「李陵」中島敦 全集 全三巻 ちくま文庫より 2024年7月11日

昭和18年7月号の文学界に初出したものである。

 

漢の武帝の時代、強大な戦力を有する匈奴が毎年秋風が立ち始めると胡馬に鞭打った剽悍な侵略者の大部隊となり、漢内に攻め入り、人民が掠められ、家畜が略奪されていた。

既に秦代は冒頓単于 (ボクトツゼンウ) が匈奴帝国を統一、秦の始皇帝は万里の長城を築いてこれを防ぐべく対抗していた。

武帝の后 衛子夫の弟 衛青と甥 霍去病(カクキョヘイ)の目覚ましい活躍によって匈奴を北方に追いやり、一時的に平穏を維持したが二人が死去すると再び侵略が激しくなった。

武帝は過去の名将李広利将軍に3万騎を与えて、またその補助役として李陵将軍に五千の歩兵で出陣させた。漢には騎馬の余力が全く無かった為である。

砂漠の中での戦闘に歩兵のみの軍隊はまことに無謀な武帝の命令であった。李広利の部隊は敗北して漢に逃げ返ったが、砂漠にとり残された李陵の部隊は主たる武器一人当たり200本の弓矢で対抗、匈奴の数万の軍隊に対抗、度重なる戦闘で数万の匈奴を倒したが矢尽き、戦闘員も半減し、遂に降伏した。

 

捕虜となっていた匈奴の話として、漢から降った李将軍が常々兵を練り、軍略を授けて漢軍に備えさせていると言う事を聞いた武帝は激怒して李陵を裁判にかける。武帝を恐れた臣下達は総て李陵を非難するが、武帝の指名を受けた司馬遷は李陵弁護の論陣を張る。

これに怒った武帝は国の記録を司る役、太史令の司馬遷に宮刑を言い渡す。司馬遷の父 談は元周の官吏であり、古今の一貫する通史の編纂こそ一生の念願であったが、材料の収集のみに終わっており、後は息子 遷に託した。遷は先ず課せられた暦の改正という大事業に没頭して、その後に史記の編纂に着手した。時に42歳、その数年後刑が降ったのである。5ケ月後彼は再び筆をとる。その2年後武帝は命じた罰に対する後悔の念から罪を免じて元職に復帰させている。

司馬遷60歳にして史記130巻52万6千5百字が完成した。

 

さて、捕虜となった李陵はその目覚ましい武勇により匈奴から賓客の礼を以て遇された。匈奴の風俗は野卑滑稽と見られていたが、その地の実際の風土、気候等を背景として考えてみると野卑でも、不合理でもないことが李陵にも理解できた。

単于が言うには漢の人間が二言目には、己の国の礼儀といい、匈奴の行いを以て、禽獣近いと見做すことを難じて、漢人のいう礼儀とは何ぞ、醜い事を表面だけを美しく飾り立てる、虚飾の謂ではないか。利を好み、人を嫉むこと、漢人と胡人と何れが甚だしき? 色に耽り、財を貪ること、また何れか甚だしき? 表べを剥ぎ去れば畢竟何等の違いはない筈。たゞ漢人は之をごまかし、飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだと。漢初以来の骨肉相食む内乱や功臣連の擠陥(セイカン)の跡を例に引いてこう言われた時、李陵は殆んど返す言葉に窮したと述べている。

 

漢に居た時の剛直な武人であった李陵の気持ちには漢の権威主義、形式主義は極めて煩わしいもので、匈奴の方がはるかに人間的で素直で共感できるものであったに違いない。

まして妻子や老母まで殺された漢には一片の未練もなかった事であろう。匈奴に居る方が居心地が良かった事は間違いないところだ。

 

中島敦の描く故郷を思う李陵の気持ちは彼が考えた事で、武人の李陵の心の内は全く異なるものであったのではないかと思われるのである。

また、司馬遷は裁判のあと武帝に「宮刑」を言い渡されたと描かれているが、史記の田中謙二の解説によれば、獄に投ぜられ死刑の宣告を受ける。当時は金銭で刑を贖うことが公然と許可されていたが、遷の場合その為に挺身してくれる親族、知友は一人としてなかった。金銭で贖うことができぬ場合、残された生命の代償に「宮刑」があった。性殖器を切断する刑である。これを遷は選択。48歳で男性と永別するのである。

彼がそれを選択したのは何故か。それは外ならぬ亡父の遺託ー孔子の「春秋」をうけて、正しい歴史を書く、栄光ある使命であった。

 

彼は言う「隠忍して 苟 (カリソメ) に活き 糞土の中に函せられて辞せざる所以のものは、私心の尽くさざるところあるを恨み、世を設するも文彩の後世に表われざるを鄙陋すればなり」と。

中島敦の描く死刑を宣せられた部分を省くと「自分で『宮刑』を選択してまで、史記を書く事への強い思いが弱くなってしまうのではと感ずる」

 

中島敦の代表作とも言うべき李陵は、もっと別の考えをもった人物ではなかったかと思うのである。 

参考文献 史記 5巻の1  田中謙二、一海知義、朝日文庫