「 日没 」 桐野夏生 著 岩波現代文庫
1.小説家マッツ夢井は性愛を描く大衆作家で、レイプや暴力、犯罪という題材を取り上げている。ある日彼女のもとに、総務省文化局文化文芸倫理向上委員会という政府機関らしきところより召喚状が届く。出頭場所はJR線 C 駅改札口である。彼女は逡巡したあげく、C 駅の出向くとそこに男が待っており、車で目的地に着く。房総半島の一角に有刺鉄線で囲まれた断崖の上に建つ「療養所」に問答無用で収容される。収容所には作家とおぼしき数十人が収容されているようであり、マッツはB98号と呼ばれる事となる。収容された人達は互いに口を利く事も、接触する事も禁止され、職員に声をかける事も許されない。外部との連絡も許されず、テレビ、ラジオも一切無い。極めて劣悪でしかも少量の食事をあてがわれ、収容所側からは「社会に適応した小説を書く事」を強制される。心身ともに衰弱して、追いつめられた収容者達は身体が弱って死に至るか、絶望して断崖から身を投げて死亡してゆく。政府が反社会的作家とみなした作家は、このように拉致されて、秘密裏に収容所に送られ、死亡して行く。世間では「あの作家、最近見られなくなったが、いつの間にか死んでいたのか」とあまり話題にもならないのだ。権力を使って表現の自由を蹂躙する空恐ろしさが、現実を帯びてくる作品である。
2.権力者達の戦略を考えてみると、単純に権力をかざして押さえ込むような事はせずに、世論を巧みに誘導して、ある程度の世論の合意を作り出し、形式的な民主主義に則って、事を運んで行くのが常道である。
3.日大の違法薬物問題を考えてみよう。一部学生の薬物使用を巡っての学校の対応にマスコミの煽動を巧みに利用、世論を日大批判に向かわせて、大学への助成金を90億円を3年に亘って中止する措置を取った。巧みに醸成された世論をバックにした政府が行ったものであるが、果たして学校がとった措置は間違ったものであったのか。学校の有する自治権を考えれば、そもそも問題の学生を教育し、保護するのは当然であり、当該学生をすぐさま国家権力たる警察と結託して、学生を引き渡しても良いものであろうか。当該学生が殺人や傷害事件を犯したならいざ知らず、個人的な不祥事をもって、その責任を学校に押し付ける事は、政府の意向に逆らえば、学校の存続に拘わる生殺与奪の権限を与える事となる。こうした事件を防止する為に、学生間の看視活動を促す、密告制度の奨励となりかねない。学問の自由の重大な侵害と言わざるを得ない。もしこれが正当な措置であるとすると、自民党の神田憲次財務副大臣の税金滞納及び差押さえ(計4回)を繰り返しており山田太郎文科兼復興政務官は女性をめぐる問題発覚、柿沢未途法務副大臣の選挙違反を江東区長に勧めていた事で計3名が辞任に追い込まれている。岸田内閣は昨年の夏から秋にかけて4人の閣僚が辞任している。柿沢議員は酒気帯び運転で逮捕された前歴もある。これらはどうなるのか。政府の度重なる政治家の不祥事は組織の問題であり、政府はもちろん、これを防げない衆参両院の責任となり、議員全員の連帯責任は免れない事となるのではないか。少なくとも減俸処分は免れまい。
4.旧統一教会の問題はどうか。
もしこれを犯罪と認定するとなれば、信教の自由は守られるのか。統一教会の最大の争点になっているのが、過大な献金問題であるが、献金する当人がいくら献金しようが、あくまで個人の問題であり、当人の財産をどう使おうが自由で他人から云々されるべきものでもない。
どの献金が正しくて、どの献金は不正であると一体誰が判定しようというのか。
もし統一教会の献金が不当であるならば、創価学会への献金はどうなるのか、日本全国に建設されている学会の建物は数多くあり、その膨大な不動産はすべて信者からの献金によるものであり、その価格は統一教会の比ではない。更にすべての宗教団体は信者の献金によって成り立っており、これ等を全部調査すれば宗教そのものが成り立たなくなるのだ。二世問題も然り、総ての宗教に当てはまる。また、宗教団体が創価学会を始めとして、信教の自由をめぐって政府に異議を唱えないのも誠に不思議な事である。敷衍して考えれば政治献金もこの埒外ではない。
これらを考えてみると、様々な手段を使って世間の物事を規制し、自由を奪って行く方向に次第に誘導されて行く危険を感じざるを得ない。それは国民の同意を得る作戦をたてながら、民主主義に従って粛々と進めているのを感じるのである。
「日没」はこれを冷めた目で私達につきつけているのだ。