『荷風随筆集』より 

荷風随筆集より
1.荷風ほど変貌する東京に悲憤慷慨した文筆家は少ない。

『日和下駄 *一名 東京散策記*』に

  「日々昔ながらの名所古蹟を破却して行く時勢の変遷は市中の散歩に無情悲哀の寂しい詩趣を帯びさせる。およそ近世の文学に現れた荒廃の詩情を味わおうとしたら埃及

(エジプト)、伊太利に赴かずとも現在の東京を歩むほど無残にも傷ましい思いをさせ

るところはあるまい。今日看て過ぎた寺の門、昨日休んだ路傍の大樹もこの次再び来る

時には必ず貸家か製造場になっているに違いないと思えば、それほど由緒(ユイショ)の

ない建築もまたはそれほど年経ぬ樹木とても何とはなく奥床しくまた悲しく打仰がれる

のである」

 「東京の都市は模倣の西洋造りと電線と銅像とのためにいかほど醜くされてもまだま

だ全く捨てたものでもない」「庭を作るに樹と水の必要なるは云うまでもない。都会の

美観を作るにもまたこの2つをのぞくわけには行かない。幸いにも東京の地には昔から

夥しく樹木があった」

 「青山竜巖寺は青山練兵場を横切って兵営の裏手なる千駄ヶ谷の一隅に残っていたが、

堂宇は見るかげもなく改築せられ、境内狭しと建てられた貸家に、松は愚か、庭らしい

閑地さえ見当たらなかった」

 「現今の東京は全く散歩に堪えざる都会ではないか。西洋文学から得た輸入思想を便

りにして、例えば銀座の角のライオンを以て直ちに巴里のカッフェーに擬し帝国劇場を

以てオペラになぞらえるなぞ、むやみやたらに東京中を西洋風に空想するのも或人には

あるいは有益にして興味ある方法かも知れぬ。しかし現代日本の西洋式文明が森永の西

洋菓子の如く女優のダンスの如く無味拙劣なるものと感じられる輩に対しては東京なる

都会の興味は、勢 尚古的退歩的たらざるを得ない」

 「現代官僚の教育は常に孔孟の教を尊び忠孝仁義の道を説くと聞いているが、お茶の

水を過る度々『仰高』の2文字掲げた大成殿の表門を仰げば、瓦は落ちたるまゝに雑草

も除かず風雨の破壊するがまゝに任せてある。しかして世人の更にこれを怪しまざるが

如きに至っては、われらは唯唖然たるより外はない」

 「およそ近世人の喜び迎えて便利と呼ぶものほど意味なきものはない。東京の書生が

アメリカ人が如く万年筆を便利として使用し始めて以来文学に科学にどれほどの進歩が

見られたであろう。電車と自動車とは東京市民をして能く時間の節倹を実施させている

であろうか」
 「日本人が日本の国土に生ずる特有の植物に対して最少し深厚なる愛情を持っていた

なら、たとえ西洋文明を模倣するにしても今日の如く故国の風景と建築とを毀損せずに

済んだであろうと思っている。電線を引くに不便なりとて遠慮会釈もなく路傍の木を伐り、または昔からなる名所の眺望や由緒のある老樹にも構わずむやみやたらに赤煉瓦の

高い家を建てる現代の状態は、実に根底より自国の特色と伝来の文明とを破却した暴挙

といわねばならぬ」
 「近年見る所の京都の道路家屋並に橋梁の改築工事の如きは全く吾人の意表に出でた

ものである。日本いかに貧国たりとも京都奈良の2旧都をそのまゝに保存せしめたりと

てもしそれだけの埋合わせとして新領土の開拓に努むる処あらば、一国全体の商工業よ

り見て、さしたる損害を来す訳でもあるまい。眼前の利にのみあくせくして世界に二つ

とない自国の宝の値踏をする暇さえないとは、あまりに小国人の面目を活躍させ過ぎた

話である」

 「表通を歩いて絶えず感ずるこの不快と嫌悪の情とは一層私をしてその陰にかくれた

路地の光景に興味を持たせる最大の理由になるのである」他大正4年4月に書かれた

「日和下駄」には、日本の文化が次々と破壊されていく事に対する怒りの思いが縷々述

べられている。

 

2.加藤周一が1989年頃に この問題にふれている。

         著作集 第20巻「東京移り行く都市」-1989.9ー

  ” アムステルダムの人口はパリの10分の1であり、ヴェネツィアの古都の人口はアム

ステルダムの10分の1程度。しかしそれぞれの強い個性があり、異なる種類の魅力が

ある。数千人程度の小さな街にも、イタリアに限らず、南フランスでもバイエルンでも、

ハルツの山中でも、海峡を渡ってイングランでも、歴史の生み出した風情と味わいがある。歴史的な文化は「形」として列なるところに残っている。それは町の大小に係わら

ない。又西欧と東欧と、政治的体制のひがいとも係わらない。プラーハやブタペストの

古都の美はヴィーンの中心部のそれに劣らないだろう。また町の貧富の美をさえも、係

るところ少ない。どの教会も戦争で破壊し尽くされた中心部の歴史的景観を、長い年月

と膨大な費用をかけて、原形に復したのである。

西洋に古い街並みが残っているというのは、正確ではない。実は西洋の社会が、古い街

を残した、というべきである。もちろん行政機関が街の美観を維持する為に強制的に介

入して残したのである。どうして西洋の行政機関には、そういう事ができたのか。

つまるところ、その町に住む人々の圧倒的な要素と支持があったからである。

昔は日本にも、美しい町や村があった。爆撃は多くの町を焼き払ったが、京都と、小さ

な村は残った。1950年代の半ば、3年程西洋で暮らした私は日本国に戻ると、その頃なお京都に、また信州の山村に、日本の伝統的な街並みの美しさを見出すことができた。

何世紀もかけて磨き上げられてきた美観を、徹底的に破壊したのはいくさではなくて、高度成長とそれに伴う価値観である。金もうけと能率が一方にあり、町の美観が他方にあって、両者のつりあい、または調和を考えないのは西洋的でない "

 

3.ポーランドのワルシャワはナチスの爆撃で完膚なきまでに破壊されたが、ワルシャワの美術学校の画学生が描いた街のスケッチが大量に残っていて、これを元にして昔の街を再現している。自国の街の景観に誇りを持っていたのである。一方、戦後焼ヶ野が原となった東京は都市計画もないまゝに、建物がバラバラに建ち始めた。更に田中内閣の日本列島改造によって、未だ古さの残る都市は完全につくり変えられ、江戸の風情を残した多くの掘割は埋め立てられ、江戸の街特有の多くの樹木は切り倒され、今日の東京は一体いずれの国か解らぬような高層ビルが、統一性も計画性もなく立ち揃び、汐留界隈等は街にもビルにも人影が見えず、建物の名前も表示されず、番地も判らない。

まるでゴーストタウンのようになっており、荷風が嘆息した日本の街はついに、ここまできたかとの感がある。