『フーシェ革命暦』辻 邦生 を読んで 

フーシェ革命暦 2冊本  辻 邦生 出版 文藝春秋 

上・下とも650頁に及ぶ大部の作品である。

主人公のジョセフ・フーシェはフランス革命に参加し、反革命家を鎮圧。ナポレオン時代は警察大臣として権力を揮い、彼を人々は変節漢とのゝしった。彼の家は代々大西洋を舞台とした船乗りであり、その後船主として成功をおさめた。そこに生れてパリに多く存在した学院に入り、学校の寄宿舎で生活、僧職となり、田舎教師となる。ついには歴史に残る大政治家なるのだ。

その一代を描いた作品である。最初にナルボンヌ侯爵家の庭に入り込んだフーシェ外1人 フィリップが侯爵の息子アントワーヌの命令で殺害される。殺害者は罪に問われない。

当時のフランス社会がそうであったのか、遡ること2世紀の16世紀には国会が開かれ(全国三部会)その時の議事記録によれば自由、平等、博愛と云う政治概念が既に確立しており、自由な討論が貴族、聖職者、市民たちの間で交わされており、知的水準も高く、人権と正義についての考え方も明瞭に呈出されており、18世紀のフランス革命で噴出した、もろもろの概念はすでに16世紀の中期にには用意さていたものである事から明らかにされている。国家の中の市民つまり第三身分の上奏書には裁判の組織化と裁判そのものを無料にせよという要求や、教育の機会均等と義務化の要求、教育費の国家負担の要求、又国内の商業流通の障害排除、自由化、度量衡の全国的統一の要求等がある。

つまり現実の社会のあらゆる問題について、これらの市民階級、第三身分の人々は確実に目配りが出来ていたのである。この事からみて18世紀末の時代に貴族が平民を殺害して何事もない等が許されていたとは到底思えないのだが・・・・

又、侯爵家の馬車が襲われ2名が殺害される事件や、美少女ミュリエル、銀行家で徴税請負人のブロン他多くの人達が登場するが、物語上の必然性が全く分からないし、登場人物が物語の中で生き生きと動いておらず、各自が果たしてどのような人物か明確ではない。物語をふくらませる目的としか思えない。

 

当時のフランスの政治状況がこの作品では全く描かれていない。階級、権力がどこに存在しているのか、王の権力の及び方、財政、対外的な政策、貴族の実情、その財政、生活基盤等の説明がない。大体にして王侯貴族が徴税をどのようにしていたか、貨幣か物納かも分らない。この時代貴族の没落も進んでおり、商品経済によって、新興勢力も力量を蓄えており、社会変革の準備は進んでいたのであるが・・・・。

 

辻邦生にはそうしたフランス社会の実情に目を向ける関心は全くないようで、他の長編「背教者ユリアヌス」にも感じた事であった。社会と切り離されたところで人物を描こうとしても、それは無理というものではないか。

 

ルネッサンス期の生活についての記述が『ミシェル城館の人』1991年 (集英社) 堀田善衛 著にある。

一般の貴族は、要するに領主であり、地主であってその仕事は農産物の収集であり、その交易であった。従って城館といっても、彼等のそれは豪勢でもなければ、美麗とか瀟洒などと云うこととはまるで縁のないものであった。 ー 略 ー

田園が彼等に与えてくれる収入では到底宮廷での出費を賄えなかった。高価な衣装や、馬匹、召使、宴会等の催し物などには、莫大な費用が掛かり、例えばパリに滞在している時などは、大抵は部屋やフラットを賃借していたものであった。さて、その田園や城館であるが、これもまた、今日の目で、或いは観光客の目で見たりしてはならないのであって、漆喰で石組をかためた塀、あるいは城壁のなかに広い土地を持ち、かつ広壮な城館が建てられていて、その正面に石の大きな紋章などが飾られてい、方々に大理石の彫刻が立っていたりしても、それらのものに目を眩まされていてはまずいのである。高い塔がそびえ立っていても、その内側は穀物や乾草の倉である。中庭の奥の家族の居住する建物は調理場を中心として、4っ乃至5っの部屋があったのであったが、部屋と部屋を仕切るドアというものがまだ考えられていなかった頃としては、全ての部屋は巨大かつ単調、方形に仕切られていて、前後は壁であり、窓は左右の側面壁にしかなかった。それに冬期の寒さを勘定に入れれば、窓はなるべく少ない方がよかった。

もし人が一つの階の端から端へ移ろうとすれば、全部の部屋を一つ一つ突っ切って行くより他に方法がないということになる。その一つ一つの部屋で家族の誰かが、あるいは複数の召使たちの誰彼が何をしていたとしても、とにかく彼、又は彼女のそばを通り抜けるなければならない。たとえ彼と彼女が性交していてもその傍らを通り抜けて行かなければならない。

 

観光客は城館を見物し、巨大な調理用の暖炉マントルピースを眺めて豪勢なものだと感嘆するが、それほど暖かくも有難くもない代物で、火から少しでも離れれば空気は凍てつかんばかり、従って人々は一日中室内でも毛皮つきの部屋着を着たきりで男女とも頭には頭巾を被っていた。マントルピースはけぶってばかりいて、部屋を煤で真っ黒にし煙突から突風でも吹き込めば火の粉だらけになる。ラファエロが最初に法王から呼び出しを受けたのは画業の為でなく、暖炉の修理の仕事であった。床には保温用の麦藁が敷きつめてあり、17世紀のルイ14世でさえもヴェルサイユの宮殿で葡萄酒の凍ったカタマリを噛らなければならなかった。従って貴族も庶民も目覚めている時間の大部分はマントルピースのある台所で過ごすことになる。当時は食堂などなく、台所の調理台で食事をした。テーブルの下には犬や鶏、家鴨がおこぼれを待ち構えていた。領主の家族の食事が終われば、泥にまみれた作男や女達がどっとつめかけて来たのである。

これが時代の貴族の生活の実態であった。領主の妻は種蒔き、農地の手入れ、収穫等の農作業の監督、狩猟の獲物の処理、冬期の為の備蓄、作男や小作人たちの苦情処理などを一手に担って激務をこなしていた。

 

その他、王族から庶民に至る様々な生活実態を極めてリアルに描き出している。

1337年に起った100年戦争はイギリス エドワード3世とフランスのフィリップ6世がフランスの王位を争ったのが原因で1437年ジャンヌ・ダルクがシャルル7世を擁してパリに入るまで続いたが、当時、王とは言うものの、王領としての地域はあるものの各地の大貴族が各々領地を有して隠然たる勢力うぃ示して群雄割拠の時代であったが、ユマニスト ミシェル・モンテーニュを語るには、この本3部作の大半をこの解明にあたっている。然もフランス、イギリス、ドイツの各国の入り乱れての抗争の中にカトリックとプロテスタントの血で血を洗う闘いが繰り拡げられ、双方から多くのキリスト教徒を中心に火刑台に送られていた。

イギリスのトーマス・モアを始めユマニスト達の多くが殺されているが、その中で尚多くのユマニスト達が育っていったのである。イギリス、ドイツ、オランダ、フランスのユマニスト達は国際語たるラテン語を駆使して強い絆で結ばれ協力していて、弾圧をかいくぐって多くの本も出版している。

 

堀田善衛はこの苦難の時代を様々な視点から解明し、政治、社会のあり方と、文化、芸術との関係をドラマチックに描き出している。

「フーシェ革命暦」との大きな違いである。