小野田寛郎と鈴木紀夫

 

1.小野田寛郎は1943年頃フィリピンのルバング島守備隊に配属され、日本の敗戦後も残置諜報の任務を継続。小野田少尉以下5人の兵士が残っていたが1名投降、3名は村民により銃殺され小野田1人が30年孤独な闘いを続けていた。

 

2.終戦後小野田少尉の生存が日本にも伝わり、幾度か捜索隊を組んで発見に当ったが

果たせず、1973年頃に最後の大捜査団をルバング島に派遣し、捜索したが発見する事は不首尾に終わった。

 

3.鈴木紀夫は大学2年の時突然学校を無断で休学し、世界中を放浪すること3年、日本に戻って自宅でテレビをみていたが、小野田発見の為の調査団の有様をみて、よし、俺が見つけようと思いたった。24才である。彼の作戦は探すのではなく、小野田に鈴木を発見させるというものであった。

 

4.早速一人ルバング島に着くと、ガイドを1人雇って小野田の出没した場所を確認するや、1人でその場所に粗末なキャンプを張って小野田の出現を待った。そのうち夜になって小野田が銃を構えて近づいて、鈴木に「誰か」と誰何した。鈴木はガイドに小野田に合ったら先ず敬礼しないと撃たれるぞとの話を思い出し敬礼。小野田はこの男はどこの国の男かと探るが決め手となったのは鈴木が履いているサンダルであった。現地人は裸足でサンダルを履くのに、この男は厚手の靴下を履いている事から日本人と確信する。更に鈴木の住所を問い正し、その上で自分の潜伏先に連れて行く。
次第に打ち解けた2人は色々話し合ううちに、小野田が現在の日本の現状をよく知っている事に気づく。70年万博のこと、「こんにちは、こんにちは、1970年のコンニチワ」の三波春夫も知っていたのである。彼は現地で手に入れたラジオも所持していた。

数枚の写真も撮ったあと、どういう条件がととのえば帰国するのかと問うと、小野田は当時の直接の上官谷口義夫少佐の帰国命令があればその命に従うと約束。

 

5.日本に帰った鈴木はこの事実を警察に届け出る。たちまちのうちに各新聞に大々的に報じられる。何しろあれだけ最後は1億円もかけて調査団を送って見つけられなかった小野田を24才の鈴木が一人で発見したのだから。

 

6.谷口とも連絡がとれ、早速谷口と2人ルバング島に上陸する。小野田のかくれ家近くで鈴木が呼びかけると、しばらくして小野田が現れた。谷口元少佐の命令書を読み上げた上で口達、小野田はこれを受けて帰還することが決まった。

特殊任務を受けた隊員は上官の口達(口頭で命令を伝える)なくしては文書だけでは受ける事が出来ないのである。既に小野田達は現地人30人程を殺害していたこともあった。

 

7.1974年3月12日羽田空港に降り立った小野田は軍服に銃を捧げて軍人として帰国、記者会見では発見者鈴木も同席した。小野田は一躍有名人となり、当時の田中首相にも会い、政府から100万円の慰労金を受けるが、小野田はこれを何れかに寄付している。

それは小野田に対する世間の風当たりが強くなり始め事もあり(現地での殺人の事もあり)日本到着から6ヶ月後小野田は単身ブラジルに移住し牧場づくりに励むこととなる。

 

8.鈴木は当時堀江謙一、植村直己の二人が冒険家として宣伝されていた時代的背景もあって、新しい冒険家として囃されることとなった。

 

9.鈴木は何かを探していたが、ヒマラヤの雪男の話を聞くや、即断直ちに1975年ネパール入り、ヒマラヤ山脈のカルナリ地区にあるダウラギリ山第4峰(7,661m)に登攀3,700mに千葉ポイントとしキャンプを張った。1975年7月29日雪男突然現れたが、驚きと慌てた為と対象が遠かった事から8mmのピントが合わずに撮影したが証拠となる映像は確認する事は出来なかった。同年11月再度ネパール入り、4300mにキャンプを張るが雪崩に巻き込まれポーターを失う。

 

10.鈴木は1978年作家林房雄の娘京子と結婚。1980年喫茶店を経営するが経営の才無く翌年閉店。

 

11.1986年10月6回目の雪男捜索でネパール入りしたが、ここで消息を断つ。ネパールから京子夫人宛ての長文のラブレターが届いている。享年37才。

 

12.その間小野田は何度か来日し鈴木を尋ねていたが、1988年鈴木の死を悼んでダウラギリに登攀している。当時の日本は70年の安保条約改正の争乱もおさまり、高度成長の速度も鈍ってやゝ低成長の形を示すようになったが経済規模が米国に次ぐ資本主義国になった時代である。明治以後の軍国日本から平和主義になり、平和主義が少しずれてGNP信仰になってきた時代でもある。一方で先進資本主義国の中でも所得格差が少なく、80%の人が自分自身を中産階級だと感じた時代でも又ある。
今思えば戦後日本人にとって一番良い時代とでも云えたかもしれない。

日本の総体的な経済力が鈴木紀夫のネパール行きの背景にあったとも思える。