顔真卿「王羲之を超えた名筆」展 東京国立博物館に関連して(その五)

12.白川静の登場

白川は甲骨文字の数10万の字をトレースする事により古代人の魂に寄り添う事により、新しい文字学を切り開いて「設文」の虚構成を破壊して文字の成り立ちと構成を解明したのである。

日本国内の抵抗もあり理解は仲々進まなかったが序々にその真理性は広がりつつあり中国でも理解者が増大している。

 

13.甲骨文字の発見

1899年当時国子監祭酒(今の国立大学総長)の地位にあった王懿栄(オウイエイ)は瘧(オコリ)の持病があり、その特効薬としてすすめられた龍骨(小さな骨の破片)を買い求めさせた。

そのころ南方の江蘇丹徒(コウソタント)から出て来た劉鉄雲(リュウ・テツウン)が王の宏壮な邸宅の食客として滞在していた。2人とも金石の学に精通し、古代文字に造詣(ゾウケイ)深い人達であった。

2人は龍骨の表面に刻り込まれた文字らしいものに気づいて調べたところ、金石文字よりもなを古い文字である事に気付き、捜集(ソウシュウ)が始まった。王氏は1年後義和国の変に殉節(ジュンセツ)して没したが、その後の収集で劉氏のもとに5000片もの小片に達し、1903年劉氏はそのうち1058片を選録して「鉄雲蔵亀」6冊を刊行した。甲骨文字が世に表れたのである。

 

14.書が歴史的に集大成した唐の時代が文化・芸術も最も栄えた文化の爛熟時代であった。今回これだけの作品が系統的に網羅した展覧会は今後望めるか解からない。

特に拓本の素晴らしさは実物をみなければその美しさは理解できない。中国文化のレベルの高さにただ驚嘆するばかりである。それにしても書が、政治、社会に密接しており、そこに力強さの根源をみることができるのである。日本の万葉集にしても社会性のあるものは山上億良にほんのわずかにみられるのみであり、今日に至って新聞の歌壇欄にみる短歌・俳句でも社会性のあるものは著しく少ないのが現実である。

現実は醜いものと言った観念が日本人の中に根強く存在しているのであろうが、残念な事である。ここにも日本人の政治離れの風潮が良くみられるのである。

(注3)

徴宗皇帝は19世紀のバイエルン王、ルードヴィヒ2世と良く似ていて、ワーグナーに心酔し、政治的には無関心で現実の政治からは逃避して、芸術を愛好し、莫大な費用をかけて財政破綻をまねき、医師の精神鑑定を受けてシュタルンベルク湖畔に幽閉されそのすぐあとにこの医師と湖で溺死している。

最後に今回の展示の目玉「顔真卿」について顔真卿の俗受のする丸形の字は、私の好むところでない為にあえて言及しなかったのである。

 

図 亀甲全形 殷(武丁)

1936年、河南省(小屯)の第13回発掘の際、YH127抗のトレンチから出土した甲骨1万1千数百片中の1つで完璧な亀の腹甲の形を残している。

穀物の豊凶を貞うたもので、この時代に於て農業が産業として重要な地位を占めていた事実が知られる。(白川静)