金泥の書 作品解説
1.源氏物語 2.風姿花伝 3.平家物語 4.歎異抄 5.千字文 6.梁塵秘抄
7.方丈記 8 徒然草 9.紫式部日記 10.奥の細道
1.源氏物語 紫式部(金泥 全38巻)
源氏物語は様々な疑問を生んできた。
イ.宇治十帖は別人が書いたものではないか。
ロ.五四帖は現在の順序で執筆されたものではないのではないか。
空蝉、夕顔、末摘花、玉鬘の部分は後に挿入されたもではないか、等々である。
しかし、いずれにせよ小説としての出来栄えは見事なもので、宿直の場面「雨夜の品定め」の中で、若い貴族達が様々に女性を語るが、源氏がこれを聞きながら「何も分かってないなぁ」と思うところや、女三宮が柏木と密通して源氏がこれを知った時の心の動きや、柏木に嫌味を云う場面はまるで20世紀文学を彷彿させるようである。
物語としての前半は女が男のふた心に悩み、後半は女が自分のふた心悩むことがテーマ
となっており、前半は光源氏の名のとおり昼で、後半は闇の部分となっている。
登場人物の薫、匂の宮に象徴的に示されているのだ。
2.風姿花伝 世阿弥 (金 泥)
「秘すれば花なり」が特に宣伝されており、日本芸能の核心をつく一言でもある。
「時分の花をまことの花と知る心が真実の花に猶遠ざかる心也」「老骨に残りし花」「この花よりは大方、せぬならでは手立あるまじ」等まことに納得させられる名言が語られている。
3.平家物語 (金 泥 12巻)
平氏積年の願いを平忠盛が昇殿を許され実現しようとしたが、貴族達がこれを「殿上闇討」にしようとする。
宮廷貴族達が宮中の総てをとり行い政治を動かしていたが、忠盛という武人が割り込んでくるのが我慢ならなかったのである。
闇討ちといっても殺害するのではなく大恥をかゝして、その力を削ぐのが目的であった。これを知った忠盛は剣を帯びた屈強な従者を従えて、貴族達を恫喝これを封じ込める。
又権力を握った清盛が市中にきらびやかな衣装をまとった童子達を送り込み、反平家の人々を取り締る。
宇治川の合戦で義経配下の梶原景季(カゲスエ)が磨墨(スルスミ)に、佐々木四郎高綱が生唼(イケズキ)にうち跨り先陣争いする場面、川中に張った網を刀で切り拂いながらの描写は、まるで活劇のようであり、読み物としてのみどころが多い。
4.歎異抄 (金 泥)
この書は親鸞の語録を本とし、それによって親鸞の死後に現れた異説を嘆きつゝ親鸞の正意を伝えようとしたもので、十章以降は弟子の唯円(ユイエン)が師の主話を汲んで書いたものとされている。九章までの力強さが、十章以下とでは大きく異なるのはその為でもある。
歎異抄と云えば三章の「善人なおもて往生とぐ、いはんや悪人おや」が有名であるが、五章の「親鸞は父母の孝養のためとて、一遍にても念仏をまうしたることいまださふらわず」。
二章の「たとひ法然聖人にすかせまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」とまことに衝撃的な内容が詰まっていて驚かされる。
今日でも依然として多くの人に読まれる所以である。
5.千字文 (金 泥) (銀 泥)
千字文は四言の韻文で綴られた一千個のそれぞれ異なる文字の集まりで、作者は梁(リョウ)の周興嗣(シュウコウシ)である。
梁の武帝が「王羲之の書千字を次韻せるをあげて、並びに興嗣をして文をつくらしむ」とあり周興嗣は一晩かゝって千字を用いた整然たる韻文を作り、武帝に奉ったが、その苦心の為に髪の毛が真っ白になったという。
6.梁塵秘抄 上・下 (金 泥)
後白河法皇が編んだ平安時代の歌曲、今様とよばれるものゝ歌詞の集大成である。
二部から成っており、第一部は今様その他の歌詞を集め、第二部は法皇の意見、感想、思い出などを記した覚書である。この時代成熟した貴族文化は極限に達し、形骸化して行った。新しい血が必要になったのである。法皇は老いて引退した今様の名手、遊女乙前を探し出し宮廷内に住まわせて12年間彼女に師事したのである。乙前が84才で没すると50日間、毎日阿弥陀経を誦(ヨ)みその極楽往生を願ったという。
有名な一説
遊びをせんとや生まれけむ 戯せんとや生れけむ
遊ぶ子供の声聞けば 我身さへこそゆるがるれ
がある。
7.方丈記 鴨 長明 (銀 泥)
鎌倉時代の随筆。長明は強情片意地な性格があったようで後鳥羽院が長明に音楽、和歌
の才を認めて鴨後祖神社の祢宜に任じようとしたが、これを拒否して、出家している。
人生の無常を簡潔、清新な和漢混淆文で書きあらわしている。
8.徒然草 吉田 兼好(金 泥 4巻)
兼好は後二条天皇の御代(1302~1308年)、朝廷に仕えたが、30才頃に官吏の身分を離脱して遁世者となった。
彼は世俗とも仏道とも異なる第三の道を模索し、世俗にも惑溺せずに仏道にも真に徹底出来ない自己を心身の安静に生の意義を見出している。
徒然草は、世の中を豊かな関心と興味をもって具体的に描き出し、自分史の自由な発想のもと自在に書きあらわしている。
9.紫式部日記 紫式部 (銀 泥)
紫式部が中宮彰子に仕えた1008年から約1年半にわたる日記と消息文よりなるもので、藤原道長邸での生活、彰子の出産等が描かれている。
10.奥の細道 松尾 芭蕉(銀 泥)
元禄2年(1689年)3月27日江戸深川を出発、門人曾良と共に奥州各地を行脚し、北陸道をへて美濃路の大垣に入る。9月6日伊勢神宮に向かって大垣から船で出発するところで筆を止めている。別号に桃青、泊船堂、釣月軒、風羅坊がある。