金泥の書 作品解説 1/ 3 4月25日より続く
11. 古事記 12. 日本書紀 13. 和漢朗詠集 14. 子規句集 15. 集字聖教序 16. 自叙帖 17. 西園雅集図記 18. 曹全碑 19. 風信帖 20. 古今和歌集 21. 赤壁の賦 22. 蘭亭序
11.古事記 (銀 泥 上・下)
日本最古の歴史書。稗田阿礼が天智天皇の勅により誦習(ショウシュウ)した帝紀及び先代の旧辞を太安万侶(オオノヤスマロ)が元明天皇の勅により撰録して712年献上したもの。
12.日本書紀 (金 泥)
奈良時代に完成した日本最古の勅撰の正史。神代から持統天皇までの朝廷に伝わる神話、伝説等を記述したもの。
13.和漢朗詠集 (銀 泥 上・下)
藤原公任撰 1012年頃成立したもので白楽天等漢詩文580首(多くは七言二句)及び柿本人麻呂、紀貫之等の和歌216首を添えたもの。
14.子規句集 (金 泥)
高浜虚子選 子規は生前に自選の句集を刊行。「獺祭書屋俳句帖抄」上巻 745句、下巻は本人の病気悪化と死の為に刊行できず、大正13年に子規全集 全15巻が、昭和4年には全集 全22巻が刊行されている。子規は短歌改革を試み、大きな足跡を残した。
尚随筆に「病状六尺」「仰臥漫録」「墨汁一滴」等がある。
15.集字聖教序 東晋 王羲之 (銀 泥)
この碑は唐の高宗の咸亨3年(672年)長安の弘福寺内に建てられた。通高350㎝、広さ113㎝ 碑頭に7仏を彫っているところから七仏聖教序ともいう。
碑文は30行、全文1904字。懐仁(エニン)が王羲之の行書を集字したものである。聖教序とは玄奘三蔵法師がインドより将来した佛典を新たに漢訳して唐の太宗に奉じたもので、蘭亭序とともに行書の典範と仰がれている。
16.自叙帖 唐時代 懐素
懐素(カイソ)は張旭と友に「張顚素王」と称せられ、狂草をもって知られる。二人は共に酒酔に乗じて筆をとり、ところかまわず奔放に疾書して世を驚かせた。懐素の作のうち最も名高いのが自叙帖である。巻末には「大歴丁巳(777年)冬10月20有8日」の款記がある。本幅は紙本絎28.3㎝、長さ755.0㎝。現在は台北故宮博物院の所蔵となっている。良寛は懐素の自叙帖を学んで草書を会得したと云う。
17.西園雅集図記 明代 張瑞図 (銀 泥)
宋の米芾(ベイフツ)の撰した「西園雅集図記」(セイエンガシュウズキ)を書いたもので西園雅集は蘭亭における雅会とともに、文人の心楽しい生活を象徴するものとして世に尊ばれた。瑞図(ズイト)は進士科に合格するや、順調に出世の階段を登って、当時権勢を振っていた宦官 魏忠賢の愛顧を受け高官に登ったが、毅宗が即位すると魏忠賢は誅せられ、瑞図も連座して官を下って民となり詩文書画に余生をおくった。明時代の本流は平明で風格ある文徴明を中心としていたが、新しいロマンチズムが台頭し激情的、あるいは華麗にして新鮮な風がおきてくるが、張瑞図もその一人であった。
本書は幅 絎207cm ,横55㎝ 全文503字である。
18. 曹全碑 漢代 (金 泥)
隷書は秦の程邈(テイバク)が小篆の繁雑さを省いて作ったものとされ、漢代に装飾的になる。隷書は漢代に絢爛たる一時代を築くが、その掉尾を飾ったのがこの曹全碑である。
曹全碑は万歴(16世紀)の初めに出土したもので当初は傷みが少なかったが、業者が拓本を取ったあとに傷を意図的につけていった為に傷みがひどくなって行った。本文は849字である。曹全はあざなを景完といい、やがて孝廉(コウレン)に挙げられ郎中の官に除せられ、西域戊部司馬を拝した。黄巾の乱に際して選ばれて郃陽令を拝し動乱を収拾、そこで群僚たちがその高徳を表彰するために、その功績を石に刻したのがこの碑である。しかし漢帝国の滅亡に際し、急拠この碑は埋められた。
19.風信帖 空海 (金 泥)
風信帖は空海が最澄にあてた手紙3通を合わせたものである。
書き出しに「風信雲書・・・」とあることから「風信帖」と呼ばれる。京都の教王護国寺(東寺)に所蔵され、国宝に指定されている。風信帖はもともと5通あったが、盗難にあったり、古筆愛好家で名高い豊臣秀次の懇望によって割譲されたりして二通が失われたと跋文に記されている。
空海の書は日本の名筆中の名筆と称せられ、上代の日本の書道の頂点であるといわれている。
20.古今和歌集 (銀 泥)
勅撰和歌集の始まり。醍醐天皇の下命により紀貫之、紀友則、凡河内躬恒(オオシコウチノミツネ)、壬生忠岑(ミブノタダミネ)撰。六歌仙、撰者らの歌約1100首を収め、優美、繊麗な歌集。
21.赤壁の賦 蘇軾(ソショク) (銀 泥)
1082年7月 友人と一夜赤壁に遊、さらにその冬別の友人と再遊した時の作。前者を「前赤壁賦」、後者を「後赤壁賦」という。
「赤壁の戦」
三国時代 孫権、劉備、の連合軍と曹操の軍との戦い(208年)。曹操の兵船や陣営を焼き払い、勝利を占めた。これにより江南の大部分は孫権に、劉備は巴蜀を得て天下三分の形勢が生じた。
22. 蘭亭序 王羲之
王羲之は晋代の永和9年(353年)9年3月3日、現在の県知事に相当する役職に任命され會稽に赴任した。
そこで地元の名士を園遊会に招待。謝安、孫統、王彬之等羲之の子 凝之、徽之、操之たち計41人と會稽の蘭亭で曲水の宴をひらいた。
曲水の宴は中国の年中行事の一つで3月上巳(ジョウシ)3日(桃の節句)に、参会者が曲水に臨んで上流から流される杯が自分の前を過ぎないうちに詩歌を作り杯をとりあげ酒を飲み、次に流す。
終わって別堂で宴を設けて披講(註)するものである。その時作成した参加者達の詩に微醺(ビクン)を帯びた羲之が鼠鬚筆(ソシュヒツ)を揮って序文を書いた。
これが世に名高い蘭亭序である。
全文28行、324字で同じ字はみな別の形に作っている。後に幾度書き直してもそれ以上ものは出来なかったと云う。羲之自身もこれを愛重(アイチョウ)し、子孫に伝えて七代の孫智永に至った。智永は臨終に際して、弟子の辯才にこれを与えた。
唐の太宗は名筆を愛し、特に羲之の真筆を全国から集めたが、蘭亭序だけは得ることが出来なかった。やがて辯才が所持している事を知った太宗は監察御史の蕭翼に命じ、蕭翼は辯才を巧みに誑(タラシ)込み、これを手中にし、太宗に届ける。気落ちした辯才はまもなく世を去っている。
太宗は手に入れた蘭亭序を虞世南、欧陽詢、豬遂良等に臨本を作らせて、これ等が現在に残っている。蘭亭序の墨本は太宗が棺中に納めさせて真筆は永久に姿を消す事になった。
(註)披講(ヒコウ)詩歌の会や歌合わせ等で詩歌を読み上げること。
当時の役人は総て、そして文化人もまた詩を吟じ、書を能くするのは必須の条件であった。