顔真卿「王羲之を超えた名筆」展 東京国立博物館に関連して(その三)

ハ.褚遂良 (ちょすいりょう)

唐の太宗が侍中魏徴(注1)に向かって「虞世南の死後はともに書を論ずるものがいない」と嘆いたのに対して魏徴が「褚遂良は、甚だ王逸少の體を得ております」と答えたので太宗は即日褚遂良を召して侍書を命じたという。

遂良はこの年起居朗(注2)という天子の側近の官に移っている。遂良の先祖は代々南朝に仕えた名家で父は褚亮で博覧強記、詩文に優れ、隋の煬帝の時には太常博士となり、書法も一かどの見識をもっていたと想像される。

魏徴は書の収集家として著名であったので亮の子遂良も彼の家に出入りして強い影響を受けていたと思われる。書は始め虞世南に学び極めてめぐまれた環境にあったと云わねばならない。

太宗は王羲之の書を購求する勅を発し高価に買とることとした為に四方の妙蹟が悉く集り起居朗、遂良等に参校させて、2290紙を得装して13帙128巻とした。

太宗の集収した書の管理を総て行ったことから誰よりも多く古書蹟を見る桟会をもって自分の書法に大きな影響を与えたに相違ない。

やがて欧陽詢も没し、書道の第一人者となった、細身でありながら流麗さを増し近代的な書法を作りだした。

 

注1 魏徴

 唐初の功臣 高祖の太子李建成に、次いで太宗に仕え、しばしば諫言したことで知られる。

 

注2 起居朗

唐代 起居舎人と共に皇帝の宮中での言動を記録する官。

 

ニ.玄宗皇帝

太宗の死後、皇帝側近の権勢と攻争で攻情不安の時代が続いた。中宗の皇后韋一族が実権を握り帝を毒殺、帝の甥隆基はクーデターを敢行し韋氏一派を打倒し父の旦を即位させやがて帝位につく、玄宗皇帝の誕生である。

彼は名宰相姚崇、李環を信任して政治に励み前代の悪弊を除いて公正な政治の再建に努めた対外的には突厥を圧服し、契丹奚を帰順させて北方の平和維持に成功。経済文化の発展と相まって平和と繁栄の時代をつくりだす。しかし律令政治が整備される一方で官僚化はあらゆる面で空洞化が始まり玄宗自身も政治姿勢が緩み始めて、寵臣を宰相とし政治をゆだね高力士らの宦官を重要し、息子寿王の妻楊太真を奪って自身の貴妃としたあたりから帝国の危機は進行していった。一方イラン系の父、トルコ系の母をもつ安禄山は6種の言語を操り、やがて唐の辺防軍全体の3分の1に及ぶ大兵力を握った。とくに楊貴妃にとり入って養子にしてもらい宮廷に食い込む。しかし楊貴妃の兄楊国忠は宰相となるや、禄山の勢力を恐れて禄山に謀反の疑いありと皇帝に讒言する。この時代一たん皇帝に疑惑をもたれたらこれに弁明する手段はなく、反乱するしか残された手段はなかったのである。やがて楊国忠と安禄山の両軍は激突し玄宗は蜀に逃れるが途中、兵士の間から楊一族の専横に責任ありとの不満が噴出し楊貴妃は高力士に縊り殺されるのである。

乱後、長安に戻るも幽閉された玄宗は獄中で死去する。

均田制は崩れて農民の没落が始まり、府兵制も行わなれなく寡兵制が採用されるようになるがその為に安禄山の台頭が起ることになる。

荘園は王侯貴族や官僚、寺観によって大々的に開発され農民は小作人化した為に国家財政は逼迫、律令政治は行きづまった。中央の権威は失墜、中国の古代帝国の最後を飾ったこの国もやがて終焉を迎えるのである。