㊿ 定本 後藤田正晴 保坂正康 ちくま文庫
後藤田は徳島県吉野川市に大正3年8月3日に父増三郎と母ヒデの4男として誕生
した。後藤田家は藩から庄屋を命ぜられた旧家で、父増三郎は藍作に手を染めたり、
筵、備後表などの売買に携わり商才もあり、10代の半ばには長崎で蘭学も身につけ
ている。教育にも熱心で学校の設立にも尽力を尽くしており、正晴の生まれた頃は
郡会議長でもあって、当地随一の知識人であった。
正晴10歳の頃に両親が死亡し、すでに他家に嫁入りしていた姉を頼って大学を出
るまで援助されている。正晴の寄寓先は徳島県富岡町の井上晴巳で、晴巳の父は
明治初年にイギリスに留学しており、帰国後私財を投じて太平洋に面した富岡町の
海岸を埋め立て地域住民に喜ばれていた。晴巳はのちに富岡町長を務めており姉好
子は文字通り正晴の母代わりの役を果たしていた。
負けず嫌いで、言い出したら引っ込まぬ性格は中学時代には顕著にあらわれていた
という。
徳島県立富岡中学から旧制水戸高校に入学、文科乙類の生徒となる。
ドイツ語を第一外国語とするクラスであった。後年、後藤田は「人生の中でもっと
も影響を受けたのは水戸での高校時代である」と語っている。
親しかった高久泰憲(タカキュー会長)の言によると「後藤田は古武士的なところ
があって、一見近寄りがたい雰囲気があった。でもいったん口をきいて彼の笑い顔
をみるといっぺんに変わってしまう。破顔一笑と云えばいい人だろうか笑ったとき
の顔がいい。あれはいまもかわっていない。別れ際の印象がとっても爽やかでだか
ら誰とでもすぐ親しくなれるんです。私なんか先輩扱いされなくとも憎めなかった」
と語っている。
3年生の下宿時代後藤田は密かに猛勉強をして、昭和10年東大法学部入学。当時東
大法学部の学生は大半高等文官試験を受験、エリート官僚の道をめざしており、日
々勉強ばかりしており、東大時代にはだゝの一人も友人をつくっていないのが当然
であった。友人などつくる暇がなかったのである。東大は高文の予備校という意味
しか彼等にはなかった。
授業に出て教授たちの過酷さに驚かされる。「答案はつねにドイツ語で書いてもら
おう」と云われローマ法の原田教授は授業の最初の2,3回でラテン語の基礎を教え
そのあとはラテン語で授業を進めたと云う。高文試験に失敗、昭和12~13年に
かけて、誰とも交流することなく図書館にこもって猛勉強し、昭和13年高文試験
に合格。大日本帝国の内政の中枢的地位を占める内務省に入省した。
官僚のエリート中のエリート集団である。
昭和15年4月台湾歩兵第2連隊補充隊に2等兵として入営。昭和20年8月中国国民党
軍の捕虜収容所に送られる。昭和21年4月日本帰還、内務省に復帰。昭和22年8月警
視庁保安部課長として就任。昭和47年警視庁を退任し、田中内閣の官房副長官に就
任。51年徳島全国区から衆議員当選。
昭和57年11月中曽根内閣の官房長官就任。62年10月までが政治家としての充実期に
なる。中曽根内閣は官僚政治家後藤田がその能力と手腕を存分に発揮した舞台とな
った。世間に「カミソリ後藤田」と喧伝された。
後藤田は法相の秦野章と並んでこの内閣のタカ派的性格をあらわしているとされ
「らつ腕の警察コンビ」「野党のタカ派色を警戒」「金権、右傾ドッキング」などと
マスコミの見出しの対象とされた。
田中は中曽根に対して「後藤田君を傍に置いてお使いください。彼はあなたを助け
るだろう」と云ったという。根っからの改憲論者である中曽根に対し、後藤田は
「僕は憲法を評価しているよ。見直せという論もわかるがそれに伴うリアクションの
大きさも考えなければならない」と中曽根のブレーキ役となった。「憲法改正を政
治日程にあげ国論を二分する争いを引き起こすような事態は好ましくない」と後藤
田は断言しており、一貫して「憲法を守れ、安易に自衛隊を海外に出すな」と発言
している。中曽根内閣の初期には「タカ派」と言われ、平成3年からは「ハト派」
といわれた。
後藤田が日本の国防方針や国際社会での軍事協力について明解に自らの立場を明ら
かにしたのは昭和62年10月、再び官房長官に就いていた時だった。
当時イラン・イラク戦争によってペルシャ湾にはイランが敷設した機雷が無数に浮
遊し、そのためにタンカー船の触雷事故が相次いでいた。しかもこの海域に遊弋
(ユウヨク)中のアメリカ軍艦隊に対しイラン軍が攻撃を仕掛けたりしていた。
アメリカは機雷除去のために日本政府にきわめて具体的な対応を考慮して欲しいと
要求してきた。ペルシャ湾の安全航行確認のため、海上自衛隊の派遣や海上保安庁
の巡視船の派遣など、中曽根や外務省は考えた。経済力を背景に国際社会での政治
的発言の強化を狙ったのである。後藤田は猛然と反撥した。「ペルシャ湾への派遣
は閣議で決めるでしょうな。こういう重大な決定は閣議で決めなければおかしい。
しかし、私は閣僚として決して署名はしませんよ」と身体を張って抵抗した。
ペルシャ湾への掃海艇の派遣を示唆するアメリカはあまりにも勝手である。そのア
メリカの要求にすべて応じるわけにはいかんというのが後藤田の結論であった。
後年、後藤田は中曽根を評して「私は彼を人間的には好きではないが、だからと言
ってともに仕事をするのが嫌だというのではない」とこの心情を使い分けられると
いう逞しさこそがむしろ後藤田はが信頼される理由でもあったのだ。
ペルシャ湾への派遣が問題になったとき、後藤田は軍事行動につながりかねない措
置に対して外務省など幾つかの官庁の幹部にためらいが少ない事に驚いている。
官僚を抑えられる立場に自分はいる間はいゝが、そうでなくなったら日本の将来は
どうなるのかと不安を抱いたという。
平成5年6月宮沢内閣不信任案成立、解散とともに後藤田は副総理を退任。
55年体制以来38年間続いてきた一党支配の政治体制の舞台は一変した。
混迷は自民党の中で後藤田内閣の動きが深く広がったが、彼には全くその気がなか
った事で幻の後藤田内閣となった。
戦後不世出の官僚政治家として縦横に力を振い、毀誉褒貶の激しかった稀有の政治
家で、一貫して節を曲げることなく、事に当った硬骨の政治家、現在保守政治家に
類例をみる事はない。(平成17年9月19日没 享年91歳)