その9. コラ ヴォケール
映画「フレンチ・カンカン」の中で「モンマルトルの丘」原名は”丘の嘆き”ジョルジュ・
ヴァン・パリス作曲。ジャン・ルノワール作詞を吹替えで歌っているのが詩人フリップ・
ボケール夫人のコラ・ボケールである。
当時日本ではボケールのレコードが発売されていなかった。その後CDが出されて
聴くことができるようになった。彼女の唄う「さくらんぼの実る頃」「オー・マルシュ・
デュ・パレ」(お城の階段)「ソフィ」「グレゴリー」「白いバラ」等いずれも1曲で
フランス映画の短編1作品となるようなものばかりだ。
「モンマルトルの丘」歌詞 以下いずれも要旨。
聖ヴァンサンの街角で、かの詩人が名も知れぬ女と過ごしたひと時の
逢瀬は二度とめぐりこず、春の朝今ひとたびの邂逅を何処かの街の片
隅に、詩人は女を偲びつゝ、託した夢がこの愛の歌 云々・・・と続く
「白いバラ」
てんの帽子をかぶったあの娘はモンマルトルの丘に無邪気な様子で
いたのだった。人はあの娘をバラと呼んだ。きれいだった。
咲きそめた花のように彼女はいいにおいがした。サン・ヴァンサン通りで。
あの娘は生活の為に働いていた。春をひさいで。
夏むし暑いたそがれにジュールにめぐりあった。
男はとてもやさしかったので一緒に古い墓地のそばで、まる一晩過ごした。
しかしジュールはひもの一味だった。この男はこの娘が客をとりたがらない
とみると、ナイフでぐさりやってしまった。サン・ヴァンサン通りで。
戸板の上に体を横たえた時、この娘はもうまっ青だった。
葬儀屋たちは「かわいそうに、この娘は死んでしまった。婚礼の日に、
サン・ヴァンサン通りで」
映画の中の歌手たち
ウージェニー・ピュフェをエデット・ピアフが。ポール・テルメェをアンドレ・クラヴ
ォーが。イヴェット・ギルベールをパタシューが歌っている。(注)
映画 「フレンチ・カンカン」はジャン・ルノワールが1939年アメリカに亡命、195
5年帰国第一作としてこの作品を作った。ムーラン・ルージュの創始者シャルル・ジードレールを中心に芸に生きる人々の人間模様を描いた作品である。
ルノワールは戦前迫り来るファシズムに反対する立場からフランス人民戦線結成に熱い支持を表明し名作「大いなる幻影」を製作した頃の社会への参加の熱意を総て失ってしまって、フランスの敗戦後の人々の現状や将来の希望等に全く興味を失ったかのように見える古きよき時代をひたすら懐かしんで描くようになってしまったのである。敗戦後の占領下の厳しい環境を逃れて緊張感を失ったアメリカの地での15年は取り返すべくもなく、フランスに止まって作品を作り続けたマルセル・カルネとの差は途方もなく広がっていたのである。
作品としての出来は流石にそつのないないものになっており、それなりに楽しめるものになっていたが。
(注)
① エディット・ピアフは曲芸師の父とストリートシンガーの母の間に生まれた彼女は母と同様に街頭で歌で投げ銭を受けていたが、やがてステージ・デビュー。
ダミアについで現実派シャンソンの象徴的存在となった。
交通事故の痛み止めで用いたモルヒネやアルコール依存症に苦しんだが、モンタン、アズナブール、ムスタキ等多くの若い才能を発掘している。
人気曲「愛の賛歌」は試合の為にアメリカに行く途中、飛行機事故死した恋人でボクシング ミドル級世界チャンピオンのマルセル・セルダンに捧げられたものである。
② アンドレ・クラヴォーはシャンソン歌手に珍しい甘い美声の落ち主で「パパと踊
ろうよ」で父と幼い娘とのデュエットがある。またルイ・アラゴンの詩による「エルザの
瞳」はその底流に民主主義渇望の思いをこめて絶品の歌唱である。
③ ベル・エポックのイヴェット・ギルベールは南仏生れの貴族画家トウルーズ・ロ
ートレックがモンマルトルの盛り場に出入りし、パリの風俗を生き生きと描いた。
石版によるポスターで描いたギルベールで有名となっている。
その10.ダリダ
1935年イタリア生れ、幼年期エジプトのカイロに移住。父はオペラ劇場の第一ヴァ
ィオリン奏者であった。1954年ダリダはミス・エジプトに選ばれ1956年ミュージック
ホール「オランピア」のオーデションを受け1957年「バンビーノ」でデビュー。
大ヒットして一躍スターダムに昇る。粘りのある天賦の声と、スケールの大きいフィー
リング情感タップリで歌うシャンソン歌手となったが、イタリア生まれからイタリア的な
節まわしがあり何といってもイタリアのカンツォーネを歌うダリダ一番魅力に溢れて、
力量を発揮すると云えよう。美人で大人の成熟した女性の魅力充分の歌手である。
しかし、私生活では恋愛に翻弄され54才で自殺して愛と悲哀に満ちた人生を送っている。