丸山 眞男 座談 No. 7『展望』誌    2022年9月28日

丸山眞男座談 No.7       

初出1968年1月号「展望」誌(筑摩書房)

このなかで森有正は「日本には思想の連続的発展に転化しうる経験がはじめから欠けていたんじゃないだろうか。日本では思想の連続的発展がない。どうしても一に体験を丸ごともってきてやり直すわけです」「フランスでは教会や宗教のモラルでない、宗教に支えられていない世俗的存在のモラル、これの伝統が非常につよい。これがある為に、たとえば宗教の社会的勢力が弱まっても、社会生活に倫理性がなくならないんですよ。私に分かったことは、そういうモラル・ライック(世俗的倫理)といわれるものが実は「社会」と云う事の意味だと云う事です。社会を構成する各々の個の経験によって各個人にまで、その社会を構成している人間存在と結びついている。これがなければ啓蒙思想もフランス革命も生まれないし、レジスタンスも生まれないわけですよ。コミュニストとカトリックとがある事態に直面して根本で一緒になってレジスタンスをやれたのはそうして世俗的倫理があるからでしょう。こう意味でのモラルがないという事は社会がないという事です。あるいはそういう個々の人格を定義する経験をもつ人間集団を「社会」と呼ぶのです。人間は集って住んでいるけれども人間の社会は欠如していつこういう倫理性をもった人間の社会の上に立った社会主義や民主主義を日本に適用したらどうなるか、これは混乱以外の何ものでもないわけですよ。」

木下順二「ぼくはこの間久しぶりに自分の旧制高校の同じクラスの同窓会に行ってみてびっくりしたけれどもそこには戦争中の特高課長がいるし、自衛隊の海軍少将(海将補)そういう人たちがいて、お互いにゲラゲラ笑いながら話している。同窓会に限らず社会のなかに個としてのはっきりした意識をもって構成されている場所がどうも少いんだ。」

森「フランスにはそういう同窓会的なものはまったくないね。学校を出てから別々におとなになって、別の社会に入った者同士が昔いっしょだった学校のことをなつかしがるという空気はまったくないですよ。一人前になっていなかったときのことを集ってわいわい言ってみるという趣味は全然ないね、向こうには。」

木下「齢とってから集まってわいわいやるというのは年とってもあまり一人前にならないという証明にならないこともないね。日本の場合には」

丸山真男「体験共同体なんだ。学生のときの体験は職場に入れば全然別になってしまうから。共通基盤がなくなってしまう。経験の創造性というものがなくなって、体験や追憶の共同性へのめりこんでしまう、やがて新制教育は根性がない、旧制高校にはあった、といつのまにかムードか一種の「イデオロギー」になってくる。」

森「私が発見したことは、国際情勢は戦前からみても、戦中戦後になってからも非常に変わったにもかゝわらず「日本」の実体はほとんど全く変っていないという事です。これは驚くべきことですね。決していゝ意味で言っているのではないんです。批判して越えていかなければならない。いろいろな問題がほとんどそのまま、いや完全にそのまゝ残ってしまっている。天皇制の内容が変わって神である天皇が国民統合の象徴である天皇になったとか、議会制度が昔より民主的におこなわれるようになったとか、そういうことがいくら言われても、そんな事ではごまかすことのできない日本の社会独特の非常におくれた在り方というものが、今日なおずっと続いている。」「経験が定義するのは一人の独立した人間ではなくて、人間の関係なのですね。しかもこの関係は平面的なものではなくて、序列的な上下関係になっている。平面的関係があるとすれば必ず上下的なものによって媒介されている。教育勅語や軍人勅諭はその典型的表現です。」

森「日本はPTAとかいって教師と親とが癒着してしまって子供は腹背から気脈をつうじた敵に監視される。」

 

等非常に納得性のある話が続いている。

第1の思想の連続性については、マルクス主義が日本に入ってきて日本人は丸ごとこれを受け入れた結果、国家権力の弾圧に雪崩を打って転向した事に良く現われている。

第2に日本は変らないについては、第二次世界大戦を国民的に総括しておらず、何が原因で戦争が始まったのか、その責任は一体誰がとるのかを極めて曖昧なまゝにやりすごし一億総懺悔でうやむやにした附けが今日まで引きついでいる。日本国民の大多数が自分達は被害者であると思い込んでいるのが実体である。戦後の様々な物事をしっかりと総括しないまゝできた事が借金1,220兆円の現実を生み、経済の停滞を生み、国民の深刻な貧困を生んでいる。

日本では個人が自立していない。特に秩序は上下関係で成り立っており、多くの組織が誰も責任を取らない体制で進んでいる。総ての社会では新聞を賑わす犯罪や不正に従業員は全責任を感じていないどころか自分達は上からの命令でやれされている犠牲者であるとの認識である。

日本社会獨得の非常に遅れた在り方というものが、戦前戦後変わることなく続いているのだ。

第3の同窓会について、私の周囲でも同窓会は依然として盛んに行われている。個としてのはっきりした意識が全くないと言わざるを得ない。ちなみに私は学生時代の同窓会に参加した事は一度もない。昔の話を皆で追憶して楽しむという興味が全くないからだ。この日本人の意識が続くかぎりでは、民主主義の実現や基本的人権の現実等は極めて難しいと言わざるを得ない。1968年の指摘が自民党の圧倒的多数支配のもと一層際立ってきた。