日本共産党について思うこと 2022年6月25日
1.はじめに
1970年代に入って日本共産党が掲げる「民主連合政府」構想は明らかにレーニンの主張とは大きく異なってきた。その後の革命路線は唯々選挙に勝つことに特化していくようにみえた。
2.日本共産党の創立と潰滅
1922年7月15日 日本共産党創立として、平和で民主的な日本をつくりあげることを当面の目標としてたたかったとしているが、実は独自の組織ではなく、世界で初めて社会主義革命を成功させたソ連の国際部とも云うべき、世界の社会主義化を目的としたコミンテルンの日本支部として結成されたもので、その政策から人事、運動資金に至るまですべてに亘ってコミンテルンの支配下に置かれていた。しかし労働運動にも大衆運動にも全くその基盤がなく、ましてや政治活動にも経験が乏しかった。日本共産党は1927年の3・15事件、1929年の4・16事件により、又雪崩を打っての幹部以下の党員転向によって肝心の階級闘争の本番前に組織は壊滅し、革命政党としては全く機能しないまゝに権力に敗退してしまったのである。しかし日本共産党の2020年1月18日の綱領では戦前の党の闘いについて「他の総ての政党が侵略と戦争、反動の流れに合流するなかで、日本共産党が平和と民主主義の旗を掲げて不屈にたたかい続けたことは日本の平和と民主主義の事業にとって不滅の意義をもった」と手放しで自画自賛している。まことに能天気というか、おめでたいと云うべきである。
3.丸山眞男による批判
丸山談「ここで敢えて取りあげようとするのは個人の道徳的責任ではなく、前衛政党としての、あるいはその指導者としての政治的責任の問題である。ところが不思議なことに、ほかならぬコミュニスト自身の発想において、この問題の区別が、しばしば混乱し、明白に政治的指導者の次元で追求されるべき問題が、いつの間にか、共産党員の奮闘力闘振りに解消されてしまうことが少なくない。つまり当面の問いは共産党はそもそもファシズムとの戦いに勝ったか、負けたかということなのだ。
政治的責任は峻厳な結果責任であり、しかもファシズムと帝国主義に関して共産党の立場は一般大衆と違って、単なる被害者でもなけれは、況や傍観者でもなく、まさに最も能動的な政治的敵手である。この闘いに敗れたことと、日本の戦争突入とはまさか無関係ではあるまい。敗軍の将はたとえ彼自身いかに最後まで踏み止まったとしても、依然として敗軍の将であり、敵の砲撃の予想外の熾烈さや、その手口の残忍さや味方の陣営の裏切りをもって指揮官としての責任をのがれることは出来ない。戦略と戦術はまさにそうした一切の要素の見透しの上に立てられる筈のものだからである。もしそれを過酷な要求だというならば、はじめから前衛党の看板など掲げぬ方がいい。」と直言している。当然の指摘と言えよう。
4.日本共産党の理論の変遷
1961年7月の第8回大会で採択された日本共産党綱領では「労働者階級をマルクス・レーニン主義とプロレタリア国際主義でかため、国会を反動支配から、人民に奉仕する道具にかえ、革命の条件をさらに有利にすることが出来る」としている。
更に「プロレタリアート独裁の確立、生産主段の社会化、社会主義的な計画経済にすゝむ」としている。
しかし1951年8月の綱領では「日本の解放と民主主義的変革を平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」と明記している。暴力革命不可避論である。
この決定的違いを、一体何を根拠として変更したのかを一切説明していないのだ。
1961年綱領で暴力革命を放棄し、議会主義に転じた党は1970年の11月大会で「党はマルクス・レーニン主義を行動の指針とする」から「理論的基礎とする」と、レーニン主義の暴力革命不可避論から距離を置き、ついにはマルクス・レーニン主義を放棄し、「科学的社会主義の理論」と云う訳の分からぬものにすりかえたのである。
尚レーニンは「国家と革命」の中で「プロレタリアートはまずブルジョワの支配下で行われる選挙で過半数を獲得しなければならない。しかる後にはじめて支配しようとする事が出来るなどと考えるのはペテン師か白痴だけだ。われわれはこれと反対にプロレタリアートは先ずブルジョアジーを打倒し、権力を手中に納め、それから労働者の多数の共感を得るようなやり方で、この権力、すなわちプロレタリアートの独裁を自己の道具として使用せねばならないと主張する」と述べている。つまり資本主義的経済構造の上には、資本主義的な政治制度、法律体系がのっており、下部構造の変化が上部構造を変化させるのであるとの社会科学の常識からしてレーニンの主張はむしろ当然と云えるのだ。
日本共産党の理論の変遷は暴力革命とプロレタリアートの独裁をなし崩しに変更しようとする、まことに姑息な手段と云うべきである。日本共産党はレーニンの云うペテン師か白痴だけが考えるやり方に移行したのである。
5.ソ連を始めとした東欧社会主義の崩壊
2020年1月18日に採択された日本共産党綱領によれば1989年~91年に起ったソ連、東欧の支配体制の崩壊について「レーニン死後スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義、専制主義の道を進んだ。「社会主義」の看板を掲げて行われただけに、これらの誤りが、世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響はとりわけ重大であった。(中略)これは社会主義の道から離れ去った覇権主義と官僚主義、専制主義の破産であったと」総括している。又1966年に始まり10年続いた中国の文化大革命についても「赤旗」に長文の論文が掲載されて「これは毛沢東一派の奪権闘争である」と結論づけている。つまり、いずれも事実はその通りであったとしても、何故この暴走を止める事が出来なかったか、それを許した社会制度、全くチェック機構がなかったのか又はあっても働かなかったのか、社会制度そのものに原因があったのかを明らかにするのが、科学的社会主義の理論で武装( 科学的社会主義の理論そのものがあるかどうかも不確かであるが )した日本共産党の役割ではなかったのか。もし、指導者が悪かったからの人的原因を理由としたならば、日本共産党が権力を握ったあと、同じ誤まちを冒さない保証はどこにもないからだ。
6.民主集中制について
日本共産党が大きく変貌する中で唯一変わらないものがる。それは組織原則の中心 民主集中制である。
中央集権制はそもそも軍隊組織の要であり、敵と戦う際、その作戦をその都度、民主主義に則り討議にかけて決定していたのでは戦えないのは当然であり、上位下達が必然的に要求される最高責任者の命令が絶対なのだ。階級闘争前戦で闘う革命政党にとっても不可避の体制であり、かつ敵から自己の組織を守る為に党員各自が自己の所属する組織以外の連絡は禁止されている。本来革命が成就した時点で解消されるべき体制である。
現在の日本は問題はあっても一応民主主義が保証されていて、党の集中制は害の方がはるかに多いとみられるが何故か党はこれを手放さない。
1977年9月号の「現代と思想」に田口富久治 名古屋大学教授(当時)の論文がある。
「先進国革命と前衛政党組織論」である。
ここでは当時「民主集中制」が今日の発達した資本主義国の共産党のあり方をめぐって一つの鋭い争点を為しているとして、共産党のもっとも基本的な組織原則とされている民主集中制を取り上げている。1800年代からドイツ社会民主党等のヨーロッパの多くの社会主義政党が党委員会の独裁を可能なかぎり防止する為に統制委員会等を設置し、党委員会の執務遂行を監督する、等の党内民主主義の制度的保証を採っている。(探る)
しかし日本共産党は第7回大会で、中央統制監査委員会を中央委員と並ぶ大会選出機関としていたが、第10回大会では統制委員は中央委員会が任命する統制委員によって構成されると変更した。
それは中央委員会の指導のもとに統一して行うほうが党建設の為に効果的であるからとした。中央委員会を掣肘する勢力を削ぐ方針をとったのである。これは実質的には党執行部の自己責任、つまり政治学の常識でいえば「無責任」に陥る危険がないかと云うことである。
1920年8月6日 共産主義インターナショナル第2回大会で採択された加入条件第12条に「共産主義インターナショナルに所属する党は「中央集権制」の原則に基いて建設されなければならないとし、現在のような激しい内乱の時期には党がもっとも中央集権的に組織され、軍事的規律に近い鉄の規則が必要であるとしているが、レーニンは同じ論文で「政治的自由の行われている国々では党組織において第一に完全な公開性「しかもその組織の成員だけにかぎらない「公開性」を自明のこととして承認している。
民主集中制の原則はやがて政敵ないし異端を党内から排除し、党指導部というよりも、書記長スターリンの絶対的支配を確保するように転化していったと論じている。
田口富久治の論文が「現代と思想」誌に発表されるやいなや、民主集中制の危険という逆鱗に触れたか、日本共産党は「前衛」誌にヒステリックで猛烈、執拗な反論を展開。共産党に対する批判は許さないとばかりの激しさであった。これによって田口の政治に関する論文の掲載は無くなっていったのである。
又、当時の党副委員長 上田耕一郎は現代における前衛組織で「選挙制と報告制とだけでは党内民主主義を充分に保証することは難しい。とくに党組織が巨大になればなるほど、指導部に少人数の強度に中央集権化された幹部組織が固定化する傾向が増大する」と危惧の念を表明している事が、注目すべき発言である。
7.ローザ・ルクセンブルグの批判
レーニンの民主集中制に当時共産主義運動の中心であったドイツ社会民主党の指導者の一人ローザ・ルクセンブルグは民主集中制をレーニンに反対し、党中央だけが考え、決定を下し、残りはそれに盲従することになると厳しく批判した。更に2,3ダースの党指導者が指導し、支配し、実際にはその中の1ダースほどの人達が指導し、そして労働者の代表は時折会議に召集されて指導者の演説に拍手を送り、提出された決議に満場一致で賛成することになると予言していた。
8.「寡頭制の鉄則」論
ロベルト・ミヒェルス(1876~1936)
「官僚制支配においては、上層部が命令権をもち下層の構成員は上の決定に従うように仕向けられる。極めて民主的な組織であったとしても、時がたてば少数者による寡頭制支配に移行する傾向は避けられない」という寡頭制の鉄則論を展開している。
ミヒェルスは1902年ドイツ社会民主党に入り、フランスのサンジカリズム運動や、イタリアの社会党に参加して社会活動に参加したが、やがて政治活動から手を引いて研究に専念。「現代民主主義における政党の社会学」を著し、徹底的民主化を目ざす革命的組織であれ、組織の拡大につれて必然的に官僚化し、少数者の支配にならざるを得ないと主張している。
9.日本共産党の民主集中制の現実
私の知るかぎり地区委員会では党大会の決議案が「赤旗」に発表されるとき、各選挙の時期、地区委員の改選の時期等に地区委員会が開催される。各支部からは人員数に比例する代表がこれに召集される。選挙以外の行事は型通りの委員長の報告と参加者の全会一致の賛成で決定される。委員の選挙は一応立候補も認められるが決意表明も政策発表もなく、当選の可能性は100%無い。委員の候補は地区委員会から推選され、候補の個人の何たるかも分からないまゝ投票が求められる。白紙委任状である。もし一票でも反対票があれば、あたかも反党分子が混入していたかの如く、遺憾の表明が選管からされるのである。決議案に反対しようとしても、例えば支部で反対するとしても、地区委員会で阻止されることはもとより、反党分子の集まりとみなされる。されば他の組織と意見を交換しようとしても規約で禁止されており、党中央に意見を表明する事は事実上出来ないシステムが構築されているのだ。
10.民主集中制の典型
1964年の 4.17ストをめぐる共産党の対処にみる事が出来る。常に熱心なスト推進派であった共産党がスト一週間前に突然このストライキは権力の挑発であるとしてストに反対する論陣を張って、我々を驚かせた。しかし病気療養中(ルーマニアであったか)で海外に居た宮本委員長が帰国するや「赤旗」に長文の論文を発表「4.17ストと当面する労働運動の諸問題」で中央委員会の決定を誤りだと指摘、この決定を撤回した。数十名の党中央員の面々は、いずれも一騎当千の理論家のつわもの揃いで彼等が衆知を集め、当然権力の動向の逐一も情報を集約して決定した事は明らかであったと思われる。それが宮本委員長の意見によってこうも簡単に覆えされてしまうとは、多分人事権も握った絶対権力者の宮本委員長に忖度したとしか思われない。田口論文にみる民主集中制は結局、一人の独裁者を生むこと、意見の異なる者は排除して行く事は、過去多くの反対意見を有する人々が反党分子として党から放遂されていったのである。一たん権力を握ると余程の事ないかぎり地位は安泰、権力は一層強まって、独裁者を生む必然性が高くなるのは明らかである。
民主集中制を手放さないの真の理由もそこにあるのではと思われる。
11.一方で27万人とも云われる一般党員は党を信じ、真面目で、正義感に溢れ、意志が強い人達が多い。
半植民地化となっている日本を憂い、沖縄の現状を怒り、原発に反対し、政府の横暴を糾弾し、日本の社会を真の独立と平和な国にしたいと念ずる人ばかりである。原発反対のデモに参加するが、参加者の多くが昔からの党員で活動してきたと思われる中高年の婦人が多い。共産党はこのような党員に支えられて、現実路線をとり、政策もその反映でもあるのだ。その点で農業を捨て、食料の自給の道を放棄し、エネルギー改革に目を背けて化石燃料と原発に依存する環境破壊の道をすゝみ、公文書偽造、破毀と前代未聞の暴挙を行う自民党の反国民的な政治に唯一対抗している事もまた事実である。その事からも共産党が民主集中制の組織原則を止め、開かれた政党になる事を切に望みたい。(完)