「期待と回想」 鶴見俊輔
1.「思想の科学」「べ平連」での活動や同時代の知識人について語っている。
鶴見和子
「思想の科学」同人として武谷三男、都留重人、武田泰淳はマルクス主義に理解をもつものとして、ある程度の理解を示すものとして丸山眞男、距離を保っていたのは鶴見俊輔、渡辺慧であった。同人になるについて鶴見は共産党に異をたてることになるから参加したくないとの見解に対してマルクス主義者の武谷は「共産党に引きまわされない団体があってもいいじゃないか」と、云い、後に渡辺が宮城音弥を連れてきて、反マルクスの論陣を張って武谷等と対決するが、武谷等はこれも認める鶴見俊輔は若干23歳の若さで「思想の科学」の責任者となったが、武谷の示したこの考えが50年続いた理由の一つであろう。
鶴見は「姉和子が人間関係を全部つくり、その据え膳を私が食べたもの」と語っている。
2.加太こうじについても「加太さんは戦前からの左翼なんです。戦後『赤旗日曜版』をつくった一人なんですよ。加太さんは共産党本部に行って、一度としてインテリとして扱われたことがないとね。加太さんは小学校のころから紙芝居の絵を描き、卒業するとそのまゝ紙芝居の作家になったでしょ。共産党本部は、彼の知識人としての実力をちゃんと見ることができなかった。ところが「思想の科学」に来ると、どんな議論を出してもきちんとやる。そういってました。加太さんは公式のマルクス主義者なんですよ。しかし「思想の科学」の編集、刊行に対して責任をもち、糖尿病で倒れるまで長くつゞけました。80年に発行人になり、たいへんな額の金銭を負担したんです。あるときから大学風じゃなくなるのですよ。つまり加太さんがリーダーになるような会になったんです。」と共産党の権威主義に対しての批判も語っている。
3.このなかで藤田省三、桑原武夫、竹内寛子、林達夫、小田実、中沢新一、加藤周一、今西錦司等多くの言論人等が語られており、辻元清美が好き、彼女はアホだからともある。
また鶴見は葛飾の金町に一時住んでおりその家族の一歳の女の子と一緒に暮らしていたとの記述もある。
加太こうじについては長く金町に居住していた。金町小学校のPTAの文化講演会に当時既に有名人であった加太こうじが講師として呼ばれ、加太こうじは「ナチスの国会焼き討ち事件」とそれにまつわる宗教の欺瞞性について語り、校長や地元神社の宮司であるPTA会長、PTA役員たちを狼狽させている。