マティスのロザリオ礼拝堂製作について  2023/7/11

東京都美術館にてマティス展みる。

マティスに特別の関心を持ったのは20数年前にフランス製の額入りのマティスの封筒付手紙を入手した。これは馴染みの骨董屋でマティスとオーギュスト・ルノワール、ジャンポール・サルトル、シドニー・ガブリエル・コレットの手紙があったが、マティスの手紙がずば抜けて美しかった為である。

ロザリオ礼拝堂は南フランスのニースから近いヴァンスにあり、当初教会側のドミニコ会修道士が瞑想の為に相応しく薄暗い神秘的な雰囲気の建物を望んだのに対し、マティスは自己の芸術を最大限に表現し南仏の太陽の降り注ぐ明るい礼拝堂を完成させた。

1951年5月の献堂式に健康が優れなかったマティスはニースのレモン司教宛てに手紙を送っている。「わたくしはこの仕事だけに4年のあいだ専心して製作に励みました。これまでの活動の全てを凝縮した成果と言えましょう。たとえ不出来なところがあるとしても、わたくしは、この礼拝堂を傑作と考えております。わたくしは、猊下がその長い人間観察と深い洞察により真実を追い求めることに捧げられたわたくしの人生の成果を必ずや評価して下さることを信じております」と。 (註:訳文のママ)

 

しかしマティスが80歳を越えてから、4年の歳月を費やして創り上げたこの礼拝堂に対して、12歳年下のピカソが当時コミュニストであったことから、信者でもないのにカトリック教会を手掛けるのはおかしいと発言した事もあってマスコミを賑わせて「礼拝堂事件」と呼ばれた。マティスは「私はむしろ仏教徒だろう」と答えている。

 

さて、私の手元にある手紙。

「僕はパリにいます。君の絵葉書を受け取った。ありがとう。君はいつパリに戻ってくるんだい。戻って来いよ。僕はまあまあ元気です。礼拝堂の仕事で精神的に大きな緊張を強いられていたから疲れたよ。大論争になった奉献で身も心も疲れてしまった。君のやり方は変えないでおくれ。でも君がパリに戻ってきたときは、僕は大喜びで迎えるからね。」     

                    君の兄弟  マティスより 1951.7.9    

 

(相手はアンドレ・ルヴェイル 30年以上続いた友人。 1991年の献堂式を終えて間もなく書かれたもの。)