5. 王羲之
400年続いた漢帝国の滅亡のあと、魏・呉・蜀の3国並び立つ時代に入ったが、魏の王位を簒奪した司馬一族は3国を平定して、晋帝国を建設する。
王羲之は西晋時代に生れ東晋時代に活躍した名門の出身で護軍将軍等を歴任。351年会稽内史に任じ、353年3月3日の佳節に同地方の名勝蘭亭に地元の名士とその一族等41名を招いて曲水を流れる盃(サカズキ)を手に自作の詩を朗詠した。そのときの詩27編を編んだものが「蘭亭集」であり、その巻首に羲之が毫を揮って書いた序文が「蘭亭序」である。
唐代に入って本人も能書家である太宗皇帝が「蘭亭序」を切望し、やがて羲之7代の孫の智永の所蔵となっていた「蘭亭序」は太宗の陰謀の果てに略奪に等しい手段で我が物にして、当時の名だたる欧陽詢、虞世南、褚遂良に下命して臨書させた。「定武本」「張金界奴本」「神龍平印本」等数多く残る。太宗の死後、遺命によってその昭陵に陪葬されて、永遠に元本は失われたが、写本によって残された「蘭亭序」がみられる事は誠に有難い事であると云わねばならない。その点での太宗の役割は大きかったのである。
6. 北魏の書
北魏(南北朝時代)西晋滅亡(316年)に中原の有力な豪族達は難を避けて揚子江の南
に移住した。その地は天然財に豊かであり更に開発によってその強大な経済力が門閥貴
族の黄金時代を造りあげた。彼等は遊惰な耽美生活を貪り、その文化は奢侈的であり修
飾的であった。
一方中原に踏み止まったのはそれだけの実力や財力が無かった人達で、勢い文化の程度
も低かった。五胡十六国の時代(317~439)次々に侵入する北方民族に虐げられてこ
の地は疲弊しきっていた。
モンゴル系の鮮卑族の一部 拓跋部から出た拓跋珪が魏王朝を建設(398)山西省の大
同に都を定めた。孫の世祖太武帝に至って、華北を統一(439年)南北朝時代の始まり
である。北魏はこの西晋の文化の残骸を引き継いで質僕なものであり、南朝の高度な
文化を渇仰した。しかし当時南朝との政治的対立はその自由な交流を許さず、南朝の文
化を輸入する事は困難であり、従って北朝の文化は鎖国的状況のもと、残った文化を洗
練し、みがいて特異な様相を呈するに至った。
今日極めて多くの1.碑 2.摩崖 3.造像記 4.墓碑 が残されており、碑は
「張猛龍碑」に代表される峻厳な作品が多く残され鄭道昭(テイドウショウ)の摩崖は
気品高く北朝有数の名筆である。460年代から30年間に最盛を迎えた雲崗石窟の夥しい数の石佛群は豪放さと雄偉さで類をみない見事さを示しており、朝鮮半島経由で日本の
飛鳥の佛像の製造を可能にした。
この雲崗石佛は日本美術の渕源と云って過言ではないし、佛像彫刻の一つの頂点を極め
たものである。
六代孝文帝の遷都した洛陽は長く中国の首都であり、古い漢文化の伝統が遺っており新
たに創り始められた龍門石窟の数多い造像記にみる勁健な書法を作り出したのである。
孝文帝は百官の俸禄制を採用、農民支配の手段として三長制、均田制を施行した。
均田制はその後 随、唐へと受けつがれて行く。孝文帝は494年洛陽に都をうつすと鮮卑の旧慣習を禁じ、風俗、姓名等を中国風に改めた。これらは鮮卑族の反発を招き、国家
の衰亡が始まる。一方、魏、晋以来濫りに碑をたてることは法令で禁止され、南朝にな
るとそれが一層厳重となり石碑を建てることが南朝では殆んどなかったと考えられ、
残るのは極めて少ない。
(注)三長制:北魏の隣保制度 五家に隣長を、五隣に里長を、五里に
党長を立て治安維持にと徴税機能の強化を図った。
486年に制定
均田制:成年男子とその妻、奴婢、耕牛に対する土地の分配を規定した。
これは日本でも施行された。
班田収授法 ー10世紀始めまでー
7. 初唐の三大家
初唐に古今その比を見ない名人・大家が排出して、中国書道史上の黄金時代を創りあげている。久しく南北両朝によって分断されていた中国は、新しく文化も統一融合をみるに至った。
中国史上稀に見る英主といわれる太宗の時代は文化の統一が完成した時代であるが、南朝の文化は純漢民族の文化であり、鮮卑族に支配された北朝の文化に対して圧倒的に優位を占めたのは当然とも云うべきであり、書も当時栄えた貴族政治を反映したものとなった。
イ. 虞世南(ぐせいなん)
南朝の陳生まれ、やがて隋に使え、唐に帰している。太宗の信頼が極めて厚く、天下の名蹟の鑑定も任されている。智永の指導を受け南朝の優雅な書風を継承した。孔子廟堂碑は原石が亡失して、三井氏聴永閣に残る唯一の唐拓本によってみる事が出来る。均斉美を保った貴族的な匂いを感ずる柔らかな美しい作品であり、書を始めた女性に好まれる作品でもある。
ロ. 欧陽詢
彼も虞世南と同様な経過をへて、唐に帰し天才的な頭脳をもっていたと云われて後年天子の最高顧問・給事中という要識についている北朝の書(特に張猛龍碑)を学んだのではないかと思わせる俊抜さに及てほかの追従を許さない楷書の代表格の位置づけは今日に至るも変わることがなく、群を抜いている。現代の様々な書展を見ても「九成宮」を臨書しているのは極めて少ない。ごまかしのきかない作品で、実力が剥き出しになる事は勿論、書いた人物の人格や人間性まで曝される事になるからである。永遠の楷書である。一般的に書家の間では「つまらない」と考えているご仁が多いようである。あまりに無表情にみえるからであろう92年の春にさるグラフ誌に九成宮の特集が出され、当代一流の書家の面々が、各々に自分の臨書を載せたのは良いが、いずれも九成宮とは似てもにつかぬ縁もゆかりもない字ばかりであった。欧陽詢の書は刃物で紙の上から下の机までも切り裂くような力強さと切れ味が命であり、筆で捏ねて書く字ではない。
ハ.褚遂良(ちょすいりょう)は4月20日付けの「願真卿」その3に続く