上野の文化会館にて、サンクト・ペテルブルグのバレエ団「エイフマン・バレエ」の公演「アンナ・カレーニナ」をみる。トルストイ原作のアンナ・カレーニナは夫・子供もいるアンナが青年将校にひかれて彼のもとに夫・子を捨てて走る物語である。
エイフマンは長大なこの作品を思い切ってアンナと高級官僚カレーニン、青年将校ウロンスキーに絞って極めて解りやすく進行させている。
バレエではカレーニンが原作と異なって恰好良すぎて戸惑うがエイフマンは何を狙ったのか、或は源氏物語、宇治十条で浮舟が薫と匂の宮の間で女の二心に苦悩するような状況を考えていたのかは不明である。63年程前になるが、原作を読んでウロンスキーに会ったあと、アンナが駅に迎えに来ていたカレーニンが指をボキボキ鳴らす癖を改めて見て嫌悪感を催す場面など、自分が将来終始して、突然相手がそうみえたとしたらと不安に襲われた事や、アンナの鉄道に飛び込む際に自分の過去が走馬灯のように頭を巡る場面ウロンスキーが真剣に愛に向き合っていない事から精神に異常を来して自殺する等、トルストイは本当に凄いものだと驚嘆したのを思い出す。さてバレエはストーリーをアンナ・ウロンスキー・カレーニンの3人に絞って制作している。物語を知っていれば極めて解りやすく舞台は進行する。抜群の身体能力を誇る3人のダンサーは、兎に角素晴らしく、人間の身体でこれ程表現する事ができるのかと思い知らされる。
時代は、ロシア皇帝アレキサンドル2世、ツアーリズムと貴族帝国の時代で、農奴制の上に成立していたが、ロシア経済の後進性と官僚政治の欠陥によって、改革の時代を迎えでた。改革の中心は農奴解散であり、不十分ながらこれによって農業の資本主義的発達を促進したが、一方ポーランドの反乱、クリミヤ戦争、農民の反乱等、動乱の時代に直面していた。こうした中でロシア文字は一挙に花開いたのである。
19世紀ロシアの貴族階級社会は爛熟の極みに達しており、働かないでいい男女は遊びが生活の本質となり、当然の如く色好みが美徳とみなされていた。貴族婦人達は競って愛人を持ち、これをステータスとしていたのである。恋愛で思いつめて駆け落ちするとか、切実に心中するとかとは種類の違うものであった。
そうした時代に深刻な恋愛は貴族社会の通例に逆うもので社会に受けいられなかったのである。
社会主義革命が成功し、プロレタリア文字が声高に求められたとき、指導者であるレーニンは「アンナ・カレーニナで充分だ」と謳っている。
つまり民衆の文化的レベルは「アンナ・カレーニナ」を理解する水準に遠く達していないと判断していたのである。誠に興味深い。