絵 その1 ( 1~15 )    2022年1月27日                      

一、称名寺 弥勒菩薩立像  作品の大きさ 62 ⅹ 90㎝  2-856 

称名寺は横浜市金沢区にある真言律宗の寺院で奈良西大寺の末寺。文永4年(1267年)北条実時の創建による。鎌倉幕府滅亡で衰退したが江戸時代家康の援助によって復興した。弥勒菩薩は菩薩形の弥勒に蓮華を執り、その華上に宝塔載せる。菩薩形と如来形の複合形をとっている。その唯一の彫像の遺例である。大型の宝髻を結い宝冠、胸飾、腕釧を付け両肩に垂髪を垂らし、衲衣を右肩に着し、さらに右肩に別の衣を懸ける。左手屈臂して蓮華を執り、その華上に宝塔を載せる。宝冠前面に3個の円相形を取り付けそのうち2個に化佛を付ける。これは過去佛としての釈迦、現在佛としての阿弥陀と推定され、本来の弥陀と合わせて過去、現在、未来の三世を表したものと云われる。本像の像内に建治2年(1276年)の墨書像あり。像内納入品の中に建治3年~弘安元年(1278年)11月の日付けが書かれている。 

称名寺 弥勒菩薩立像   62 ⅹ 90㎝ 

文 酒杯觸揆詩情動 

   書巻招邀病眼開      宋代 范名湖

       

 

二.聖林寺  十一面観音立像  作品の大きさ 30 x 44cm  2-841 

聖林寺は奈良桜井市にあり藤原鎌足の子 定恵の庵に始まるとつたえられるが、実際は江戸中期に文春が石造りの延命地蔵菩薩を安置したのが始まりである。本像は近くの大神神社の神宮寺 大御輪寺の本尊として祀られていたが、明治初年の廃仏毀釈の煽りを受けて縁の下に放置されていたが聖林寺が大八車に乗せて引き取ったと云われている。現在は聖林寺の宝物館の全面ガラス張りに納まっている。木心乾漆、漆箔の像で檜の一木彫刻の上に乾漆を盛り上げ全身に金箔を押して仕上げている。六重蓮華座の上に両足を揃えて直立する均整のとれた見事な天平佛である。(像の高さ 196.4㎝)張りのある豊かな顔、体の肉づき、衣文の起伏とゆったりと造られて、乾漆像特有の美しさを表わし、天平理想の具現像である。

聖林寺  十一面観音立像

文 吾道一以貫之哉  論語 

 

吾道一以貫之哉 曽子曰、唯 子出

門人問曰、何謂也、曽子曰、天子之道 忠怒而已矣 の一節   

 

三.慈恩寺 普賢菩薩    作品の大きさ 30  x  44㎝  2-849   

山形県寒河江市にある慈恩寺は神亀元年(724年)に行基が開山。平安時代後期天台宗を中心として、のちに真言宗、山岳修験道場等も入って、多くの宗派を併合した。本堂、釈迦堂、阿弥陀堂、薬師堂、三重塔等によって伽藍を構成している。本尊は弥勒菩薩、本堂営殿内には30数体が秘仏としておさめられている。この普賢菩薩は五葉松が使用され、平安時代の作である。法華経勧発品に説かれる佛であり、これに付属する10羅刹女は法華経を護持する存在である。この像には見事な截金など豊富な装飾がみられ、繊細な造形を待徴としている。尚10体の羅刹女のうち5体が現存している。 

慈恩寺 普賢菩薩

文 清帯山林気香来筆硯邊  

 

四.室町時代 九面観音  作品の大きさ 30 x 44㎝ 2-853       

室町時代に製造されたと思われる金銅佛で法隆寺の白檀一木造りの九面観音立像に酷似しており、多分模して造られたものであろう。風貌は童児形である。  

室町時代 九面観音  

 文 謙慎 漢書

 

五、醍醐寺 三宝院 弥勒菩薩     作品の大きさ  33 x  45cm  2-842 

醍醐寺は京都市伏見区醍醐にある真言宗醍醐派の総本山である。延喜7年(907年) 醍醐天皇によって創建。天暦(952年) 五重塔建立された。文明2年(1470年) 兵火によって五重塔を残して悉く焼失。秀吉によって再建される。弥勒菩薩は上醍醐岳東院の本尊でのち菩提寺 金剛輪寺に移されたあと三宝院の本尊となった。高い髻を結い、それが隠れるような高い五佛宝冠を被る。両肩に垂髪が懸かり、冠帯、胸飾り瓔珞(ヨウラク)などの装身具を付ける。両手で法界定印を結び、その掌上に五輪塔を載せている。建久3年(1192年)の秋後白河法皇の御料として醍醐寺の権僧正勝賢が如法にこの像を造立している。本像の像内に権僧正勝賢が願主となり建久3年8月5日から造り始め同年11月2日に供養し巧匠は快慶だったという旨の朱漆銘がある。木造金泥塗 截金、玉眼嵌入 運慶派の典型的な作品である。

醍醐寺 三宝院 弥勒菩薩      33 x  45cm   文 鳥啼簷角飛無定風剪林梢寒有声                                            竇遴寺

 

 

六.西提寺(サイダイジ) 菩薩立像 作品の大きさ 33 x 45cm  2-876

所在地は広島県尾道市向東町。明治5年(1872年)火災に遭い寺暦を知る手懸りを失っており本尊の詳細も分からない。この観音像は天暦5年(951年)の作であったが、盗難にあい一時所在不明であった。のちに発見され戻ってくる。寄木造りで唐風の影響を脱し和風へ移る時代である。焼損がみられ、火中にあったが辛うじて難をのがれたのであろう。盗賊に奪われた為、治安2年(1022年)仏師定願が1像を造って安置したが、その後本尊が戻った為に2像を安置することなった。 

文 辞賦文章純者 稀難者莫過詩  唐 社荀鶴  

 

七、聖林寺(ショウリンジ) 十一面観音立像 作品の大きさ 24 x 33cm  2-831

奈良県桜井市にある真言宗室生寺派の寺院。奈良大神神社の神宮寺第御輪寺に本尊として安置されていたが、明治初年の神仏混淆と廃仏毀釈処分によって縁の下に投げ込まれてあったが、聖林寺がこれを大八車に乗せて引き取ったと伝えられている。乾漆造り。一木造りの木彫の上に乾漆で仕上げられており、柔らかな表現で写実性を持たせている。7体ある国宝十一面観音の内の一体。乾漆作品のの頂点に立つ作品である。

  文 額田王 近江の国に下る時に詠んだ歌一首

 

八、宇治平等院  阿弥陀如来座像 作品の大きさ 33 x 37cm  2-844  

宇治市は宇治蓮華にある単立の寺院。1050年藤原頼道が寺として創建。阿弥陀如来像は平等中期の仏師で日本彫刻史上屈指の名工と謳われた定朝(ジョウチョウ)によって天喜元年(1053年)作成された。定朝晩年の作で寄木造り、漆箔を施し、定印を結ぶ。華麗な飛天の光背をもち、木造の天蓋の下、九重の台に座し円満な顔広く薄い胸法衣の衣文など貴族の趣味にあった和様彫刻の完成を示す名品である。定朝は仏師として初めて僧綱位の法橋に除せられている。

宇治平等院  阿弥陀如来座像      作品の大きさ 33 x 37cm

文 筆花開処墨花濃                    

                   清    戚 朝桂

 

九、 善光寺式 阿弥陀三尊像 脇侍 観音菩薩像 作品の大きさ  30 x 44cm 2-840    

長野の善光寺の秘仏本尊を模した像で、鎌倉時代の特筆すべき金銅仏、浄土宗の普及に伴って東国中心に全国でつくられた、光背一つに三尊が掛けられた一光三尊立像。中尊は手に印刀を結び、脇侍は丈の高い宝冠を戴き、両掌は胸前で合わせている。本像の腕は別鋳されて取り外し出来るようになっている。スイスのマリオン・ハマー氏の旧蔵品。

 善光寺式 阿弥陀三尊像 脇侍 観音菩薩像  作品の大きさ    30  x 44cm  

 文 冷暖自知  大慧

 

十、善光寺式 阿弥陀三尊像 脇侍 観音菩薩像 作品の大きさ 23 x 34cm  2-882         

仏像の説明はをご参考ください  

文 筆墨生涯成冷淡筍蔬盤鐉易経営 

 

十一、法隆寺 献納 48体仏 銅造菩薩半跏像 作品の大きさ  23 x 34cm  2-837     

小金銅佛は飛鳥時代に造られ始めた。平安時代までが最盛期である。その中心にいたのは止利仏師の一派であり、北魏の様式が百済、新羅を経由して日本に入ってきたのである。町の貴族達が病気の平癒を願い又、故人の菩提を弔うものが中心であった。

明治初年の神仏分離令から始まった廃仏毀釈によって、財政的に追い詰められた法隆寺は49具57躯からなる宝物を皇室に献納した。明治11年の事である。皇室から下賜されたのは当時の金額で1万円であった。昭和22年国有に帰し、1999年(平成11年)東京国立博物館の法隆寺宝物館が完成し小金銅仏48体が保管されている。以前は東洋館に天候の良い日に限って毎木曜日に公開されていたが、現在は新しい建物にかわって48体すべてプラスチックのケースに納められ、前後左右どこからも見ることができる。大きさは 30~40㎝以内が大半で、童顔、童形の誠に愛すべき姿が多い。  

法隆寺 献納 48体仏         作品の大きさ 23  x  34cm   

文 詩酒共為楽 竹梧相興清

 

十二、法隆寺献納 48体仏 銅造菩薩立像 15 x 22㎝  2-836    

文 学者如登山 六朝  徐幹

 

十三、慈恩寺 普賢菩薩 作品の大きさ  30 x 44㎝  2-881 

文 外適内知 体寧心恬  白楽天 

慈恩寺及び作品の説明はをご参考ください。

 

十四、室町時代 九面観音  作品の大きさ  30 x 44㎝  2-880

文 其言必信 其行必果 已諾必誠 不愛其軀   司馬遷 

九面観音についてはをご参考ください。

 

十五、誕生仏  作品の大きさ 30x40㎠ 10-33

文 虚心何慮同心少 敬事弥知處事難 清代 伊継善