顔真卿「王羲之を超えた名筆」展 東京国立博物館に関連して(その四)

9.懐素

唐中期の書家で早くから仏門に入り顔真卿から張旭に学び、ある夏の夕方、国に漂う雲のありさまを見て筆意を悟ったと伝えられる。千変万化の狂草を得意とした。良寛は51才から狂筆と呼ばれる。懐素の「自叙帖」を習いはじめ良寛風へと書体は変っていくのである。

 

10.宗の文化

隆盛を極めた唐王朝も玄宗と楊貴妃の時代を最後に以後200年変動期を迎える。律令制・均田制を基礎とした中国の中世社会は崩壊したが、その後ほぼ200年をかけて不死鳥のように甦ったのである。その大きな柱となったのが、隋代に創始された高等文官試験「科挙」である。1年に100~200人の合格者を出す超難関な門を突破した超エリートの官僚集団が形成され、以後1000年に及ぶこの体制が続くことになる。10世紀半ば中国を統一した宗王朝は目覚ましい文化の発展を遂げるのである。

ここで忘れてならないのが8代皇帝徽宗である。彼は政治にはやや不向きであったが、詩書・画をよくし、特に花鳥画に巧みで、自ら美術学校を設立して「校長」に納まり直接指導に当っている。我国の大名達にも愛された「桃鳩図」は日本の国宝にも指定されている。

書は痩金体と呼ばれる独特の書体を創始している。中国皇帝の中でも屈指の文化人皇帝であったし文化の発展に大いに力を注いだ(注3)

書では蔡襄、米芾、蘇軾、黄庭堅の4名を輩出している。

特筆すべきは、ヨーロッパの美術の古典はギリシャ・ローマ彫刻であるが、アジアでは宗時代に創造された水墨画がそれに相当する古典であり、又青磁の名品が多く造られ特に「汝官窯」の神品はまるで宝石に優る優品と当初から喧伝されて、その美しさは類例をみない。

宗文化の高さは我々の想像をはるかに超える高さにあったことは間違いない。

今回の展示で徴宗皇帝の「痩金体」がみられなかったのが残念である。中国史上の美術の黄金時代をつくった功労者であるからだ。

甲骨文字、金文から唐代宗代の書まで習得するのは拓本から直接独学で学ぶのが良い。間に中間書家を挟まないことを願うのみである。

 

11.許慎の説文解字

許慎は後漢の人で広く五経の学問に通じており紀元100年に文字を字形によって分類し、その意味と構造を説いた「設文解義」を成書上進した。

「説文」は15編、字形によって分類した最古の字書で奏の小篆を中心として9353字及異体字1163字を六書の原理で分析し、540部に分類し一文字毎に説明解釈を施して本書としている。

後漢から今日に至るまで久しく文字学の聖典とされていたが、今日許慎がみることが出来なかった文字創成の時代の資料が大量に出土してい以来「設文」の不備が言われるようになり。従来の権威を維持する事は困難となった。

しかし新しい文字学を樹立する為には従来の文字学についての徹底的な検討を通じてその虚構性を破壊することが必要であったが中国・日本の文字学者達の多くが「設文の理論体形に一貫性を有している設文の一部を改める事によってその矛盾を遁れようとしたのである」

自らの従事を引きついだ学説を否定されるのを恐れた事に外ならない。