは憲法のこれまでの運用になかった事態への「新しい運用」であり解釈改憲ではない。国連軍への参加も憲法上可能であるが、武力

行使的なものに参加する事は出来ないと云うものである。

もし一国平和主義で自分のところだけが安全であれば良いのか、これが世界に通用するのか自立した日本として考えたとき国連中心の平和維持機能を認めていく必要がある。

でなければ個別にやるという事になり、米国など特定の国と国際紛争で武力を行使するのは「リンチ」ですと語っている。日本政府の云うところの「集団安全保障」と小沢氏の語る「国連中心の集団安全保障」とは全く別物であることは明らかである。経済的にはポスト冷戦時代は米国の金融資本が企んだマネーゲームによる経済成長で世界を引っぱってきたが、リーマンショックで分かるように挫折した。安倍自公政府はマネーゲーム、ものづくりといえば軍事産業、原発であり国内需要と国内消費をきちんと生活に即していかないと、低成長でも国内需要があるような仕組みにしていかないと、もし中国経済がはじけた時などの事態に対応できないとも語っている。

安倍政治の暴走によって、今まで思いもよらなかった小沢一郎氏と共産党の現状認識と打開方法についての急速な接近を生み、反共主義の流れを引きづって現状を見ない民進党が完全に現実からとり残されて来たのが現状の事態であろう。