「魂の中の死」
1. 家族と別れてアメリカに亡命したゴメスは「フランコがバルセロナに入城したときフランス人達は頭を振って残念だと云った。だが誰一人として立ち上がって出かけようとした者はいやしない。だから今度は奴らの番だ。奴らが苦い経験をする番だ。俺は嬉しいよ。嬉しくって仕方がないよ」と怒鳴る。ナチスに信条的に気持が以降して行く。
2.ユダヤ人のサラは息子のパブロをつれてスーツケースを下げて徒歩でジャンまで炎天下24㎞の道を逃げて行く。人と車の波の中だ。丁度映画「禁じられた遊び」の中で大勢のフランス人がパリから地方へ逃れる場面があり、途中両親をドイツ軍の機銃掃射で失って、幼い娘ポーレットが戦争孤児となる場面を思い出させる絶望的な逃避行である。
3.戦場で敗戦を迎えたフランスは将校たちはいち早く逃げ、虚無感、頽廃におちいった。兵士たちの中で、召集で心ならずも戦争に参加したマチュは今までの優柔不断の生き方をこれこそ今まで自分が待っていた何かだと感じて自ら、数人の仲間と共にレジスタンスに参加する。圧倒的な人数のドイツ兵を銃撃戦を繰りひろげて、味方は次々と倒れマチュは一人となる。しかしマチュは一貫して知識人でありブルジョアジーの一員であることは変わることはなかった。
4.マルセーユ 14時、ボリスはローラと共にいる。ローラは最悪の事態を予想して銀行から金をおろす為にパリへ戻り、マルセーユに帰ってくる。二人の間に気持ちの食い違いがあらわとなってくる。
5.ボリスの姉イビィチは絶望して身をまかせたジョルジュと、妊娠したことを知ったジョルジュの懇請で結婚。男の両親と暮らすがボリスの「ご主人はどうしているんだい」の問いに「あの人死ねばいい」と答える。
6.2万人の捕虜の一人となったコミュニストのブリュネは捕虜収容所内で共産党の組織つくりと活動に狂奔する。しかし39年8月29日独ソ協定の締結を報じられる。フランス共産党はファッショの独裁に対して政治的自由の擁護を政綱として選んだが、これらの自由が幻影にすぎない事となる。「今日デモクラシーは屈服し、ソ連はドイツに接近し、ペタンが権力を握り、共産党のファッショの社会あるいはファッショ化する社会で仕事をつづけなければならない。ブリュネは指導者もなく指令も、連絡も、情報もなしで、この陳腐な政綱をブリュネ自身のイニシャチブでふたたび取り上げようとしている人民戦線は死んで埋葬すみだ。これは1938年には歴史的関係に於いて、意味があった。
今日ではもう少しも意味がない。ブリュネは暗闇で仕事をするようになる」とシュネーデルに指摘されてブリュネはコミニュズムに幻滅するのである。
7.思いがけない早さでの開戦すぐでの敗戦でフランス中の人々が茫然自失、魂の中に死を抱えた中で動揺する様を時系列にサルトルは生々しく描き出している。
第4部を書く予定であったが、完成を見ないまゝ中断した。
(注)ヴィシー政権
フィリップ・ペタンは第一次大戦時は大佐、開戦と共に、ドイツ軍猛攻下のベルダン要塞を死守して、ベルダンの勝利者と称えられた。1917年全フランス軍総司令官に就任した。大戦後元帥となり1925~26年のモロッコのリフ人の反乱を鎮圧し、フランス陸軍の大御所的存在となった。1940年ドイツ軍の大攻勢の最中にレーノー内閣の後任として首相に就任。フランス中部の鉱泉都市ヴィシーに首都を移したことからヴィシー政権と呼ばれた。ペタン政権は対独協力政策を実行し、レジスタンス運動を敵対。フランス解放後、対敵協力の罪で死刑を宣せられたがド・ゴールにより終身刑に減じられた。
(注2)ド・ゴール
フランスの軍人、第2次大戦中対ドイツ降伏後1940年ロンドンに自由フランス政府をつくり本国の抵抗運動を指導。1944~46年共和国臨時政府主席となる。
8.サルトルは実存主義とマルクス主義との宥和を探り、意識の自由を根底に人間の自由を追求。第二次大戦中召集され、捕虜となるが保釈されパリに戻り対ドイツ抵抗組織をつくることを試みた。戦後は戦闘的ヒューマニズムの立場で活発な発言を展開した。
占領下ではナチ占領軍に、植民地戦争ではフランス政府権力に、ハンガリー事件ではソ連政府に、ヴェトナム戦争ではアメリカ帝国主義に反対し続ける。
昭和34年(1959年)当時の日本は翌年の日米安保条約をめぐる大衆運動が空前の盛り上がりを見せる時代で、日本中が政治的関心に満ちた政治の時代だった。
サルトルも若者を中心に良く読まれた。私も亀有の駅前にあった本屋で、サルトルの「汚れた手」「賭けはなされた」「出口なし」「蠅」「恭々しき娼婦」「悪魔と神」等を極めて熱心に読んで、この「自由への道」の出版されるのを待ち望んでいて深い共感を持って読んだのを思い出す。