作品紹介 九成宮醴泉銘 巻子 銀泥 / 李白 雑言古詩 「王昭君」「王壷吟」(金・ 銀泥) / 庭の秋草 金泥 2022年11月3日 

 

 九成宮醴泉銘 欧陽詢 (557年~641年)  巻子 銀泥

唐の太宗皇帝が隋の仁寿宮を修理し造営して九成宮とした。貞観6年(632年)夏、避暑に行った時その一隅に甘醴な泉が湧き出したのを記念する為に碑を現在の陜西省麟遊県に建立した。勅に奉じて欧陽詢が書いたもの。

宋以来拓本をとられることが多く、字が磨滅して痩せる毎に刻り拡げて太らせてきたが、すでに元の面影はない。九成宮の拓本はあらゆる碑の中で一番高価で、とりわけ宋拓本は貴重品となっている。

欧陽詢は晋以来の南方系と、北魏以来の北方系を統合して新しいスタイルを創り出したといわれ、今もって楷書の聖典と呼ばれる。

碑は九成宮址の近くの建物「碑亭」にガラス張りで収蔵されており、拓本をとる事は出来ない。

九成宮醴泉銘 碑 全体像 

 

九成宮醴泉銘 碑の一部

度重なる採拓により字が摩滅し彫り拡げられた跡が伺える。(1995年11月19日 撮影)

 

李白 雑言古詩「王昭君」 銀泥 

漢家秦地月 流影照明妃  一上玉関道

天涯去不帰 漢月還従東海出 明妃西嫁無来日

燕支長寒雪作花 蛾眉憔悴没胡沙

生乏黄金桂図書 死畄青塚使人嗟

前2世紀の中頃、東胡・月氏を破り、漢に侵入した匈奴帝国の第2代の王、冒頓単于(ボクトン・ゼンウ)に苦しめらた漢帝国は彼を懐柔すべく、漢から貴女を献呈することゝし、後宮から人選する。当時皇帝に自分を売り込むために画家に賄賂を贈って美人に描いてもらうのが通例であったが、王昭君はこれを行わず醜女に描かれた為に選出された。皇帝は本人をみて後悔したが後のまつりで王昭君は匈奴のもとに贈り物とされたのである。

王昭君の諱は「王明君」「明妃」と称された。 

 

李白 雑言古詩「 王壷吟 」 銀泥

烈士撃玉壷 壮士惜暮年

三盃拂剣舞秋月 忽然高詠涕泗漣

鳳凰初下紫沼詔 謁帝稱觴登御筵

揄揚九重萬乗主 謔浪赤墀青瑣賢

朝天数換飛龍馬 勅賜珊瑚白玉鞭

世人不識東方朔 大隠金門是謫仙

西施宣笑復宣嚬 醜女效之徒累身

君王雖愛峨眉好 無奈宮中妬殺人

 

西施宣笑・・・・→ 累身  訳

「西施は笑い顔も しかめ顔もと もに美しいが 醜女が真似をすれば、その甲斐もなく 器量を下げるだけである」の意。

 

西施(セイシ)は春秋時代の越の絶世の美女。越と呉が中原に覇をとなえるために長く争ってきたが、越王の勾践(コウセン)の参謀范蠡(ハンレイ)の策謀により西施が呉の王夫差に献じられた。夫差は西施の美しさに溺れて政治を疎かにした為に越に敗れて自殺に追い込まれ、呉は滅亡するのである。

また芭蕉は「奥の細道」に「象潟や 雨に西施が 合歓の花」がある。

いま象潟に来て、もうろうと雨に煙った風景を眺めると自ずから寂しさと哀しみの念が湧いてくる。辺りには西施が憂悶の目を瞑(ツム)る姿を髣髴とさせつゝ合歓が雨に濡れて咲いているの意である。

西施は中国の漢詩に王昭君と並んで数多く取り上げられている美人である。

~~絵は西施~~~銀泥

 

金泥で描く秋草

1940年の終りから50年代の初め頃我が家の庭の一部は鼠黐(ネズミモチ)の垣根で隔てられた一隔があり、80坪程の雑草地であり、雑草に蔽われたこの空間は多くの虫が生息し夢の世界であった。月に照らされた夜の秋草は不思議な美しさがあった。この絵は子供の頃にみた幻のような世界である。

 ~~ 御仏の なを尊さよ けさの秋 ~~~~