光増寺 正式名称
浄土宗 摂取山 蓮池院 光増寺
(せっしゅざん れんちいん こうぞうじ)
葛西神社の北200m程、旧水戸街道の左側に光増寺はある。
親鸞聖人ゆかりの古刹で貞応元年(1222年)聖人直弟子随信房法海の草庵に始まる。
縁起によると、元仁元年(1224年)5月上人が葛西の領主葛西三郎清重の招きにより
常陸稲田から葛西渋江の館に赴く途中金町の一草庵に一夜の宿をとったが、庵主法海は
喜びのあまり、聖人の弟子になり随信房の号を贈られた。貞永元年(1232年)8月再び訪れ草庵を光増寺と称し、自筆の阿弥陀仏画像と三名号を与えた。
以後天文、永禄の2回にわたる国府台の合戦で兵火により荒廃。天正15年(1587年)江戸の芝増上寺の常誉上人が法脈の絶えることを惜しんで、浄土真宗を浄土宗に改め再興。文縁元年(1592年)急火だで焼失。慶応年間に再興したが天保3年(1832年)再び焼けさらに3度炎上した。(3度とも1月8日に焼けている)とある。
明治43年8月再建、昭和49年現在の堂舎に改築された。境内には本堂の他に法隆寺の夢殿を模した八角形の屋根を持つ倶会堂(くえどう)が建てられている。門をくぐると左手に葛飾区有形文化財の舟形地蔵が立ち元禄7年(1694年)7月建立とあり、同文化財の道標が石に刻されている。(元禄7年の銘有)「そう可(か)迄2里半 これよりミぎいわつきぢおんじミち」と記され、片方(元文6年銘)には「これより左いはつき志おんじ道」とある。
墓地の入り口左側に俳諧師 鈴木松什 の墓がある。
松什は寛政10年(1798年)柴又村に生まれ、通称を安五郎。俳号を 無有庵松什 と号した。瓦の製造を生業としたが、若いときから俳諧の道に入り江戸の俳諧師 蓼松(リョウジュン)の門下となる。俳句のほか書画にも堪能で「芭蕉翁発句類題集」ほか多数の作品がある。
住職の話では自身 作家の司馬遼太郎と親交があったとのことである。
倶会は倶会一処の事で阿弥陀仏の浄土に往生して、浄土の人々おとともに一処に会同
する事をいう。
光増寺石佛 大諷 画
光増寺 本堂
舟形地蔵
鈴木松什の墓