「私の引き出し」 吉村 昭 文春文庫 2024年2月2日

「私の引き出し」         吉村 昭  文春文庫 

1.吉村昭は「戦艦大和」をはじめ戦記ものゝ記録文学を書き始めたが、関係者を探し出して証言を得ることを基本としており、この事によって極力事実確認を明らかにするべく努力を重ねてきた。

当初は関係者が80%近くいて、証言を得ることができたが「深海の使者」に至ると30%程しか会う事ができなくなり、戦記小説を書く事を中止せざるを得ない事となった。

 

以来、歴史小説を書くようになっても、現地に旅をして、その中で触れあう人々、その地の空気にふれることが欠く事が出来ない。

 

その中でその地元で合う人達、その地での呑み屋や小料理屋で地元の料理、酒を飲む楽しみを克明に記している。地元でしか味わう事の出来ない料理や、酒に巡り合う楽しみは、東京に帰って来ても、夕刻なるといそいそとして出掛ける。

永年の勘で、ここが旨いかどうか見極める眼力は、ほぼ100%だそうでまことにうなずける話しである。

 

取材先での図書館をはじめ人々との接触は、通り一遍を越えて非常に深いものがあり、多くの人達とその後も繋がりも続いており、その事が作家活動の励みともなっているのだ。

 

このエッセーは吉村昭の人間性を良く表している。

私の人生を振り返ってみる契機ともなり、吉村昭の物のとらえ方、感じ方が個人的に納得したり、思いあたる点が多い事に気がつく。

 

2.  吉村昭は文学者の中で酒豪東の横綱にランクされているそうで、確かに酒量は多いようである。

 

私の場合を考えてみると、50歳で会社勤めをリタイアするまで酒はほとんど飲んでこなかった。退職した50歳頃から酒を飲み始めた。外で飲むことは極めて稀で、自宅で夕食前に飲む。一日2合程度を30分程で毎日飲む。日本酒以外はほとんど飲まない。

 

日本酒が日本文化の重要な位置を占めている事もある。

旅行に行くと、地元の蔵元を訪問する事が多い。石川県白山市の小堀酒造の「萬歳楽」、この蔵には見事な庭園があり希望者には、開放している。コロナ前には、5年連続で石川県の蔵元を訪ねてきた。

鶴来町にある「旅館和田屋」と共に英文学者吉田健一がどこかで書いていた2件でもある。

また石川県には、日本一と謳われた、杜氏の濃口氏の菊姫があり、この蔵の22種類の酒を飲んでいる。「天狗舞」、「手取川」と毎年訪れていた好みの酒の県である。

 

山形では「上喜元」がある。建物は、県の文化財に指定されて素晴らしい建物である。酒も大人向きの味わい深いもので、漫画「夏子の酒」のモデル庄内生まれの幻の米「亀の尾」を100%使った純米吟醸をつくっている。

「えふわん」で知られる米鶴酒造の社長は、蔵にモーツァルトを流している、と語っていた。「楯の川」酒造は最近飲み初めた切れ味の良い酒である。

小淵沢にある「七賢」は典型的な地元の名家であり、建物の内部には、白い平らな石が敷かれており、表面は鏡のようであったが、これは権力から役割を委譲されたお白洲であった。伝統を感じさせる酒である。

 

東京青梅の「澤乃井」は駅を下りると酒の匂いが押し寄せてくる澤乃井の町である。

蔵元が過去収集した簪や鬘を展示した「かんざし館」があり、よくこれだけ集めたと関心する見事さであつた。

 

50件程の藏元を巡って来たが、いずれも歴史を感じさせる文化財ばかりで、蔵元で飲む酒のいずれも美味であった。

 

吉村昭は私の好きな作家の一人で、数多くの作品の80%近くは読んできたが、いずれも無駄な言葉は削って簡素な文体で、情緒的表現を排して、心地良い作品ばかりである。