2024年

10月

15日

都知事 小池百合子氏の選択について   2024年10月15日

 

2024年6月23日付け東京新聞に法政大学名誉教授 前総長の田中優子氏の「拝啓小池百合子様」としての記事が掲載されている。

 

. 6/7の記者会見で関東大震災への追悼文の事を問われ、あなたは東京大空襲の話に入れ替えて答えました。私はそこにごまかしを見てしまいました。

朝鮮人の虐殺があったことは周知の事実です。事の正否ではなくうそをつく人は政治家として相応しくない」

 

2. 明治神宮外苑の民間事業者による再開発事業で、日本イコモスはこの2年半で15回以上の意見者、提言、要請、調査資料、代替案、警告を東京都に出した。都が認可した神宮外苑のまちづくり計画が、樹木伐採をともなう、超高層ビル建設計画であることが明らかになったからでした。東京はロンドン、パリ、ニューヨーク等と比較して、その一人当たりの緑地保有率が極めて低く、公園面積が狭いことはご存じですね。更に狭くして高層ビルを建て続ける事にいったいどのような未来があるのでしょうか?と問うている。

 

さて既に1913年1月(大正2年)に永井荷風が「浮世絵の鑑賞」でこんな文章を述べている。

「この数年来市政改正と称する土木工事が何ら愛惜の念もなく見付けと呼び馴れし旧都の古城門を取払ひなほ勢いに乗じてその周囲に繁茂せる古松を伐採するを見、日本人の歴史に対する精神の有無を疑はざるを得ざりき。泰西の都市にありては 一層の古木一宇の堂舎といえども、なほ民族過去の光栄と表現すべき貴重なる宝物として尊敬せらるるは、既に笑多漫遊者の見知する処ならずや。然るにわが国において歴史の尊重は唯だ保守頑冥の徒が功利的口実の便宜となるのみにして、一般の国民に対してはかへって学芸の進歩と知識の開発に多大の妨害をなすに過ぎず。これらは実に僅少なる1、2の例証のみ。余は甚だしく憤りき、また悲しみき。然れども幸いにしてこの悲憤と絶望とはやがて余をして日本人古来の遺伝性たる諦めの無差別観に入らしむる階梯となりぬ。見ずや、上野の老杉は黙々として語らず訴えず、独りおのれの命数を知り従容として枯死し行けり。無情の草木遙かに有情の人に優るところなからずや」と記述している。

 

100年も前に日本人の歴史に対する精神の有無を疑わざるを得ないと憤嘆させているのに性懲りもなく民族過去の貴重な宝物を幣履の如く破壊しても恬として恥じない都知事小池百合子氏には唯々呆れるばかりである。

 

2024年

7月

11日

「李陵」中島敦 全集 全三巻 ちくま文庫より 2024年7月11日

昭和18年7月号の文学界に初出したものである。

 

漢の武帝の時代、強大な戦力を有する匈奴が毎年秋風が立ち始めると胡馬に鞭打った剽悍な侵略者の大部隊となり、漢内に攻め入り、人民が掠められ、家畜が略奪されていた。

既に秦代は冒頓単于 (ボクトツゼンウ) が匈奴帝国を統一、秦の始皇帝は万里の長城を築いてこれを防ぐべく対抗していた。

武帝の后 衛子夫の弟 衛青と甥 霍去病(カクキョヘイ)の目覚ましい活躍によって匈奴を北方に追いやり、一時的に平穏を維持したが二人が死去すると再び侵略が激しくなった。

武帝は過去の名将李広利将軍に3万騎を与えて、またその補助役として李陵将軍に五千の歩兵で出陣させた。漢には騎馬の余力が全く無かった為である。

砂漠の中での戦闘に歩兵のみの軍隊はまことに無謀な武帝の命令であった。李広利の部隊は敗北して漢に逃げ返ったが、砂漠にとり残された李陵の部隊は主たる武器一人当たり200本の弓矢で対抗、匈奴の数万の軍隊に対抗、度重なる戦闘で数万の匈奴を倒したが矢尽き、戦闘員も半減し、遂に降伏した。

 

捕虜となっていた匈奴の話として、漢から降った李将軍が常々兵を練り、軍略を授けて漢軍に備えさせていると言う事を聞いた武帝は激怒して李陵を裁判にかける。武帝を恐れた臣下達は総て李陵を非難するが、武帝の指名を受けた司馬遷は李陵弁護の論陣を張る。

これに怒った武帝は国の記録を司る役、太史令の司馬遷に宮刑を言い渡す。司馬遷の父 談は元周の官吏であり、古今の一貫する通史の編纂こそ一生の念願であったが、材料の収集のみに終わっており、後は息子 遷に託した。遷は先ず課せられた暦の改正という大事業に没頭して、その後に史記の編纂に着手した。時に42歳、その数年後刑が降ったのである。5ケ月後彼は再び筆をとる。その2年後武帝は命じた罰に対する後悔の念から罪を免じて元職に復帰させている。

司馬遷60歳にして史記130巻52万6千5百字が完成した。

 

さて、捕虜となった李陵はその目覚ましい武勇により匈奴から賓客の礼を以て遇された。匈奴の風俗は野卑滑稽と見られていたが、その地の実際の風土、気候等を背景として考えてみると野卑でも、不合理でもないことが李陵にも理解できた。

単于が言うには漢の人間が二言目には、己の国の礼儀といい、匈奴の行いを以て、禽獣近いと見做すことを難じて、漢人のいう礼儀とは何ぞ、醜い事を表面だけを美しく飾り立てる、虚飾の謂ではないか。利を好み、人を嫉むこと、漢人と胡人と何れが甚だしき? 色に耽り、財を貪ること、また何れか甚だしき? 表べを剥ぎ去れば畢竟何等の違いはない筈。たゞ漢人は之をごまかし、飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだと。漢初以来の骨肉相食む内乱や功臣連の擠陥(セイカン)の跡を例に引いてこう言われた時、李陵は殆んど返す言葉に窮したと述べている。

 

漢に居た時の剛直な武人であった李陵の気持ちには漢の権威主義、形式主義は極めて煩わしいもので、匈奴の方がはるかに人間的で素直で共感できるものであったに違いない。

まして妻子や老母まで殺された漢には一片の未練もなかった事であろう。匈奴に居る方が居心地が良かった事は間違いないところだ。

 

中島敦の描く故郷を思う李陵の気持ちは彼が考えた事で、武人の李陵の心の内は全く異なるものであったのではないかと思われるのである。

また、司馬遷は裁判のあと武帝に「宮刑」を言い渡されたと描かれているが、史記の田中謙二の解説によれば、獄に投ぜられ死刑の宣告を受ける。当時は金銭で刑を贖うことが公然と許可されていたが、遷の場合その為に挺身してくれる親族、知友は一人としてなかった。金銭で贖うことができぬ場合、残された生命の代償に「宮刑」があった。性殖器を切断する刑である。これを遷は選択。48歳で男性と永別するのである。

彼がそれを選択したのは何故か。それは外ならぬ亡父の遺託ー孔子の「春秋」をうけて、正しい歴史を書く、栄光ある使命であった。

 

彼は言う「隠忍して 苟 (カリソメ) に活き 糞土の中に函せられて辞せざる所以のものは、私心の尽くさざるところあるを恨み、世を設するも文彩の後世に表われざるを鄙陋すればなり」と。

中島敦の描く死刑を宣せられた部分を省くと「自分で『宮刑』を選択してまで、史記を書く事への強い思いが弱くなってしまうのではと感ずる」

 

中島敦の代表作とも言うべき李陵は、もっと別の考えをもった人物ではなかったかと思うのである。 

参考文献 史記 5巻の1  田中謙二、一海知義、朝日文庫 

2024年

5月

25日

庭の四季 早春の庭    2024年5月25日

水 仙

椿 (有  楽)

山茱萸(サンシュユ)

雪  柳

庭の四季 牡丹群


牡丹 白


牡丹 ピンク


庭の四季  秋 彼岸花

庭の四季 新緑の庭


庭の四季  庭の石佛  庭石



2024年

5月

20日

雛飾り お内裏様        2024年5月20日

2024年

5月

18日

第32回葛飾の美術家展     2024年5月18日 

 

会期 2024年5月17日(金)  ~  5月26日(日)

会場 かつしかシンフォニー  ヒルズ本館2F ギャラリー

  

和田克巳(大諷)風神雷神図   


会場風景 &ギャラリートーク

2024年

3月

12日

巻子 「売茶翁の詩選」について 2024年3月12日

              写真アップ 2024年4月21日

巻子「売茶翁の詩選」について  

「売茶翁の生涯」ノーマン・ワデル著 樋口章信訳 出版社 思文閣

売茶翁(1675~1763年)は肥前国佐賀藩の城下に生れる。

その第一期 誕生から32歳頃までの修業時代、その第2期、第1期の後半から肥前の龍津寺住職の化霖道龍(ケリンドウリュウ)に仕え、ついには事実上の住職として生きた時代。

その第3期 38年間 月海元昭という僧名をもって肥前蓮池藩の黄檗宗寺院の龍津寺に住む。50歳になった月海は京都に向けて旅立った。放浪して暮らそうと決意して関西圏に住み始めてからの10年間の消息は不明である。60才になって漂泊の暮らしが難しくなった月海は京都東山、鴨川のほとりに小さな庵を借りて茶を売っての生活を始めた。

やがて、そこかしこに茶店を開き、自らを ” 売茶翁  と称して日暮しをしていたが、やがて京都の作家や画家、書家や学者が翁の茶店を訪れて、さながら文化サロンの様相を呈していたのである。

伊藤若冲や池大雅等多くの画家が翁の肖像画を描いており、当時日本中の文化人の中心に位置していたかの木村兼葭堂(本人は書画を良くしてる文人、本草家(註))自ら翁の所有する茶道具を総て模写している。

翁は一杯の茶の代金を決定せず、ただで飲んでいっても良いが、「ただ飲みも勝手、たゞよりはまけもうさず」と客に言っていた。67歳になって翁は僧の身分を捨てゝ一介の俗人となり、自らを「高遊居士」と号して生き、宝暦13年(1763年)89歳で没しているが特に第3期に多くの漢詩を残している。

 

参考文献:「木村兼葭堂のサロン」中村真一郎 新潮社

註:本草家:中国に由来する薬物についての学問「本草学」を修めた人。

 

2024年

3月

09日

作品 日本国憲法を金泥で書く  2024年3月9日

作品 日本国憲法を金泥で書く 202年3月9日

1946年11月3日公布、翌47年5月3日から施行された日本国憲法は「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」を基調とし、戦争の手段の放棄を明記した画期で先駆的なものであった。

以来78年間、一度も日本の軍隊が、他国の人々を殺害する事もなく、日本が侵略されたこともない。曲りなりにも平和裏に今日に至っている。

しかし戦争の足音は次第に高くなりつゝあり、軍事費の倍増が閣議決定され、もし実現すればなんと交戦権を有しないした日本が世界第3位の軍事大国となるのだ。

更に武器輸出を解禁されて、まさに憲法無視の事態となっている。この事態は憲法第2章第9条の「戦争ヲ国権の発動ト認メ武力ノ威嚇又ハ行使ヲ他国トノ間ノ争議ノ解決ノ具トスルコトハ永久ニ之ヲ廃止スル」に明白に違反している。ここで改めて日本国憲法前文を再確認しようと金泥で書くことにした。

 

2024年

3月

07日

「古文書返却の旅」網野善彦 著 中公新書 2024年3月7日

「古文書返却の旅」網野善彦 著中公新書 2024/3/7

2024年1月1日に石川県を襲った大地震で倒壊した時国家の惨状がTVで放映された。

多分上時国家と下時国家ともに被災した事と思われる。

時国家は輪島市と珠洲市の中間あたりにあり、下時国家の建築は1644年頃まで遡りうる事や、上時国家の住宅、蔵が 町野川沿いの「古屋敷」から移築されている事が明らかになっている。

時国家と呼ばれるいわれは、町野川の上流に位置することから上時国家と呼ばれる。

なお、時国家は平安時代末期、文治元年(1185年)源平合戦で敗れて、能登に流された大納言時忠の子平時国を家祖とされており、800年続く旧家で現在の当主は25代目である。江戸時代には大庄屋をつとめた家であり、江戸時代後期に建てられた主屋、米蔵、納屋は上時国家として国の重要文化財に指定されている。

 

1949年東海区水産研究所で漁業制産改革を内実あらしめる為という名目で全国各地の漁村の古文書を借用、寄贈などの方法で蒐集、整理、刊行する仕事を推進し、本格的な資料館、文書館を設立して、それを永続的なものにするのがその目標であった。

10人前後の研究員が、全国から文書を借用し、100万部の資料が集まった。しかし水産庁は研究所に対する委託予算を打ち切ったのである。研究員も離散した為に、集まった文書は東京女子大学の倉庫にリンゴ箱に入れられたまゝ山積された。

集められた木箱4箱に入れられた「時国家文書」が見出されたのである。1981年あたりから本格的に文書返却が始まり、時国家を訪問、ここで改めて見出した文書、帳簿類はダンボール44箱に及んだのである。この他に古い襖紙から寛文年間(1661年~73)にまで遡る江戸中後期の多数の下張り文書を見出しており、総計で10数万点に及ぶと思われたのである。

その整理作業は10年及んだ。目録を作成、写真の撮影、1点、1点を封筒に収めて文書のすべてを返却したのである。

現在、重要文化財となっている両家建物はもちろん膨大な文書類は果たしてどうなっているのであろうか。

日本政府の現在を考えると(両家を過去に具(つぶさ)に拝見した事のある私にとっても人事ともおもえない)。現政府が文化財をさして重視しているとも思えない為にその疑念は拭えない。

 

2024年

2月

10日

「石器時代の文明の驚異」リチャード・ラジリー 安原和見 訳 河出書房新社 2024年2月10日

「石器時代の文明の驚異」

  リチャード・ラジリー  安原和見訳 河出書房新社

まず 「はじめにー野蛮な文明」より

現在の世界の状態、具体的にいえば今日の社会は昔より悪くなっているというのは、世界の神話にほとんど普遍的にみられるテーマだ。とし「今日まで書かれてきた人間の物語は、ひどく編訳されているうえに編集もまったくなっていない。

人類についての記述は、最初の何章かの内容はほとんど削られている。

 

この惑星に人類が登場してから現在までの時間を100とすれば、95%以上は先史時代が占めている。それなのに、人類に関する記述の95%は残りの5%である歴史時代が占めているのだ。

 

むしろ歴史時代のほうが長い本文にくっついた華やかで波瀾に富んだ後書きである。

そして野蛮と見下されてきた文化が多くの点でいかに文明化していたか、いわゆる文明人がどんな野蛮なことをしてきたかをこの本は語り尽くしている。

 

1.に文明的な科学的活動を行う人々が、いかに目をおゝう程の残虐行為を行ってきたかを詳述している。

 

2.先史時代の文化は現代の科学、機械、技術に匹敵するものをもっていないだけでなく、呪術や迷信への依存ー現代文化がすでに卒業したとされる習慣を脱却できずに進歩していないとされてきたが、社会の進歩を奉ずる多くの信者には申し訳ないが、呪術やオカルトなど、迷信的な慣習と呼びそうなことは、文明世界じゅうどこでも盛んに行われている。

 

統一教会をはじめ創価学会等の新興宗教の盛大さはどうだ。

石器時代にも科学的思考は存在したし、その一方で現代にも呪術的思考は厳然として存在しているのだ。

 

3.「現代の文明国の市民より封建時代の農奴は少なかった。したがってそれ以前の社会では個人の権利はさらに少なかったはずたという考えがある。

石器時代の平均的な個人は農奴より(現代の民主主義国家の平均的市民より)もっと自由に生きていたかかもしれないのに) そんな可能性は頭から無視されている。」

 

例えば北極圏のエスキモーやカラハリ砂漠のブッシュマンの一部族クン族のカロリー摂取量は第3世界の多くの国よりも高いだけでなく、先進国でも都市の貧困層に比べて高いという。

 

私達は特権階級の経験ばかりを偏重し、それ以外の人々については、ほとんど無視している。技術が発達すれは個人の生活が向上するのは当然だと思い込んでしまうのだ。

 

東アジアの人骨の研究では、農耕の採用とともに身長、体格、平均寿命が劣化していることが明らかとなり、狩猟民の方が健康状態はよかったのてある。

 

また集約的な農耕、牧畜が発達した段階では、大幅に低下しているのだ。進歩という概念は、見かけほど単純明快ではないと云うことが分かる

 

4. 三内丸山遺跡についての詳細が語られる。

 

前5000年から3500年頃まで集落が栄え、遺跡の中央部だけでおよそ100棟もの掘立柱建物が見つかっているが、食糧の貯蔵に使われたようだ。

 

建物の総数は1000以上になるという。何百という竪穴住居のほか倉庫や物見櫓などの建築物もあったのだ。

 

また深い柱穴、入念な基礎工事から考えて、高層建築であったとみられる建物もある。

遺跡からは様々な木製品、樹皮の器、籠、繊維を編んだ製品があり、共同墓地も見つかっていて、縄文文化はかって考えられていた以上に複雑だったことを示している。

 

驚くほどの規模、集落の規則的な配置から、これが周到な計画に基づく集落であり、この共同体が、よく組織されていた事がわかる。

 

つまりかなりの規模の村と言ってよいもので、土器をはじめとする大量の土製品が見つかっていることから、近辺の小規模な集落に作った製品を供給していた可能性も高かったとみられる。

 

5.ある文化が、文明化されていると言うのは、文字と国家と金属器がなくてはならないとされていたが、それでは縄文文化は何時まで経っても原始的で低い発達段階にある文化としかみなすことはできない。

 

しかし縄文時代の社会には別の驚くべき原理・従来の文明に欠けていた原理が備わっている。

すなわち自然への敬意と、自然との共存である。

 

人と自然との適切な関係がその地域の特性に応じて確立されたときに、文明は出現しはじめる。

 

縄文文化は日本列島固有の海と森に調和した永続的かつ普遍的な生活様式を確立した。

日本文明の真のルーツでありそれゆえに縄文文明と呼ぶべきであるとしている。

 

6.現代文明はいかなる犠牲を払っても進歩しようと傲慢に努力を続けることで、その存在のおおもとである地球を破壊しようとしているのだ。

 

歴史時代の文明の支配のもとでは、残酷と野蛮の度合いはむしろ増大し、大量の人間に苦痛を与える社会的、技術的な手段が増大している事は明らかである。

 

植民地支配のあとに来たものは、表向きは優しげだが、相変わらず押しつけがましい開発と呼ぶ事業だったのである。

 

そのあと、原始時代に於ける、生活、技術、医療、文化等についての事例が記述されて、私達の従来の無知を啓蒙してくれるのである。

 

7.改めて考えてみると、歴史的時代に入ってからの人類の歴史は他の生物に類をみない特異なもので、支配と抑圧、殺戮と戦争、そして環境破壊の連続によって地球という生命体の破壊に至る道をひたすら走ってきたと言えるのだ。

 

昨今の災害、そして温暖化の急速な拡がり方をみると、地球の破壊が現実のものとなっている事がわかる。

 

2024年

2月

02日

「私の引き出し」 吉村 昭 文春文庫 2024年2月2日

「私の引き出し」         吉村 昭  文春文庫 

1.吉村昭は「戦艦大和」をはじめ戦記ものゝ記録文学を書き始めたが、関係者を探し出して証言を得ることを基本としており、この事によって極力事実確認を明らかにするべく努力を重ねてきた。

当初は関係者が80%近くいて、証言を得ることができたが「深海の使者」に至ると30%程しか会う事ができなくなり、戦記小説を書く事を中止せざるを得ない事となった。

 

以来、歴史小説を書くようになっても、現地に旅をして、その中で触れあう人々、その地の空気にふれることが欠く事が出来ない。

 

その中でその地元で合う人達、その地での呑み屋や小料理屋で地元の料理、酒を飲む楽しみを克明に記している。地元でしか味わう事の出来ない料理や、酒に巡り合う楽しみは、東京に帰って来ても、夕刻なるといそいそとして出掛ける。

永年の勘で、ここが旨いかどうか見極める眼力は、ほぼ100%だそうでまことにうなずける話しである。

 

取材先での図書館をはじめ人々との接触は、通り一遍を越えて非常に深いものがあり、多くの人達とその後も繋がりも続いており、その事が作家活動の励みともなっているのだ。

 

このエッセーは吉村昭の人間性を良く表している。

私の人生を振り返ってみる契機ともなり、吉村昭の物のとらえ方、感じ方が個人的に納得したり、思いあたる点が多い事に気がつく。

 

2.  吉村昭は文学者の中で酒豪東の横綱にランクされているそうで、確かに酒量は多いようである。

 

私の場合を考えてみると、50歳で会社勤めをリタイアするまで酒はほとんど飲んでこなかった。退職した50歳頃から酒を飲み始めた。外で飲むことは極めて稀で、自宅で夕食前に飲む。一日2合程度を30分程で毎日飲む。日本酒以外はほとんど飲まない。

 

日本酒が日本文化の重要な位置を占めている事もある。

旅行に行くと、地元の蔵元を訪問する事が多い。石川県白山市の小堀酒造の「萬歳楽」、この蔵には見事な庭園があり希望者には、開放している。コロナ前には、5年連続で石川県の蔵元を訪ねてきた。

鶴来町にある「旅館和田屋」と共に英文学者吉田健一がどこかで書いていた2件でもある。

また石川県には、日本一と謳われた、杜氏の濃口氏の菊姫があり、この蔵の22種類の酒を飲んでいる。「天狗舞」、「手取川」と毎年訪れていた好みの酒の県である。

 

山形では「上喜元」がある。建物は、県の文化財に指定されて素晴らしい建物である。酒も大人向きの味わい深いもので、漫画「夏子の酒」のモデル庄内生まれの幻の米「亀の尾」を100%使った純米吟醸をつくっている。

「えふわん」で知られる米鶴酒造の社長は、蔵にモーツァルトを流している、と語っていた。「楯の川」酒造は最近飲み初めた切れ味の良い酒である。

小淵沢にある「七賢」は典型的な地元の名家であり、建物の内部には、白い平らな石が敷かれており、表面は鏡のようであったが、これは権力から役割を委譲されたお白洲であった。伝統を感じさせる酒である。

 

東京青梅の「澤乃井」は駅を下りると酒の匂いが押し寄せてくる澤乃井の町である。

蔵元が過去収集した簪や鬘を展示した「かんざし館」があり、よくこれだけ集めたと関心する見事さであつた。

 

50件程の藏元を巡って来たが、いずれも歴史を感じさせる文化財ばかりで、蔵元で飲む酒のいずれも美味であった。

 

吉村昭は私の好きな作家の一人で、数多くの作品の80%近くは読んできたが、いずれも無駄な言葉は削って簡素な文体で、情緒的表現を排して、心地良い作品ばかりである。

 

2024年

1月

28日

歌舞伎 「荒川十太夫」をみる  2024年1月28日

歌舞伎「荒川十太夫」をみる。

 

久々に歌舞伎を見た。演目は「荒川十太夫」であり、赤穂義士外伝である。

吉良上野介を討って亡君の恨みを晴らした義士のうち、大石主税、大高源吾、不破数右衛門等と伊予松山藩に身柄を預けられた堀部安兵衛の切腹から始まる。

 

安兵衛は200石の馬廻役と身分が高い事から、介錯人の名前と身分を尋ねる。

つまり自分に相応しい人物を望んだのだ。安兵衛の思いを知った介錯人十太夫は、自分の身分を偽って物頭であると伝える。安兵衛はこれを聞いて満足して死んで行く。

 

十太夫は以後偽りを言った事に苦しみ、命日には物頭の衣装をつけて、その都度従者を二人雇って、安兵衛の墓参を行っていたが、ついに上役に出合って身分を偽っている事を咎められ、藩主の屋敷に出頭させられる。

主君の伊予松平隠岐守の追及を受けた十太夫は、安兵衛の切腹の経緯を語ることになる。これを聞いた隠岐守は赤穂義士に勝るとも劣らぬ侍と言って讃えるが、身分に詐称は罪であるとして、100日間の謹慎を命じ謹慎が明けたら物頭に取り立て200石の扶持を与えるという物語である。

 

江戸時代初期は代々の慈悲、愛情、武勇によって直接結ばれた主従関係がつよかったが、三代将軍家光の時代に入ると公的な君臣関係が次第に定まり、厳然とした身分の差別が確立してくる。

幕府の決定は厳格となり、例え藩主といえども、これに逆らう事は出来なくなる。( 将軍の親族といえども例外は許されなかった。) 松山藩主の隠岐守の行為は幕府の方針から著しく逸脱しており、決して許される事ではないのは自明の事である。

従ってこの物語は無理があるのだ。更に赤穂浪士の討ち入りも幕府の決定に対する反逆行為であり、この作者はそれらの事についてどう考えているのか疑問である。

 

すべての人間関係を上・下、主従という縦の関係で固定する江戸幕府の体制に対して、やがて来る縦関係よりも横のつながりを重視する考え方が、下級武士の間に広がり、江戸幕府倒幕、そして明治維新へと続く、その萌芽が、討入りや、十太夫の行動にみえていたのではなかろうか。この作者には、登場人物のすべてが、この歴史の流れとは何の関係もない、たゞ単純で極めて小さなことにのみこだわる、小さな人物としか表現されていない。矮小な物語にしてしまっていて、歌舞伎を低俗な見世物に貶めているとみられても致し方ない。

 

2024年

1月

15日

ロアルド・ダール 「サウンド マシン」2024年1月15日

ロアルド・ダールについて

ロアルド・ダールの小説は好きである。ダールの短編を読んでから、日本で翻訳された本は殆んど読んでいる。しかもいずれも他に類をみない奇想天外な展開を繰り広げられるものばかりである。

ダールは1916年イギリスのサウスウェールズに生れた。

母親はオックスフォード大学への進学を望んだが、18才でシェル石油に入社、アフリカのタンザニアに転勤。スワヒリ語をマスター。

第二次大戦が勃発するやイギリス空軍に志願。リビヤ、ギリシャ、ハイファと転戦、大いなる戦果をあげて、1942年アメリカの大使館づきの武官となりワシントンに転勤。

勤務中から短編を書きだす。自伝的小説「少年」ついで「単独飛行」を出版するや、以降次々と短編小説を刊行する。(1990年11月23日没)

 

  ********

 

「サウンド マシン」 ロアルド・ダール

  あなたに似た人 より  早川書房 新訳版Ⅱに収録

 

物語「内壁の塗装もされない、たゞ一部屋だけの小屋で、左の壁ぎわに長い木の作業台が置かれていた。その上に雑然と置かれたコードやバッテリーや小さな尖った工具の中に、子供の棺のような形をした3フィートほどの長さの黒い箱があった」 この箱こそクロースナーが造った世界で類をみないものであった。「簡素な機械を作ったんですけど、その機械で証明できたんです。人間には聞こえない、さまざまな音が存在することが。私の耳にはなんにも聞こえないのに、この機械の針は空気を伝わる音の振動を記録します。」「人間の耳が感知できない周波数の振動を拾って、それを可聴域の周波数に変換するんですけど、使い方はだいたいラジオのチューナーと一緒です。」

 

彼は公園のブナの大木まで行き、その機械を近くに置き、ヘッドフォンをつけて機械の電源をいれると、暫らくの間ブーンという声が聞こえてきた。斧を取り上げ、木の幹の根本をめがけて思い切り斧を振り下ろした。刃があたった瞬間、ヘッドフォンから尋常ならざる音が聞こえてきた。初めて耳にする音だった。

彼は「ブナの木よ・・・、あゝブナの木よ・・・ごめん、本当にごめん・・・・、でも傷はきっと治るから」と謝る。友人の医者を呼んで傷にヨードチンキを塗ってもらうのだ。(2020年7月20日 三刷目)

 

この3年後にテレビで、木の葉を虫の幼虫に食べられた木は、葉から匂いを出して、近くの植物に危険を知らせる。すると近くの植物は自らの葉から毒素を出して被害を防いでいるとの放送があった。

しかもその毒素は弱いもので虫を殺す程ではないとの事であった。その理由は虫に花粉を媒介してもらう必要性があるからだと言う。また被害に遭った葉の出す匂いは虫の天敵を呼ぶ効果もあるという。また茸の菌は地下に張りめぐらされ、木の間の連絡と栄養の伝達も行っているということが明らかになったと言うのだ。

 

ダールの書いた荒唐無稽とも言うべき物語は、実は極めて現実味を帯びて来ていることになっている。ダールの短編はそのことごとくが、私達の意表をついて驚かされる。

 

なおダールの夫人はアメリカ女優パトリシア・ニールで、美人女優として有名。

1949年キング・ヴィダー監督の映画「摩天楼」にゲィリー・クーパーの相手役として出演している。堅物のクーパーがニールに惚れ込み、離婚騒ぎを起こしている。

パトリシア・ニールはダールとの間に4人の娘を設けている。

 

ダールの本

「少年」1989年10月31日初版発行

「単独飛行」1989年11月30日初版発行

           共に早川書房

他にハヤカワ文庫から文庫本8冊がある

一冊読めば全部読まずにはいられないことうけあいである。

 

2024年

1月

07日

心に残る石佛

1.綾瀬 観音寺の石佛

足立区綾瀬の駅近くに観音寺はある。

改築されて間もない寺の境内はよく整備されて、気持ちが良い。訪れた時期は新選組が京都から逃れた一部がこの地に隠れ住んだとの事で、町中に幟旗がそこここに立ち並んでいた。観音寺には篤志家で寺との結びつきが強い数軒があり本堂建設には巨額の寄付金が寄贈されていた。個人の墓に見事な観音菩薩の石佛があり(80㎝程)制作年は寛文12年(1672年)2がつとあった。アメリカ独立宣言による建国1776年より100年以上も前に造られたもので保存状態も良く、まことに美しい石佛である。

 

2.鎌倉の石佛

鎌倉 露座の阿弥陀如来座像のある高徳院の入口近くの向かって左側にポッンと建つ小さな地蔵菩薩がある。ほとんどの人が気にもとめていないで通り過ぎて行く。しかし風雨に曝されて目鼻もさだかでないこの小さな石佛には、何とも言えない風情がある。

 

 

3.京都石峰寺 (セキホウジ) の石佛

伏見稲荷の西に位置して、人の訪れる事も稀な寺であるが、伊藤若冲が天明の大火によって居宅を焼失し、石峰寺の門前に隠棲、その地で下絵を描いて石の羅漢像を実に千体余造らせた。現在その半分程が残っている。奇想の画家の描いた石佛群は、まことにユニークで不可思議で、楽しく又愛らしい。いつまで見てもいても飽きる事がない。若冲の面目躍如の作品ではある。

 

4.赤山禅院の石佛 4

京都左京区修学院離宮から徒歩20分~30分程のところに神佛習合の趣がある赤山禅院はある。 11月には数珠供養が行われる。 境内には数10体の石仏群が並べられており、年代はそれ程古くはないようであるが、造られた時代は同時代にみえる。 観光客もほとんど目にとめる人は無いが仲々の優品揃いである。190、136.134、127



 

5.文京区の浄心寺の石佛 

文京区白山から徒歩10分程に浄心寺はある。 このあたりは寺町で本郷通りの西側には多くの寺院が建ち並んでおり、そのいずれもよく整備され、きれいに掃き清められている。 浄心寺は門前に赤い衣を纏った巨大な布袋像が立ち、どこやら毳毳(ケバケバ)しい境内には中曽根康弘氏が寄贈した鐘が吊るしてあり何やら、目立ちたがりと、名誉や金銭を好む寺である事を思わせる。 本堂の左奥に無残にコンクリートで塗りこめられた30~40体の石佛群が供養塔として存在しているが、そこにお目当ての石佛がある。 真誉西念法師、明和9年壬辰天6月11日と記されており、1772年の造りである。

長年の風雨で摩耗しているが、私の長年拝観してきた石佛の中でも白眉の一体である。 本来であればコンクリートから外して一体として安置して欲しいと何回も訪問する度に思うのである。

 

6.神護寺の石佛

京都右京区高雄にある真言宗の寺であり、ここに平安時代の榧の一木で作られた薬師如来は平安時代の作で、その力感溢れた存在感に圧倒される。 美しい楓の名所でもある。 何回か通ったが本堂の右側堂々たる石佛 不動明王 が屹立しているのを全く見落としていたが、まことに威風堂々とした不動明王であった。

 

7.金蓮院の石佛 2体

金蓮院は葛飾区東金町3丁目にある和田家の菩提寺、法護山金剛宝寺金蓮院は真言宗の寺で永正年間(1504年~1521年)の創建と言わる。愛染明王が鎮座していて私が子供の頃から見続けきたもので、仲々の優品とみた。 傍らに立つ説明書きによれば宝永7年(1710年)二十六夜待講中の人々二世安楽を願って造立したもので三目六臀像(目が3つ、腕が6本)で中央の第一手左に鈷鈴、右手に五鈷杵、下部の第二手左に弓、右に矢を持ち、上部の第三手左が拳をつくり、右に蓮華を持つ形である。

 

8.南蔵院の石佛  2体

葛飾区南水元にある南蔵院は本所小梅から中之郷八軒町に移転、関東大震災によって更に当地に移転した「しばられ地蔵」で有名な寺である。 ここに幾つかの石佛があった。 中でも観音菩薩立像が、端正な姿で美しかったが、その後寺の整備が行われ石仏群は一掃されて今は見る事ができない極めて残念である。237,213


 

9.神戸の石佛

神戸異人館の中の庭にこの石佛が安置されていたが、そこに立ち入る事はできず詳細は不明であった。

 

10.北白川の愛染明王

アメリカの友人から依頼された雪見灯籠を探して京都北白川まで出かけたが、満足する物が見付けられなかったが、この愛染明王が面白かった。208

 

11. 隠岐島の石佛 3体

隠岐島は後醍醐天皇が流された地であるが、現地にはその痕跡はほとんど見当たらない。後醍醐天皇はその後隠岐の島を脱出し鎌倉幕府を倒し(建武の中興)皇武合体の政府を樹立したが2年で崩壊した。島に何体かの石佛が点在している。187、188、189


 

12.熊野古道の石佛 172

 

13.大分県臼杵の石佛

国東半島の田染地方には胎蔵寺があり、その付近には多くの石佛群がありその中の道端に置かれていた石佛である。造られた年代は不明。

 

 

14.葛飾区の浄心寺の石佛 

浄心寺は新宿(ニイジュク)2丁目にある。浄土宗林光山称名院と号し、芝増上寺旧門末 慶長19年(1619年)起立とも云われる。

墓地内の阿弥陀三尊は優品である。


境内に清水巡査部長の墓がある。
昭和11年2月26日陸軍内部の皇道派青年将校は武力によるクーデターを図り、1400人余の部隊を出動させて国会、首相官邸一帯を占領し陸軍上層部に国家改造の断行を要請、2.26事件である。墓背面の碑文によれば、当時警視庁巡査部長の職にあった清水與四郎は総理大臣官邸警戒勤務中に、この事件に遭い機関銃などの乱射を受けて死亡。
この事件の責をとり岡田啓介内閣は3月に総辞職。

岡田啓介によって6月この墓碑が建立された。 

 

 

15.光増寺の石佛

光増寺は葛飾区東金町6丁目、葛西神社の北200m程旧水戸街道の左側にある。正式名称は浄土宗摂取山蓮池院光増寺と称する。

 

16.葛飾区 新宿(ニイジュク)の路傍に立つ石佛 

 

17.中国の石佛

 

18.我家の庭の石佛

我家で手に入れた地蔵菩薩であり、20年程経ってやっと我家の庭に馴染んできたようである。

 

2023年

12月

28日

「 死霊 」埴谷雄高 講談社 文芸文庫 3巻 2023年12月28日 

「死霊」埴谷雄高 講談社 文芸文庫 3巻

1.埴谷雄高は1910年台湾の新竹に生まれ、中学一年まで台湾で育った。1930年日本共産党に入党。1932年3月治安維持法により検挙、獄中にて肺結核に侵され翌年転向。11月に釈放、その後も入院生活をおくる。幹部佐野学、鍋島貞親らの転向に続く集団転向の一つとみられた。獄中でカントの「純粋理性批判」を読み、これを転機として妄想的実験記録を文学として書いてゆくことを決意する。

 

2.さて物語りは3日間の話である。郊外にある風癲病院から物語は始まる。ここに長く閉じ込められてた矢場徹吾が今日解放されるので、旧制高校生三輪与志がむかえに来たところから始まる。1,3章までは三輪の異母兄弟首猛夫の旧制高校哲学言語による難解な主張が続けられ、4章に至って与志の寝た切りの兄高志の弟への語りとして「とうとうお前に会ったな」と。その無表情な不思議な一種獣的な迫力をもっていながら、この上もなく落ち着いたまったく動きもない無機質な顔付を同じほど抑揚もない声音と調子で ≪それ≫ はゆっくりといった。高志「とうとうだって?俺はお前をこれまでまったく知らないけれどいったい何処からお前はきたのだ。」

それ「ほゝう 俺が何処から来たかとお前は訊くのかね。そう訊かれれば まあ、お前が時たま夢見る夢魔の世界からと答えておくのがまず至当だろうが、実際をいえば、俺のいる世界とお前のこの世界は、お前達がきめた距離の単位でいえば、ちょうどきっかり千億光年ほど離れているのだ。」 高志「きっかり千億光年だって・・・?」 それ「そうさ、但しお前達がきめたお前達のだけの宇宙の距離のちっちゃな単位でだぜ」 高志「そんなーー  それほど遠い外の世界から、 お前はどうやってくるのだ。」 それ「ふむ。いいかな、俺は何時も即座に一瞬にしてお前の許へやってくるのだぜ。」 高志「一瞬にしてだって? ほほう、いったいお前は何に乗ってくるのだ。」 それ「ふむ、それは決まり切っている。つまり お前の想念にのってーーー。」 高志「えっ

俺の想念にのってだって・・・?」 それ「そうだ。お前が俺のことを考えたとき、俺はそのお前の思惑にのってその同じ瞬間にここへやってくる。つまり、俺はお前に呼ばれて何時もここにきているのだ。犬も俺がここへ呼ばれてきていることに、これまでお前自身は長いあいだ気がつかなかったけれどもな。」と異様な不思議な印象をひきおこす。いってみれば、それのもっている精神自体がのこらずひとつの巨大な傷痕の全体となって、そのまま硬直し固定してしまったような一種怖ろしいほど無機質な顔の表情も動かさず、

≪それ≫ は特別皮肉な調子も帯びずにそういった。

 

3.寝たきりの高志は弟の与志に問う。

「ところで生れついてこの方絶えず外部から突き動かされている俺達が自ら発した意志、正真正銘の自由意思でおこなえることがこの人生に2つあるが、お前はこれが何だと思うかね。」

与志「他のひとつは解りませけれど、ひとつは古くから決ってます。」 レ「というと、何かな?」「自殺で--す」「その通りだったが、それが強制のみに支えられた生の法則に対して俺達が表明し得る貴重な自由意志だと ひとり残らず俺達のみんなに解っても 何故俺達は自殺しないのかな。」「考えつゞけているからです」ー死霊5章ー

これは「あまりに近代文学的な」文学界1951年7月号「濠渠と風車」に連載された「幅が4尺5寸、奥行きが9尺ほどの灰色の壁に囲まれたその部屋に入ると、扉の掛金が冷たい鋼鉄の敲ち合う鋭い鋭い響きをたてて背後に閉まった。青い官給のお仕着せをきた私は、そのうすら寒い部屋のなかに敷かれた1枚の畳の上に、ゆくりと坐った。鉄棒がはめられた4角な窓から青い空がみえた。これが牢獄なのだな、と私は思った。4角な窓から覗かれる青い爽やかな空に灰白色の光が拡がり、それが次第に薄鼠色の翳を帯びて暮れかかってくるまで、数時間、私は凝然として端坐していた。そこに入れられたばかりの私は読むべき本も、為すべき仕事も持っていなかった。私は端座したまゝ眼をとじて自身を覗きこみ、また、眼をあけて眼前の灰色の壁を凝視した。 ときおり頭上の四角な窓から白い光と目に見えぬ風が走っている遠い虚空を見上げた。薄闇が這い寄ってくる宵。この建物の広い区劃から離れた遠い何処かで、号外を知らせるらしく走っている鈴の金属的な響きが幾度か聞えた。5.15事件の日であった。私の記憶には、この入所第1日目の印象は、色が褪せかかってはいるもののなを輪郭を喪ってはいない1枚の古い絵のように、遠い向うに薄日をはなって沈んでいる」

この奥多摩刑務所の未決囚の独房に22才から23才にかけ1年半をおくったこと、そこではじめて本が数冊しかないまゝに、それまでよりどころしていたマルクス・レーニン主義の文献のないままに自分で考えることをまなんだことが彼にとっての思考のスタイルを決定した。しかしその孤独の中で幻覚とも妄想ともつかぬ幻想の世界に浸ったことであろう。高志の語る男はまさに夢の中で埴谷雄高がみた幻覚に外ならない。

死霊5章の中に「俺が達した真実とは、そこに上部があるかぎり、革命は必ず歪められ、その革命的要素をついにまるごと失ってしまうことになるということだ。君達が必ずまずつくるのはほかならぬ『指導部』でそこに大きな指導部、中くらいの指導部そして、ちっちゃな指導部の馬鹿げたごちゃまぜな積み重ねがあちこちやたらに飾り置かれると、どんなに強い『階級絶滅』の金槌で叩いても決して潰れぬ堅固な上部なるものの厚い層の壁がががっちりできあがってしまう。そして、その階級の壁はこの世のはじめから嘗てつくられたいかなる壁よりも厚く、堅いのだ。君達はこのような上部がいかに否定されるかこれまで深く心を砕いて真剣に考えたことがあるだろうか。それがなされるのは諸君のいう革命によってだろうか。否、上部によって進められた革命なるものはその上部をさらに強く仕上げ、いよいよ永劫に破壊されがたい革命の虚像をつくりあげてしまうのだ。

この考えは平野謙の「リンチ共産党事件」の思い出(三一書房)に宮本顕治が昭和8年12月の「赤色リンチ事件」の真相を語っている。

「これらの状態にたいし党は、白色テロル調査委員会を設定して党組織の被害状況と原因調査を強力に促進することにした。調査委員会の攻勢は逸見重雄が責任者であり、同志袴田里見、秋笹正之助(宮本顕治)だどがその委員であった。< その調査委員会の報告に基づいて、党中央委員会 > は両名 < 小畑、大泉を指す > を査問委員会にふする決定をした。すなわち両名をのぞく党中央委員会並びに候補者を加えた党拡大中央委員会を開催しそこで正式に決定したのである。査問委員会は拡大中央委員会の出席者によって構成されたと。」と。

平野 「なんとものものしい形式ばった書き方だろう。6人で構成されている最高機関の中央委員会の中に2人もスパイがまぎれこんでいたという悲惨にして滑稽な事態を客観的にみる能力が欠落しているからこそ、宮本顕治はこういうものものしい書き方に固執して『自分を可笑しくする』結果にまるで気がつかないのである。私は宮本の思考方法の中に硬直した一種の固定概念を見出し、それでは、かえって事態をリアリスティックに打開しがたいのではないかと杞憂するまでである。」と(平野謙 談)語っている。この形式論理的思考は現在の日本共産党の規約にもそのまゝ存在しており、民主集中制の中での党内の言論の自由は保証されているとの建前論でその実態については一顧だにされてはいないのである。

この前衛党の実態に接した埴谷雄高はそれに対する不信を死霊の中にこのような形で表現している。

そしてその後共産党(国内、国外の)に接近する事はなかった。また多くの転向者が権力に接近して変節したようには埴谷は決してならなかったのである。

 

著者の思考は(埴谷雄高、鶴見俊輔 講談社 より)

著者が植民地台湾にうまれ育ったことにある。自分にやさしくする父と母が台湾人の車夫や物売りにむごいあしらいをする。自分の家を安住の地として無条件にうけいれる姿勢は著者にとって、はじめからなかった。著者は自分の部屋のとじこもることを好んだ。後に独房に入れられたときにも、それほどいやに感じなかった、という。

ひとり考えることをくせとする少年は(父がなくなったので)一家の「愁いの家」となって母、姉やがては妻にかしずかれ、出獄後は病いを友として、ねたきりの生活をおくる。それが、この物語の実生活上の背景である。著名の言う自動律の不快はここに原因しているのだ。

高志の語る正真正銘の自由意思でおこなえることの一つが自殺であり、もう一つが、自分の子供をつくらないことだ」と述べているが、埴谷雄高自身も自分の子供をつくることを拒否して一生を送っている。

 

2023年

12月

01日

埴谷雄高、鶴見俊輔  講談社   2023年12月1日

埴谷雄高、鶴見俊輔    講談社

対談「死霊」の新しさ    高橋源一郎、鶴見俊輔の中に

鶴見「アメリカ兵4人の脱走にかゝわって驚いた。アメリカ兵といっても19、20歳ぐらいの田舎の、ちゃらんぽらんのお兄ちゃんだ。だからそんな連中に何かしゃべらせてもばかなことをいうんじゃないかと危惧を持ったら、そのアメリカ兵達が、自分を『公』つまり、アメリカとの関係がどうあって、本来どうあるべきだから、そのかゝわり方において、自分は内なるアメリカを裏切れないから脱走するという言い方を、はっきりしたので驚いた」と語っている。(べ平連での活動中)

 

また日本の権力機構の成りたちについて「なぜ一番は宛てにならないかと言うと、明治5年にかゝわるんだけれども、先生にたゞ一つの答えがあると言う信仰を教えられたことなんだ。問題を先生が与えると、そのたゞ一つの正しい答えは先生の心の中にある。

そうすると『はい、はい』と手を挙げる人間は大体学者犬の集団になるんだよ。学者犬は365たす337というとパッと当てる。それは調教師の顔を見ているから、答えがちゃんと書いてあって、それで当てる。

似たようなことで教師がそこに居ると、正しい答えを念写する習慣なんだ(笑い)。

一●生るときから、それが東大を出るまで、ずっと続くと、その間に教師が変わるから、転向、また転向、無限の転向を繰り返す。転向が体の習慣になちゃっているから、不思議と思わないだよ。転向するのが本来の自分なんだから。

官僚になって高文に行くでしょう。大正時代だったら、美濃部憲法で通るんだ。今度はナチスがヨーロッパに出てきたから、カール・シュミットの法学とか何かが入っちゃって、美濃部さんは国法に反すると裁くんだ。美濃部憲法で上がった人間が美濃部さんを裁くんだ。一種のサイボーグになっちゃっている。で、それから1930年代でしょう。で負ける。アメリカにぐっと変わる。それまでずっと修練できているから、平気なんだ。だから日本人の指導者の養成ということについては何も変わっていない。

「その転向のもとの型は教育制度そのものにある。だから一番は危ない。高橋『そうか教育というものは無限の転向のすすめでもあるわけなんだ。」

鶴見「日本で大学というのは、国家ができて、国家がつくった大学なんだよ。問題はこの事を大学教授はわかっていないんだ。結局、何でも国家を弁護するようなところに行くようにつくられているんだ。だけどヨーロッパはそうじゃないし、若い国のアメリカでさえそうじゃないんだ。アメリカでハーバード大学ができたのは1636年だ」(アメリア建国1776年)私はハーバード大学にいたんだけれども、2年半しか学校に通っていない。捕まって牢屋に入っていた、にも拘わらず牢屋に入っている私に卒業証書をくれた。それがアメリアの大学の特色だった。そういうものを日本の大学は欠けているんだ」

教育面から見た日本社会の欠陥を見事に言い当てている。日大のていたらくを見るとつくずくそう思う。

 

2023年

11月

12日

「日没」 桐野 夏生著 岩波現代文庫  2023年11月12日

「 日没 」 桐野夏生 著 岩波現代文庫

1.小説家マッツ夢井は性愛を描く大衆作家で、レイプや暴力、犯罪という題材を取り上げている。ある日彼女のもとに、総務省文化局文化文芸倫理向上委員会という政府機関らしきところより召喚状が届く。出頭場所はJR線 C 駅改札口である。彼女は逡巡したあげく、C 駅の出向くとそこに男が待っており、車で目的地に着く。房総半島の一角に有刺鉄線で囲まれた断崖の上に建つ「療養所」に問答無用で収容される。収容所には作家とおぼしき数十人が収容されているようであり、マッツはB98号と呼ばれる事となる。収容された人達は互いに口を利く事も、接触する事も禁止され、職員に声をかける事も許されない。外部との連絡も許されず、テレビ、ラジオも一切無い。極めて劣悪でしかも少量の食事をあてがわれ、収容所側からは「社会に適応した小説を書く事」を強制される。心身ともに衰弱して、追いつめられた収容者達は身体が弱って死に至るか、絶望して断崖から身を投げて死亡してゆく。政府が反社会的作家とみなした作家は、このように拉致されて、秘密裏に収容所に送られ、死亡して行く。世間では「あの作家、最近見られなくなったが、いつの間にか死んでいたのか」とあまり話題にもならないのだ。権力を使って表現の自由を蹂躙する空恐ろしさが、現実を帯びてくる作品である。

 

2.権力者達の戦略を考えてみると、単純に権力をかざして押さえ込むような事はせずに、世論を巧みに誘導して、ある程度の世論の合意を作り出し、形式的な民主主義に則って、事を運んで行くのが常道である。

 

3.日大の違法薬物問題を考えてみよう。一部学生の薬物使用を巡っての学校の対応にマスコミの煽動を巧みに利用、世論を日大批判に向かわせて、大学への助成金を90億円を3年に亘って中止する措置を取った。巧みに醸成された世論をバックにした政府が行ったものであるが、果たして学校がとった措置は間違ったものであったのか。学校の有する自治権を考えれば、そもそも問題の学生を教育し、保護するのは当然であり、当該学生をすぐさま国家権力たる警察と結託して、学生を引き渡しても良いものであろうか。当該学生が殺人や傷害事件を犯したならいざ知らず、個人的な不祥事をもって、その責任を学校に押し付ける事は、政府の意向に逆らえば、学校の存続に拘わる生殺与奪の権限を与える事となる。こうした事件を防止する為に、学生間の看視活動を促す、密告制度の奨励となりかねない。学問の自由の重大な侵害と言わざるを得ない。もしこれが正当な措置であるとすると、自民党の神田憲次財務副大臣の税金滞納及び差押さえ(計4回)を繰り返しており山田太郎文科兼復興政務官は女性をめぐる問題発覚、柿沢未途法務副大臣の選挙違反を江東区長に勧めていた事で計3名が辞任に追い込まれている。岸田内閣は昨年の夏から秋にかけて4人の閣僚が辞任している。柿沢議員は酒気帯び運転で逮捕された前歴もある。これらはどうなるのか。政府の度重なる政治家の不祥事は組織の問題であり、政府はもちろん、これを防げない衆参両院の責任となり、議員全員の連帯責任は免れない事となるのではないか。少なくとも減俸処分は免れまい。

 

4.旧統一教会の問題はどうか。

もしこれを犯罪と認定するとなれば、信教の自由は守られるのか。統一教会の最大の争点になっているのが、過大な献金問題であるが、献金する当人がいくら献金しようが、あくまで個人の問題であり、当人の財産をどう使おうが自由で他人から云々されるべきものでもない。

どの献金が正しくて、どの献金は不正であると一体誰が判定しようというのか。

もし統一教会の献金が不当であるならば、創価学会への献金はどうなるのか、日本全国に建設されている学会の建物は数多くあり、その膨大な不動産はすべて信者からの献金によるものであり、その価格は統一教会の比ではない。更にすべての宗教団体は信者の献金によって成り立っており、これ等を全部調査すれば宗教そのものが成り立たなくなるのだ。二世問題も然り、総ての宗教に当てはまる。また、宗教団体が創価学会を始めとして、信教の自由をめぐって政府に異議を唱えないのも誠に不思議な事である。敷衍して考えれば政治献金もこの埒外ではない。

これらを考えてみると、様々な手段を使って世間の物事を規制し、自由を奪って行く方向に次第に誘導されて行く危険を感じざるを得ない。それは国民の同意を得る作戦をたてながら、民主主義に従って粛々と進めているのを感じるのである。

「日没」はこれを冷めた目で私達につきつけているのだ。

 

2023年

11月

11日

自費出版について      2023年11月11日

自費出版について

NPO法人日本自費出版ネットワーク事務局の存在とその活動を知って、26回目となる自費出版フェスティバルに初めて応募してみた。結果は何と入選となった。

応募者数は700件近くであったようだ。

2023年11月11日市ヶ谷アルカディアホテルにて第26回日本自費出版文化賞表彰式が行われた。大賞1,地域文化1、個人誌1,小説1エッセー1,詩歌1,研究・評論1,グラフィック1、特別賞7,入選56であった。

特徴はいづれも一般書店で販売するのにあまり適当でないと思われるか、どうしてもこれだけは残したいと作者が思うような作品が多く見られた。自費出版のあるべき姿ではあったようだ。

NPO法人は日本自費出版ネットワークに始めから参加した代表理事 中山千夏 の坊主頭に変化したが元気な姿がみられた。『金泥の世界』を自費出版ネットワークに応募するつもりが出版の前に考えていたならば、もう少し文章を変えて、漢字や刻字、佛画についても、もっと具体的かつ詳細に、自分の考え方を述べていた事であろうが、当初の目的が作品の紹介を短く書く事が中心であった為に入選に終わってしまったのは残念ではあった。

 

2023年

11月

01日

「ミシェル城館の人」堀田善衛 集英社 上・中・下    2023年11月1日

「ミシェル城館の人」堀田善衛 集英社 上・中・下

16世紀の代表的ユマニストとして知られるミシェル・ド・モンテーニュは1533年2月28日ボルドウ市から東60㎞程のモンテーニュと呼ばれる丘の上の城館に生れた。カトリックとプロテスタントの血で血を洗う壮絶な闘いと各国の王権を廻る闘いとその中で花咲いたルネッサンスまさに激動の時代で、1572年のサン・バルトロメオの大虐殺では旧教徒の母后カトリーヌ・ド・メディシスが首謀し宮廷内の新教徒貴族4,000人以上を虐殺(注)

1598年のナントの勅令で新教徒の礼拝の自由を認める事によって長く続いた紛争の一応の終結を見たのである。

ユマニスト  モンテスキューの無二の親友ボルドウ高等法院在勤エティエンヌ、ド・ラ・ボェシー26歳の「奴隷的隷属」についてという論文に「実際すべての国々で、すべてのひとびとによって毎日なされていることは、ひとりの人間が10万ものひとびとを虐殺し、彼等からその自由を奪っているということなのだ。これをもし目のあたりに見るのでなく、たゞ語られるのを耳にするだけならば、誰がそれを信じようか。(中略)しかし、このただ一人の圧制者に対しては、それと戦う必要もなく、それを亡ぼす必要もない。

その国が彼等に対する隷従に同意しないだけで彼は自ら亡びるのだ。(中略)それ故、自分を食いものにされるにまかせ、また、むしろそうさせているのは、民衆自身ということになる。隷従することをやめれば、彼等はすぐそのような状態から解放されるのだろうから。民衆こそ自らを隷従させ、自らの咽喉をたち切り、奴隷であるか自由であるかの選択を行って、その自主独立を投げすて軛(くびき)をつけ、自らに及ぶ害悪に同意を与え、またはむしろそれを追い求めているのだ。(中略)

私は民衆が安楽に暮らすことへの疑わしい期待よりは、みじめに暮らすことへの何か分からないが確実な見込みといったものゝ方をより好んでいるということを、仕方がないと思っている。更にこうも述べている。「人は自由を求めてついに警察国家を組織するに至る。「一人」につまり一個人に権力を持たせれば、必ずや、いつかは専制国家に至る」今日の世界や日本によくあてはまる。まさに慧眼と言うべきである。500年も前と人類は些かも進歩していないとつくずく思わされる。

(注)新、旧教徒の中で多くの信徒が火刑台に昇っており、ユマニスト達の少なくない人達、イギリスのトーマス・モアーを始め同様の犠牲となっている。

 

2023年

10月

24日

『「民主主義」と「道徳」の奈落』白井 聡 図書 (岩波書店)`23年10月号  2023年10月24日

「図書」岩波書店 2023年 10月号に『「民主主義」と「道徳」の奈落 』白井 聡 が掲載されている。

そこに極めて重要な指摘がある。「見落としてはならないのは、スターリンの覇権確立は、単なる独裁ではなかったことだ。そしてその過程では古参のボリシュヴィキ党員が蹴落とされたが、スターリンが依拠した権力基盤は年長のインテリィ党員と入れ替わりにポストを得た労働者階級出身の比較的若い党員たちだった。それは一種の平等化であり、その意味で民主主義的であった。

社会主義リアリズムにも同様な面がある。革命期に高揚したロシア・アヴァンギャルド芸術は形式面での実験性ゆえに難解であり、大衆的ではなかった。前衛芸術を形式主義であると弾劾することによって成立した社会主義リアリズムは、大衆的あることに根拠を置いていた。ここにも民主主義がある。

大衆の名において作用する権力、自らに作動してくる強権の背後にそれを支持する大衆がいること、このことが表現者に与える打撃は大きい。

( 中略 )かくして今日の全体主義は、カリスマ的独裁者など必要としない。必要なのは、大衆の平準化への欲求、この欲求から生ずる知識人への増悪であり、大衆の欲求に忠実な権力だ。かの菅政権にしたところで知識人に対する攻撃が ” ウケる ” と踏んだからこそ任命拒否に及んだのであり、世論の反応を見るに、この見込みは誤っていなかった。」 と述べている。まさに慧眼と言うべき指摘である。

 

振り返ってみれば、米国は1823年モンローが宣言したいわゆる「モンロー主義」に依拠して、欧米両大陸の相互不干渉を外交政策の原則としてきたが、これを破って第二次大戦に参戦したのは偏に国民大衆の支持があったからであり、国民の支持なくして戦争は絶対に、たとえいかなる絶対権力者であっても始められない。為に米は日本の真珠湾攻撃を事前に知りながら許容する事によって国論を統一する策を図ったのである。

日本の参戦も然り、1982年のイギリスのフォークランド戦争も、1990年のアメリカの湾岸戦争、2003年のイラク戦争も、そしてドイツのヒットラーも然りであった。

いずれも国民の圧倒的支持を基盤として実行されたもので、これも国民の多数の支持を獲得した事をもって、民主主義と言う事ができるのであり、ここに奈落があり陥穽がある。

 

2023年

10月

16日

渡辺一夫著作集 No.1巻 ラブレー雑考より 2023年10月16日

史家オギュスタン・ルノーデは次のように記している。ルネッサンス期のユマニストに先ず何を要求したかについて「彼等(ユマニストたち)は教皇たちがもっと政治的でないように、高位聖職者たちがもっと無関心でないように、修道士たちがもっと規則正しく、もっと貪欲でなく、もっと三百代言的でないように、教区の聖職者たちが

もっと無教養でなく、もっと献身的であるように、神学が福音及び人間について、もっと無智でないように、宗教がもっと聖職者万能主義でなく、もっと型にはまったものでなく、もっとキリストの教えに近いものであるように望むものである」と述べている。

この聖職者を日本の政府や与党の政治家に置き換えてみると何やらまことに嵌って見えるではないか。いずれの時代でも権力を握った人間はどうしようもない結果をもたらすものと思わざるを得ない。

2023年10月14日の新聞による細田衆議院議長の記者会見の如きは、まさにその典型と言って良い。またそれを平然と放置している政府も又腐敗の極に達していると言わざるを得ない。

2023年

10月

05日

『メグレと老婦人』ジョルジュ・シムノン 2023年10月5日

「エレクトル」 ジャン・ジロドゥ 戯曲

この戯曲は紀元前5世紀初めにアイスキュロス、ソポクレース、エウリピデース至るギリシャ伝説の復讐物語である。

トロイを攻略したギリシャの総大将アガメムノンは10年に及ぶ戦争に勝利してアルゴスに凱旋する。しかし王妃クリュタイメストラとアガメムノンの従兄弟アイギストスに計られ浴槽で刺殺される。

以来末娘エレクトラは復讐の念に燃えて、弟オレステスの帰国を待ち望むのだ。成人して帰国したオレステスは母クリュタイメストラとアイギストスを殺害するが、復讐の女神エリーニュエスに追われ、諸国を放浪し、やがて発狂するという物語である。

ジロドゥはこの物語の中に狂言回しの乞食を創設し、重要な役割を振りあてゝいる。エレクトラとクリュタイメストラ、エレクトラとアイギストスとの間に誠に容赦ない激しい論戦が繰り広げられるのだ。しかし登場人物の一人、裁判長は「正義、高潔、義務でもって人は国家や個人、良き家庭を滅ぼすのだ」「エゴイズムやだらしなさではない」「この3つの徳は人間にとってたった一つの要素を含んでいるからだ。つまり人間の仮借なき追及の虜とするのだ。幸福は執拗に追撃する者の手にははいらぬ。幸福な時代、幸福な家庭、それは全面的な城明け渡しだ」「エレクトラが我々の従姉妹になって見給え、10日もたゝぬうちに親類の過去や不道徳や罪が発覚するとそれまでの平穏な生活は一変してしまうのだ。そしてお互いに言い合うのだ。あゝやれやれエレクトラがやって来た。あんなに平穏だったのに」と語る。

やがてコリントスの軍勢が宣戦布告もなしに攻め込んで来る。これを防げるのはアイギストスが王として姿を国民の前に現わす以外にない。アイギストスはエレクトラに「この国を何とか救いたい。その後に王位を返上することは無論のこと、いかなる罪も引き受ける」と懇願するが、エレクトラはこれを認めない。やがてアイギストスとクリュタイメストラはオレステスに殺害され、アルゴスは灰塵に帰すのである。

 

登場人物の総てが、いずれに正義があるのか結果的に出た結末が正しいのか各自が全力を傾けて言論で渡り合うのである。

ジロドゥの戯曲を読んで毎回思うのは、それぞれが様々に異なる意見を究極まで妥協する事なく戦わす事によって培われた経験の蓄積がヨーロッパ市民全体の中に深く浸透し、社会生活を送る上での規範はこうして生まれたのだと云う事を思い知らされる。日本人には体験はあっても経験の蓄積は残念ながらないのだ。

ジロドゥは実に奇知に富んだ言葉を操り、特に他人と議論する事に不慣れ、そして避ける日本人に厳しく迫ってくるのである。

考えてみると何かロシアとウクライナとの戦争と停戦の条件をめぐる様々な意見が浮かんでくる。

正義はすべてウクライナにあり、ロシアには些かも無い。侵略された土地を総て回復しなければ停戦に応じられないとのウクライナの主張は全く正しいが、その事によって又多くの人命が失われるのも事実である事を「エレクトラ」を読んで思うのである。

 

この戯曲は1937年5月13日にパリのアテネ座に於いてルイ・ジュヴェ演出で初演されている。乞食をルイ・ジュヴェが、エジスト(アイギストス)をピエール・ルノワールが演じている。

なお、ルイ・ジュヴェはフランス演劇界の大立者でフランスの至宝と呼ばれている。

映画にも出演し、ジャック・フェデーの「女だけの都」、ジャン・ルノワールの「どん底」、ジュリアン・ディヴィヴィエの「舞踏会の手帖」、マルセル・カルネの「北ホテル」等に出演し見事な演技を披露している。

ピエール・ルノワールは印象派の画家オーギスト・ルノワールの息子で、映画監督のジャン・ルノワールの兄でもあり、舞台俳優でマルセル・カルネの映画「天井桟敷の人々」の中の古着屋として出演している。またジョルジュ・シメノンのキャラクターであるジュール・メグレを演じた最初の俳優でも知られている。他にラ・マルセイエーズ、十字路の〇、ボヴァリー夫人、地の果てを行く、等も出演している映画俳優でもある。

 

2023年

9月

30日

「エレクトル」ジャン・ジロドゥ 戯曲 2023年9月30日

「エレクトル」 ジャン・ジロドゥ 戯曲

この戯曲は紀元前5世紀初めにアイスキュロス、ソポクレース、エウリピデース至るギリシャ伝説の復讐物語である。

トロイを攻略したギリシャの総大将アガメムノンは10年に及ぶ戦争に勝利してアルゴスに凱旋する。しかし王妃クリュタイメストラとアガメムノンの従兄弟アイギストスに計られ浴槽で刺殺される。

以来末娘エレクトラは復讐の念に燃えて、弟オレステスの帰国を待ち望むのだ。成人して帰国したオレステスは母クリュタイメストラとアイギストスを殺害するが、復讐の女神エリーニュエスに追われ、諸国を放浪し、やがて発狂するという物語である。

ジロドゥはこの物語の中に狂言回しの乞食を創設し、重要な役割を振りあてゝいる。エレクトラとクリュタイメストラ、エレクトラとアイギストスとの間に誠に容赦ない激しい論戦が繰り広げられるのだ。しかし登場人物の一人、裁判長は「正義、高潔、義務でもって人は国家や個人、良き家庭を滅ぼすのだ」「エゴイズムやだらしなさではない」「この3つの徳は人間にとってたった一つの要素を含んでいるからだ。つまり人間の仮借なき追及の虜とするのだ。幸福は執拗に追撃する者の手にははいらぬ。幸福な時代、幸福な家庭、それは全面的な城明け渡しだ」「エレクトラが我々の従姉妹になって見給え、10日もたゝぬうちに親類の過去や不道徳や罪が発覚するとそれまでの平穏な生活は一変してしまうのだ。そしてお互いに言い合うのだ。あゝやれやれエレクトラがやって来た。あんなに平穏だったのに」と語る。

やがてコリントスの軍勢が宣戦布告もなしに攻め込んで来る。これを防げるのはアイギストスが王として姿を国民の前に現わす以外にない。アイギストスはエレクトラに「この国を何とか救いたい。その後に王位を返上することは無論のこと、いかなる罪も引き受ける」と懇願するが、エレクトラはこれを認めない。やがてアイギストスとクリュタイメストラはオレステスに殺害され、アルゴスは灰塵に帰すのである。

 

登場人物の総てが、いずれに正義があるのか結果的に出た結末が正しいのか各自が全力を傾けて言論で渡り合うのである。

ジロドゥの戯曲を読んで毎回思うのは、それぞれが様々に異なる意見を究極まで妥協する事なく戦わす事によって培われた経験の蓄積がヨーロッパ市民全体の中に深く浸透し、社会生活を送る上での規範はこうして生まれたのだと云う事を思い知らされる。日本人には体験はあっても経験の蓄積は残念ながらないのだ。

ジロドゥは実に奇知に富んだ言葉を操り、特に他人と議論する事に不慣れ、そして避ける日本人に厳しく迫ってくるのである。

考えてみると何かロシアとウクライナとの戦争と停戦の条件をめぐる様々な意見が浮かんでくる。

正義はすべてウクライナにあり、ロシアには些かも無い。侵略された土地を総て回復しなければ停戦に応じられないとのウクライナの主張は全く正しいが、その事によって又多くの人命が失われるのも事実である事を「エレクトラ」を読んで思うのである。

 

この戯曲は1937年5月13日にパリのアテネ座に於いてルイ・ジュヴェ演出で初演されている。乞食をルイ・ジュヴェが、エジスト(アイギストス)をピエール・ルノワールが演じている。

なお、ルイ・ジュヴェはフランス演劇界の大立者でフランスの至宝と呼ばれている。

映画にも出演し、ジャック・フェデーの「女だけの都」、ジャン・ルノワールの「どん底」、ジュリアン・ディヴィヴィエの「舞踏会の手帖」、マルセル・カルネの「北ホテル」等に出演し見事な演技を披露している。

ピエール・ルノワールは印象派の画家オーギスト・ルノワールの息子で、映画監督のジャン・ルノワールの兄でもあり、舞台俳優でマルセル・カルネの映画「天井桟敷の人々」の中の古着屋として出演している。またジョルジュ・シメノンのキャラクターであるジュール・メグレを演じた最初の俳優でも知られている。他にラ・マルセイエーズ、十字路の〇、ボヴァリー夫人、地の果てを行く、等も出演している映画俳優でもある。

 

2023年

9月

09日

日比谷 松本楼について     2023年9月9日

日比谷 松本楼について  2023年9月9日

私達は結婚60年を記念して11月「祝う会」を日比谷松本楼でおこなう事になった。

参加者人数は30人前後の予定である。

 

その日比谷松本楼は明治36年(1903年)誕生した日比谷公園内に時を同じくしてオープンしたものである。

1900年以降清朝の列強に対する屈辱外交は一段と強まり1905年中国最初のブルジョア政党中国革命同盟会が結成された。

対抗する清朝も様々な対抗策を講じたが、国民の清朝に反対する機運は一層高まり、1912年南京に中華民国臨時政府が誕生する。

いわゆる辛亥革命である。(1911年が干支で辛亥にあたることによる) 孫文が臨時大総統となる。

清朝から軍事、政治の大権を与えられていた袁世凱は臨時政府の切り崩しを図り、12月孫文は職を辞し、袁世凱が臨時大総統となり、革命は失敗したが、その後の反帝、半封建の時代の先駆けとなった。

 

孫文は日本に亡命、松本楼の梅屋庄吉の援助を受け大正4年(1915年)梅屋邸で宋慶齢とめぐり合い、結婚。

有名な宗氏3姉妹の二女である。長女の靄齢(アイレイ)は国民党の実力者孔祥煕夫人で、慶齢はその後中華人民共和国の副首席となった。末っ子の美齢は蒋介石の後妻となり対米国外交に大いに活躍している。

 

また弟の子文は国民党政府の財政担当者である。梅屋庄吉はその生涯を通じて孫文を支援し続けた。

 

2008年、当時の胡錦涛国家主席の訪日に当たって、招待の席をどこに設定するか政府が考慮していたところ、胡主席が松本楼を希望して決まったものである。

また松本楼 1階受付ロビーに設置されているピアノは1907年製造の日本最古のものの一台であり、宋美齢が帰国するまで梅屋邸におかれていたこのピアノを弾いたり、歌を歌ったりして過ごしていた。

(左上) 胡錦涛国家主席(当時)を迎えて 福田総理(当時) 主催の夕食会 (2008/5/8)

(右側) 孫文(右)と梅屋庄吉 (1915年当時)  松本楼パンフレットより

 

(左)慶齢夫人 (右) 慶齢夫人が梅屋庄吉邸で弾いていたピアノ 現在は日比谷松本楼ロビーにある

2023年

8月

17日

ジロドゥ戯曲 旧約聖書「ユディット」書から 2023年8月17日

ジロドゥ戯曲「ユディット」  旧約聖書「ユディット」書から

 

ホロフェルネスは12万の歩兵、1万2千の騎兵を擁してユダヤの都市ベトウリアを包囲する。都の壊滅を観念した市民は最後の望みを美人の寡婦ユディットに託して、彼女の犠牲と引きかえにベトウリアに対する攻撃を止めてもらう事を願うのだ。

ユディットは「わがなさんと欲することも天主より出でたるかを試し見よ」と告げてホロフェルネスの陣屋に行き、彼が酔いつぶれている隙に首を切りおとして市に持ち帰る。

市の人々はユディットに対し「汝は讃えられて救国の女傑」として崇めた。

この史実をジロドウはこの作品としたものである。

ユディットを名門の生まれの絶世の美人で処女とした。彼女は神の明示に従ってホロフェルネスの陣屋に向かう。しかしユディットはホロフェルネスの男としての魅力と人間の大きさに敗れて、彼の腕に身を投ずるが、翌朝自らの激情に流された行為に困惑してホロフェルネスを殺害する。

ホロフェルネスを失った軍隊は崩壊して退却する。集まってきたベトウリアの要人たちはユディットを聖女とする筋書きにそって事を治めようとするが、神意に疑いを持ったユディットはこれに激しく反発し、ホロフェルネスと愛を交わした事をはじめ本当の事を公表すると対抗、そこに神は衛兵の姿を借りて現われ、ユディットはこれとの戦いに敗れて、要人達の描く、また神の希望通りの筋書きに従うのだ。

ジロドウは神と人間との間の戦いを中心にこの物語を作っており、神は人間の声など無視する存在とされている。ヨーロッパでは今日に至るも神と人間の関係に繰り返し問題視されている事が分かる。

我々、日本の無神論者にとっては仲々理解しにくいところである。

しかしヨーロッパでは圧倒的なキリスト教の影響力との相克によって今日の哲学、思想が築きあげられてきたのではある。

日本はそうした経験を持たないまゝ今日に至っている。

 

2023年

8月

15日

「中華を生んだ遊牧民」 松下 憲一  2023年8月15日

「中華を生んだ遊牧民」  松下憲一   2023年8月15日

 鮮卑属(モンゴル系かあるいはトルコ系の可能性もある)は南下して次第に遊牧から農耕化し西晋の末に代国を建設。その後華北の混乱(五胡十六国)に乗じて、拓跋珪の時代乱立した諸国を統一し華北に統一国家を建設。398年大同に都を移した。華北に在住をした漢民族の裕福層は肥沃で豊かな温暖な太平洋側に移住し、資力の乏しい人達が華北に残された。部族連合的性格をもった新国家北魏は遊牧社会から専制国家へと変貌して行く。

 

北魏帝国は諸部族長や投降した漢人に奴隷を与えて支配の基礎とした。

ここで問題である。

1.華北統一した時点での鮮卑の総数と華北に残っっていた漢人の数はどうだったのであろうか。軍隊は華北侵入の鮮卑の軍隊で当面凌ぐとして、人数を把握しない限り手の打ちようがない。

2.都の建設にかゝる人員の確保。

3.国民の総数の把握をどう確保したのかその体制は。

4.権力を維持する体制、その人員をどうするのか。

国民の人数の把握と税収の特定と徴税業務の地方役人はどうしたのか。

5.法律を定める為の専門的人員の確保。

6.行政担当の為の専門的人員の確保。

7.国家の財政の基盤はどのように考えたのか。等国家として機能する為に取り組まなければならない事は多く、専門的知識を有する人材も揃えなければならない。

これらを短期間で成し遂げなければならない。更に軍隊はどうするか。専門化した軍隊が当然必要になるが、これをどうするか。

等々難題は山積みしている。

 

統一国家をつくりあげるまでは長く遊牧生活を営んでいた拓跋珪がどれ程優秀であったとしても、先ず、華北を統一した時点で

⓵ 多くの部族の中から、成功報酬が思った程でない等の不満から、不協和音が出て、反乱がおこっても無理はない。

② 五胡十六国の残った勢力からの攻撃はどうだったのか。

③ 支配下に置かれた漢民族からの反撃は無かったのか。

④ 南朝に逃れた漢民族からの反転攻勢は無かったのか。

⑤ 遊牧生活を送っていた民族が都を建設する能力が果たしてあったのか。

⑥ 大国になってかつ他民族の集合体の困難な国づくり、官僚の育成や法律制定、戸籍作成、税制の決定や、徴税の仕組み等鮮卑にとって経験した事のない難事業をどのように短期間に成し遂げたのか。

がこの本読んでの最大の疑問であった。

 

更に都づくりと強力な軍隊、その上雲崗石窟(大同石窟)に信じられない規模の大きなの取り組みを考えると、財政的保証と人材の確保が何よりも求められるが、どう考えても不可解としか言いようがない。

 

2023年

8月

09日

戯曲 ルクレチアのために  ジロドゥ作  2023/8/9

戯曲 ルクレチアのために  ジロドゥ作

1.時は19世紀半ば、ナポレオン3世の帝政治下の午後4時から翌朝で完成する3幕ものの芝居である。

リオネル・ブランシャール検察官と妻リュシルは高潔な人柄で市の尊敬を一身に受けている。

リオネルの信念は「この市の人々が放従にれないように監視することである。」に尽きる。管理された人々は一方で息が詰まる思いもしている。また妻リュシルは30代初めで美貌と正義、現実の生活をさげすむような純潔そのもので、市中の羨望の的となっている。一方対抗するパオラは「わたしはいつも得体の知れない良心が宿りこころよい妄執がつきまとているわ。それが夫なのよ。ちょうどあてにならない記憶みたいなものよ。

現在は一分一分のなかに生きていますもの。現実の肉体というよりも影のような伴侶として、私の日常生活を一時預けにした相手、それが夫なの。いつも私の手の届くところにいるのが感じられるわ。夫の心の中には私の好奇心や趣味や習慣がおさまっていて、夫の唇には私の会話が用意してあるの。わたしがもうそのときの愛人を愛せなくなったときに、急いで求めるものを夫は何でも持っていてくれるのよーー中略ーーもう相手を愛せなくなるとき、ある恐れしいときになって、はじめて夫は色と背丈をそなえた男として、誰よりも先にわたしが前に浮かん来るのーー中略ーーまったくわたしの好みどおりにしてくれるんですもの、これからも次から次へと恋がつゞけられるわーー」といった。

女性の情熱を代表しており、自分の行動に自信をもっており、当然の事ながら美人である。

パオラはリュシルの蔽っている分厚い殻をやぶって真実の姿を曝させようと計ってリュリスに薬を飲ませて意識を失わせ、名うての女誑しで放蕩者、悪徳として名高いマルセリュス伯爵の居宅に連れ込んで、あたかも伯爵に暴行されたかのように装う。

パオラから計画を聞いた伯爵はその役割を喜んで引き受け、役になり切るのだ。

そこに来合わせたパオラの元夫マルセルはこの事を知って伯爵に決闘を申し込む。相次いで伯爵邸を訪れた検察官リオネルは妻リュリスの話を聞いて激怒、妻を許さない。パオラから真実の話を聞かされたリュリスは二重に衝撃を受け、同時に夫の駄目さ加減と真実の姿をみせつけられて本当の事を秘したまゝ毒を呷って死ぬ。

登場人物はそれぞれが自己の正当性を一歩も引かずに論じ合い、激しく渡り合う。非常に緊迫した場面が展開される。

特にこの場面はヨーロッパ文化のあり方を良く表しており、日本では決してありえない場面である。

 

2.ルクレチアー

美徳と貞節で有名な古代ローマの貴婦人、前6世紀タルフィニウ・フラティヌスの妻ルクレチアは王子の一人に凌辱され、父と夫に打ち明けて自殺王政の終わる端となった。

 

3.ルクレチアのために(舞台初演)

初演は1953年11月4日からジャン・ルイ・バロウとマドレーヌ・ルノーの劇団によって開演された。

配役は  マルセリュス伯爵 ・・・・ ジャン・セルヴェ

リュシル・ブランシャール ・・・・ マドレーヌ・ルノー

リオネル・ブランシャール ・・・・ ジャン・ルイ・バロウ

パオラ ・・・・ エドウィジュ・フィエール の面々。

エドウィジュ・フィエールは映画「双頭の鷲」の女王役で見事な演技を示している。

ジャン・コクトー 監督

ジャン・ルイ・バロウの妻がマドレーヌ・ルノーである。

ジャン・ルイ・バロウは映画「天井桟敷の人々」のパントマイム役者のバチストを快演している。

 

2023年

7月

23日

「梨の花」中野重治  新潮文庫 2023/7/23

「梨の花」 中野重治 新潮文庫  (初版1959年 昭和34年) 

  

この作品は1980年代半ばに読んだものであり、強い印象を持っていた。40年振りに読んだが当時井上靖の「しろばんば」を読んだが作品の内容の深さに大きな差があったのを記憶している。40年振りに読んでその作品の完成度の高さを改めて確認した。

この作品は中野重治の自伝的小説であり、小学1年から中学1年までの高田良平の生活振りと意識の変化、福井の生活と人々の人情と結びつきと事細かにな出来事が一つ一つ詳細に語られており、その記憶力には唯々驚くばかりである。

 

先ず、「橋の詰からちょっと行ったところ岸の草のところにしゃがんでいつものおんさんがやっぱり鮒を釣っている。魚を釣るものは仰山いるが、このおんさんのようなのはいない、このおんさんは何が商売なのか、誰にも ー 子供には ー 分からない。このおんさんみたいに、年100日中さかなを釣る大人は外に居ない。それでも魚つり商売でないことは子供にもわかっている。

このおんさんは青ぐろい顔をしている。煙管をくわえて、腰に犬の毛皮の四角いのを下げて、それを敷いて岸に腰を下ろしている。誰とも物をいわぬ、子供にもにこりともしない。良平たちは大人でも魚釣りにはバケツを提げて行く。ブリキの小判型の箱で、上に網が張ってある。箱に水が入っている。釣れたのをその中にいれて上で網をしぼる。

誰でも釣れると声を出して叫ぶ。『釣れた・・・・』『釣れたぞ・・・・・』叫ばぬまでも笑い顔になる。このおんさんはだけは一つも声を出さなぬ。にこりともしない。黙ってブリキに入れて黙ってまた糸を投げる。子供達もあんまり傍まで行っては悪いような気がする。このおんさんが何の病気だという事を良平は知っている。誰から聞いたかは知らない・・・・・・」と続く。

臨場感溢れる表現であるが、全編この詳細を極めた文章が続くのだ。

 

主人公の高田良平は祖父母と暮らしており、父母は妹二人と朝鮮で生活している。その事で淋しいと思うこともない。「もうじゃこっちゃ。こん家や麻木あないがいのっていうたら、小角の後ろに作ってあるっていいなるんじゃがいの・・・・」このような福井弁が語られてまことに心持良く、土地の人々の生活振りや町のたたずまい、人情が手にとるように知る事ができる。長年の歴史に裏打されたこの言葉は、その地方の人々身体にしみ込むように存在し、人と人との結びついをより緊密にするのが良く分かる。

また、食べ物も数多く出てくる。現代の人々が食した事のないものもあり、いかにもうまそうである。「むかご飯」は私も昔庭に沢山のむかごが生い茂っており「むかご飯」は食べた記憶がありなつかしかった。

良平が5年生の春、級長になった頃から、同級生の谷口タニと結びつけて女生徒から「たか、たに、た、ぐちィ・・・」と囃し立てられ始めて、それが拡がって行き、良平は痩せる程苦しむ。良平は以前から生意気くさい奴と思って気にはしていた谷口をはやされる事によって急にその美しさを認識するようになり良平にはそれがたまらなかったのであろう。谷口は良平が中一の時に 一 家夜逃げして行方不明となる。題名の「梨の花」は「西の方の窓から盃小舎の前の梨の木の花が見おろせる。やはりまっ白くなって咲いてる。『どうしたんじゃろう』

いつやらはあんなにきれいに見えたのが一ある時はそれまで美しいと思って見たこともなかったのが「日本少年」の口絵そっくりと美しく見えておどろいたのだったが 一 今日はちっとも美しく見えない。咲いているのはわかる。花だから穢くはない。しかしたゞそれだけできたなくもないがうつくしくはちっとも見えない」

良平が谷口タニを見る目もしかりで成長するに従って今まで見たものの評価が変わってくるのをこの一節に集約しているのかも知れない。

 

子供の頃の生活、物事、周囲の人々、自分の心の動きをこれだけ詳細に語り尽くした小説は外に類を見ない。また戦後全国で方言を排し標準語を強制する教育がなされた。沖縄では方言を使うと罰として首から札を下げさられたのである。ヨーロッパでも各国のすべてで地方語が使われているが、学校ではこの地方語を残すべく授業に取り入れているところが多いというのだ。日本全国の特に都市部が東京化している現在、このような小説が生まれる状況はすでに存在していないのだ。

 

2023年

7月

11日

マティスのロザリオ礼拝堂製作について  2023/7/11

東京都美術館にてマティス展みる。

マティスに特別の関心を持ったのは20数年前にフランス製の額入りのマティスの封筒付手紙を入手した。これは馴染みの骨董屋でマティスとオーギュスト・ルノワール、ジャンポール・サルトル、シドニー・ガブリエル・コレットの手紙があったが、マティスの手紙がずば抜けて美しかった為である。

ロザリオ礼拝堂は南フランスのニースから近いヴァンスにあり、当初教会側のドミニコ会修道士が瞑想の為に相応しく薄暗い神秘的な雰囲気の建物を望んだのに対し、マティスは自己の芸術を最大限に表現し南仏の太陽の降り注ぐ明るい礼拝堂を完成させた。

1951年5月の献堂式に健康が優れなかったマティスはニースのレモン司教宛てに手紙を送っている。「わたくしはこの仕事だけに4年のあいだ専心して製作に励みました。これまでの活動の全てを凝縮した成果と言えましょう。たとえ不出来なところがあるとしても、わたくしは、この礼拝堂を傑作と考えております。わたくしは、猊下がその長い人間観察と深い洞察により真実を追い求めることに捧げられたわたくしの人生の成果を必ずや評価して下さることを信じております」と。 (註:訳文のママ)

 

しかしマティスが80歳を越えてから、4年の歳月を費やして創り上げたこの礼拝堂に対して、12歳年下のピカソが当時コミュニストであったことから、信者でもないのにカトリック教会を手掛けるのはおかしいと発言した事もあってマスコミを賑わせて「礼拝堂事件」と呼ばれた。マティスは「私はむしろ仏教徒だろう」と答えている。

 

さて、私の手元にある手紙。

「僕はパリにいます。君の絵葉書を受け取った。ありがとう。君はいつパリに戻ってくるんだい。戻って来いよ。僕はまあまあ元気です。礼拝堂の仕事で精神的に大きな緊張を強いられていたから疲れたよ。大論争になった奉献で身も心も疲れてしまった。君のやり方は変えないでおくれ。でも君がパリに戻ってきたときは、僕は大喜びで迎えるからね。」     

                    君の兄弟  マティスより 1951.7.9    

 

(相手はアンドレ・ルヴェイル 30年以上続いた友人。 1991年の献堂式を終えて間もなく書かれたもの。)

2023年

4月

15日

堀田善衛 全集 第十六巻の「感想」から思い起こす事    2023年4月15日

  1.堀田善衛全集の第十六巻に「感想」(**巻末の原文を参照下さい**)と題した一文が掲載されている。1959年10月10日号「ひろば」に「歴史と運命」として収録されたものである。

さて、そのいきさつは東京都民銀行に労働組合が「従業員組合」と命名して発足「皆さん組合をつくりましょう」から始まるアピール、つまり檄文を発表されたが、この文章を書いたのは組合委員長小西与志一氏であった。

しかし堀田善衛の危惧したとおり銀行はすぐさま会社のお声がかりの第二組合をつくり、従業員組合の殲滅を図ったのである。当時は就職氷河期であり職員の企業に対する従属意識が社内に充満しており、ヨーロッパに確立されていた自然権は日本には存在すらせず、従って労働者としての自覚も矜持も持った者は極めて少数であったのである。

当然の如く組合は脆くも崩壊、第二組合に吸収されてその結果、銀行のお先棒を担ぐ事によって出世を狙ういじましい組合執行部が陸続として輩出し、組合は銀行が願ってもそこまでは出来ないというような事を率先して提言・実行する役割を担っていったのである。

些かでも銀行に批判的な言動があれば昇格や処遇に容赦なく差別が行われたのは言うまでもない。

 

 2.1946年、戦後の経済の復興を促進する為に「復興金融公庫法」に基いて政府の出資つまり日銀引き受けの復興金融債の発行によって調達した巨額な資金を「傾斜生産方式」のもと基幹産業に集中的に資金を融資する事によって産業全体へ波及するとの名目で「復興金融公庫」が設立された。

しかし「復興債」の大量発行による「復興インフレ」を引き起こし52年「日本政策投資銀行」に引き継がれて解散している。

その理事長が復興金融公庫解散のあと間をおかずして中小企業を援助する為として東京都民銀行を設立した工藤昭四郎である。

急ごしらえの銀行で現場の中心となるべき支店長、次長は工藤がその人脈を生かして、かき集めた人達であったのか銀行業務を全く知らない者ばかりであった。一般職員も事務の教育を受けることがないまゝ現場に配置され、日常業務に支障を来すのが実態であったのである。一企業としてその態をなしていなかった。

やがて新しい役職が創設されるに従って、残業代はカットされ、麻布支店を例にとれば貸付係の残業は月二百時間を超える事態が続いて人権無視の無法状態となっていた。

組合は当然のごとくこれを放置していた為にやむなく私個人として労働基準局に申し立てを行った。基準局では銀行に改善を勧告、銀行は組合執行部を身替りの代理人として私と交渉にあたった。最終的に逃げ切れないと判断、残業代を支払う事について私と合意、ただし一年前に遡っての支払いは勘弁して欲しいとの条件をつけた。銀行は一年に数億の支払いを実行する事となった。銀行業界として実質残業代を支払ったのは東京都民銀行たゞ一行だったのである。

そもそも出勤、退社も自由で人事権を有する者以外は労働者であり、残業支払いの対象である事からも当然の処置ではあった。しかし銀行からの報復として役職対象となる数百人の中で唯二人除外されたがその一人は私、もう一人は長期休職者であった。

 

その後銀行は三光汽船の社長であり、その後も実質的オーナーで自民党の大臣等役職を歴任した実力者、河本敏夫に対し無担保で15億の融資を行い、結果焦げ付いたがこの事態に対し職員に弁明も、説明もなくその責任の所在を隠蔽した為、私個人として頭取田中保一郎に対し質問状を郵送し、退陣を要求したが回答は替わりに人事部長が対応「頭取の奥さんが心配しているのでこういう事はやめて欲しい」との事。第一、人の手紙を他人が読む事もどうかと思われたが、私の気持ちの中に同じ人間、何とか話せば理解しあえるのではと思うところがなかったとは言えないが、この現実をみて、このような人物がトップに居る企業では居る意味がないと思うようになったのである。

堀田善衛の文章を読んで当時の事を今でも生々しく思い出す。(完) 

 

 ***********

「感想」 ( 堀田善衛全集の第十六巻より)

 編集の方から、組合が出来たので、という話を聞いたとき、実は私はびっくりし、かつ、少々は呆れた。東京都民銀行のような大きな企業に、これまで組合がなかったということを、私は想像することも出来なかったからです。どうも恐れ入った銀行だな、というのが率直な感想でした。

 それで、頂いた「ひろば」1月15日号で「東京都民銀行の組合づくり」を読み、また「皆さん組合をつくりましょう!」というアピールを見、つくづくと一つの組織をつくり上げるための苦労のほどを知りました。そのアピール文は、なかなかの名文です。それは日々の生活の現実にぴったりと裏打され、かつその現実が押し出した情熱と、様々な配慮が一つになっていて、切実で美しい。美しい文章とは、美文のことではありません。

 また「組合づくり」の方は、上部からの圧力のかかった環境のなかで、その圧力自体がそれに抵抗する組織を生んで行く、その過程がよくわかって、これも私には勉強になりました。今後の進路も並大抵ではないでしょうが、立派な組合になって行くようにと祈る気持ちが湧いて来ました。

 はなむけのことば、というのではなくて、労働組合というものの社会的な重要性を一言で言い抜いている、フランスの哲学者のアランのことばをここに添えておきたいと思います。

「現実の自由は、権力に対して絶えず鉾先を向ける組織の存在を前提とする。それは人間世界の法則の明白な証拠であり、市民の唯一の希望である労働組合はそのほんの第一歩に過ぎない。」

 労働組合が弾圧されるとき、現実の、市民一般の自由が必ずやせばめられるということは、歴史にも明らかなことです。

                 

2022年

12月

18日

作品紹介 甲骨文字  殷代末の金文        2022年12月14日

古代エジプト文字(ヒエログリフ)は絶対権力者と天上の神が交信する手段として生まれた。絶対権力者の生前の行績を天上の神に届ける為に石に刻したものであり、一般国民は文字のある事さえ、実に千年以上も知らなかったのである。

漢字の甲骨文、全文は紀元前1400年代の初めごろ、殷王朝が安陽に都して中原に君臨し、古代王朝としての偉容を成就した武丁期以後のものが残されている。

殷の文化は安陽期に入って壮大な陵墓の造営、青銅器の出現がそれを証している。その中で最も偉大な創造は文字の出現であった。

獣骨を灼き、亀版を灼くのは卜(ウラナイ)いの為であった。王朝の重要な行為や王室の重要な問題についてはすべて卜によって神意をただし、実行に移されたのである。やがて権力に基づく行為が同時に神意にかなうものである事をすべての人に諒解させる為の儀礼に変っていったのである。

文字の発生は東西いずれも人と人とのコミュニケーションの為に出来たものではなく、絶対権力者が天上の神との交信の為に創造されたのである。漢字の場合は今日使用している文字も、甲骨文、金文のいわゆる神聖文字に源を発し、そのルーツを辿る事が出来るのである。大多数の文字が、神に誓って書かれたものであったことを忘れたはならない。

また漢字は誕生した時から実に美事な結体を示しており実に美しい。

 

今回の数点の作品は殷代後期の文字で、神事の卜に使われた亀の腹甲に金文、甲骨文を刻した当時の神聖文字である。

 

長子狗乍文父乙 ● 彝

(註)●は 阝に尊

軍事に関する金文

員父乍寳●彝

 (註)●は 阝に尊  

帝己且丁父発鼎

( 軍事に関した金文 )

金文 壽

2022年

12月

12日

在日ロシア大使館 レセプション       2022年12月7日 

大ホールでの演奏会に招待された。今回2回目となる。

中心の演者はテノールのアレクセイ・コサレフである。

 

1.プッチーニの「トスカ」から『星も光りぬ』

第3幕 サンタンジェロ城

脱獄した友人の政治犯アンジェロッティの逃亡を助けた罪で獄中の人となったトスカの恋人カヴァラドッシはトスカに横恋慕する警視総監スカルピアから死刑を宣告される。

死刑を間近にしての明け方、トスカと田舎で過ごした幸福ははかない夢だったと激情的に歌うのが ”この歌" である。従ってこの歌は万感を込めて切々と歌うもので、コサレフのように高らかに、朗々と歌うものではない。なおスカルピアは自分の思いを受け入れてくれゝば、カヴァラドッシを助けてやるとトスカを騙す。しかしカヴァラドッシは銃殺され、裏切られたトスカはスカルピアを刺し殺し、自分はサンタンジェロ城から身を躍らせるのだ。

1953年録音のヴィクトール・サバータ指揮ミラノ スカラ座管弦楽団から出されているトスカをマリア・カラス、マリオ・カヴァラドッシをジュゼッペ・ディ・ステファーノ、スカルピアをティト・ゴッビの配役で、これ以上の布陣で構成されたものは将来も聴くことは出来ないであろう。マリア・カラスは今日でも圧倒的な人気を有しており、ティト・ゴッビは特にオテロのヤーゴが素晴しく、日本ではオペラの団十郎と云われて演技も凄かった。

さて、ジュゼッペ・ディ・ステファーノである。絶妙にコントロールされた甘い高音と心に直接訴えかける情熱的な歌唱は類をみないもので、このCD録音の時代はステファーノの絶頂期でもあり、彼を越える歌唱は未だ現れていない。それが『星も光りぬ』だ。

 

2.プッチーニの「トウーラン・ドット」の『誰も寝てはならぬ』

王子カラフが彼の名を探りあてようと寝もやらぬトウーラン・ドット姫を想うアリアで、今は亡きパヴァロッティが得意中の得意としており、コンサートの締めくゝりに必ず歌っていたものである。パヴァロッティの歌声も情緒が足りないかなと思われたが、エネルギーに満ちていたがコサレフの歌声は金属的な響きが強すぎて聴きずらい感があった。

声量は凄いものがあり聴衆を圧倒するが暖かさや、やさしさ、柔らかさに著しく欠けており、一本調子のところがあった。

 

3.イタリア民謡の『私の太陽』『帰れソレントへ』は可もなく、不可もなしと云ったところ。

 

4.レハールの「メリーウイドウ」から第三幕のフィナーレを飾る『愛の二重奏』である。

パリ在住のマルコ・ツェーク男爵は公国の財政に大きな役割を担っている。老人の夫が亡って大金持となった若き後家ハンナ・グラバラリー夫人が外国人と結婚して、財産を国から持ち出される事を警戒、元の恋人ダニロ・ダニロヴィッチ伯爵と結婚させようと画策する。ダニロは今や金持ちとなったハンナと結婚することに抵抗して悪所通いにうつゝを抜かしているが、ハンナの策略に引っかかって愛を告白する羽目に追い込まれる。その第3幕の終盤に歌われる二重唱で「高鳴る調べに いつか 心の悩みもとけて 言わねど知れる 恋心 想う人こそ 君よ」と歌って大円団となる。いわゆる愛の二重唱であり、もっとやさしく、柔らかに愛に満ちたように歌って欲しいものであった。

コサレフは190㎝を超える偉丈夫で、確かに声量はもの凄いが、どの歌も目一杯歌うので、聴く方は疲れてしまうのだ。内容に合わせて強弱をつけて、甘さも含めて歌って欲しいものである。

天野 加代子の歌は言及する事でもなかった。演者は他にピアノのユーリー・コジュバートフと吉田 和子、ヴァイオリンは森 茜莉汀、バレエは佐々木 美緒、武藤 桜子の二人であった。

 

ロシアのウクライナ侵略を考えると、その現実を度外視して音楽を楽しむという気分にはなれなかったのは仕方がない事であった。

 

2022年

11月

21日

第15回記念 葛飾現代書展 会場風景  2022年11月21日

 

大諷 出展作品 

刻字 金・銀泥 戦国時代 瓦当文

2022年

11月

03日

作品紹介 九成宮醴泉銘 巻子 銀泥 / 李白 雑言古詩 「王昭君」「王壷吟」(金・ 銀泥) / 庭の秋草 金泥 2022年11月3日 

 

 九成宮醴泉銘 欧陽詢 (557年~641年)  巻子 銀泥

唐の太宗皇帝が隋の仁寿宮を修理し造営して九成宮とした。貞観6年(632年)夏、避暑に行った時その一隅に甘醴な泉が湧き出したのを記念する為に碑を現在の陜西省麟遊県に建立した。勅に奉じて欧陽詢が書いたもの。

宋以来拓本をとられることが多く、字が磨滅して痩せる毎に刻り拡げて太らせてきたが、すでに元の面影はない。九成宮の拓本はあらゆる碑の中で一番高価で、とりわけ宋拓本は貴重品となっている。

欧陽詢は晋以来の南方系と、北魏以来の北方系を統合して新しいスタイルを創り出したといわれ、今もって楷書の聖典と呼ばれる。

碑は九成宮址の近くの建物「碑亭」にガラス張りで収蔵されており、拓本をとる事は出来ない。

九成宮醴泉銘 碑 全体像 

 

九成宮醴泉銘 碑の一部

度重なる採拓により字が摩滅し彫り拡げられた跡が伺える。(1995年11月19日 撮影)

 

李白 雑言古詩「王昭君」 銀泥 

漢家秦地月 流影照明妃  一上玉関道

天涯去不帰 漢月還従東海出 明妃西嫁無来日

燕支長寒雪作花 蛾眉憔悴没胡沙

生乏黄金桂図書 死畄青塚使人嗟

前2世紀の中頃、東胡・月氏を破り、漢に侵入した匈奴帝国の第2代の王、冒頓単于(ボクトン・ゼンウ)に苦しめらた漢帝国は彼を懐柔すべく、漢から貴女を献呈することゝし、後宮から人選する。当時皇帝に自分を売り込むために画家に賄賂を贈って美人に描いてもらうのが通例であったが、王昭君はこれを行わず醜女に描かれた為に選出された。皇帝は本人をみて後悔したが後のまつりで王昭君は匈奴のもとに贈り物とされたのである。

王昭君の諱は「王明君」「明妃」と称された。 

 

李白 雑言古詩「 王壷吟 」 銀泥

烈士撃玉壷 壮士惜暮年

三盃拂剣舞秋月 忽然高詠涕泗漣

鳳凰初下紫沼詔 謁帝稱觴登御筵

揄揚九重萬乗主 謔浪赤墀青瑣賢

朝天数換飛龍馬 勅賜珊瑚白玉鞭

世人不識東方朔 大隠金門是謫仙

西施宣笑復宣嚬 醜女效之徒累身

君王雖愛峨眉好 無奈宮中妬殺人

 

西施宣笑・・・・→ 累身  訳

「西施は笑い顔も しかめ顔もと もに美しいが 醜女が真似をすれば、その甲斐もなく 器量を下げるだけである」の意。

 

西施(セイシ)は春秋時代の越の絶世の美女。越と呉が中原に覇をとなえるために長く争ってきたが、越王の勾践(コウセン)の参謀范蠡(ハンレイ)の策謀により西施が呉の王夫差に献じられた。夫差は西施の美しさに溺れて政治を疎かにした為に越に敗れて自殺に追い込まれ、呉は滅亡するのである。

また芭蕉は「奥の細道」に「象潟や 雨に西施が 合歓の花」がある。

いま象潟に来て、もうろうと雨に煙った風景を眺めると自ずから寂しさと哀しみの念が湧いてくる。辺りには西施が憂悶の目を瞑(ツム)る姿を髣髴とさせつゝ合歓が雨に濡れて咲いているの意である。

西施は中国の漢詩に王昭君と並んで数多く取り上げられている美人である。

~~絵は西施~~~銀泥

 

金泥で描く秋草

1940年の終りから50年代の初め頃我が家の庭の一部は鼠黐(ネズミモチ)の垣根で隔てられた一隔があり、80坪程の雑草地であり、雑草に蔽われたこの空間は多くの虫が生息し夢の世界であった。月に照らされた夜の秋草は不思議な美しさがあった。この絵は子供の頃にみた幻のような世界である。

 ~~ 御仏の なを尊さよ けさの秋 ~~~~ 

 

2022年

10月

25日

大諷 雑感帖 『 壊れていく東京』   2022年10月25日

雑感 『 壊れていく東京 』 2022年10月25日

昭和30年代初めまでの東京には、未だ江戸時代から明治にかけて色濃く残っていた風景が存在していた。

家屋の多くが木造平屋建てゞ押縁下見の横板張りで至る所にある節穴に栖んでいる蝙蝠が夕方になると一斉に飛び出して、夕焼空に乱舞した姿や、庭の奥に稲藁を積み、桟俵法師(サンダラボッチ)のような蓋を被せた、毎日の煮炊きに使用する燃料がある家もある。家の中は概して建付けが悪く、風が吹くと障子がガタガタとなり縁の下から畳を通して吹き上げる風で、冬には東京でも厚い氷が張り、北風が強く吹き、暖房のない寒い時期が長かった。炬燵が唯一の暖をとる場所であった。

家は年中ジメジメして便所の臭いがしており、夏は蚊が多くて網戸もない頃で戸を閉め切らなければならず、寝る時は必ず蚊帳を吊らなければ蚊の集中攻撃を受けたのである。時代劇でみる屋外での夕涼みなど、決して出来る事ではなかったのである。

中年女性の多くが着物を着用しており、汲み取り、赤線の時代でもあった。

子供達は盆暮れに僅かな小遣いを貰い、粗悪な紙を使った本や玩具などでも購入できる家庭はほんのわずかしかなかった。足袋に下駄の生活で朝鮮戦争による金偏景気で、金属が高騰した事から子どもたちは挙って金物を拾い定期的に廻ってくる屑鉄業者にそれを売って小遣いととしていたのである。

ほとんどの男の子は狭い地域ごとに集団をつくって縄張りを設け未就学児童も含めて六年生のリーダーが集団を管理していた。面子、ビー玉、ベーゴマ、剣玉が男の子の主たる遊びであった。

女の子はすべてモンペを履いて、ボロかくしの上っ張りを着用していた。

年に一度町内で大掃除を行い、衣更えの為に家中に着物を吊るして、虫除けをする年中行事が行われた。丁度滝田ゆうの「寺島町奇譚」の世界だったのである。

 

しかし1960年7月19日から始まった池田内閣の高度経済成長政策によってそれまでにも破壊されつゝあった東京の風景は一変していき、それなりに未だあった風情ある東京の街は、国籍不明の誠に味気ないものとなっていったのである。今やアジアの諸都市と変わらないものとなってしまった。

ヨーロッパの街はいずこも昔の景観を大切にして古い建物も残して見事な街ばかりである。例えば第二次大戦で総て灰塵に帰したポーランドのワルシャワは画学生残した多くのスケッチをもとに元通りに復元している。

 

日本の政治、経済を担うリーダー達の文化レベルの低さはまことに嘆かわしいと云うべきである。

70年代あたりまでは30才台あたりで、中小企業に勤めていても何とか自宅を持つ事が出来たが、今はそれは不可能となってしまい、国民の貧困度は昭和30年代に劣っていると言わなければならない。誰も責任を取らない政治、経済を始め国民の意識が今日を生んでいるのだ。

 

2022年

10月

03日

『 嘔吐 』ジャン・ポール・サルトル著   2022年10月3日

1938年5月ガリマール書店から刊行されたサルトル33歳の作品である。

サルトルは高等師範学校を卒業し、北フランスのル・アーブルで哲学教師として勤務の経歴があり、この作品の基礎となっている。

「嘔吐」はフランス北部の港町ブウヴィルに住んでいるアントワヌ・ロカンタンで知識人の彼は18世紀の人ド・ロルボンに関する本を執筆する為にこの地に滞在し、町の図書館に通い、公園を散歩する単調な生活を送っている。ブウヴィルは陰鬱な町でそこに住む人々は何の変化もない、つましい日常を送っており、活力に乏しい駅前のカフェ、公園の散歩、酒場、安食堂での無気力な生活振りが執拗に描かれている。

ロカンタンは公園の樹の根を見る。公園の樹の根において彼の意識にとっての対象ではなく、物そのもの、存在そのものがあらわれる、一種の直観で、その直観の生理的な表現が「吐き気」である。すべて存在する物は偶然そこにあるだけで存在する理由も必然もなく、何の根拠もない絶対的なものである。人間がそれを判断したときに感ずるのが「吐き気」であると。

しかし過去に生活を共にした女アニイとの久方振りの出会いについて「腕を垂らし、昔はその為にお転婆娘といった印象を与えていた。気難しい顔をしている。しかし、いまではもう小娘などに似ていない肥えて胸は厚い」お互いの間の話は昔と同じように全く嚙み合う事はない。2人のこの瞬間はかけがいのないものではあるが、終りの始まりでもある。

 

この小説の背景について

1936年フランス人民戦線レオン・ブルム内閣成立。1939年3月スペイン人民戦線敗北。

1940年パリ陥落。世界はヒットラーが台頭し、ファシズムの足音が高くなって永年に亘って築きあげられてきた民主主義の価値観が破壊され、ニヒリズムの風潮がヨーロッパ全体をおゝってきた時期でその影響が色濃く反映されている。

この本は人文書院刊1957年発行のもので今は懐かしい活版印刷本である。当時サルトルの劇作を中心にさかんに読んだものであった。

 

2022年

9月

28日

丸山 眞男 座談 No. 7『展望』誌    2022年9月28日

丸山眞男座談 No.7       

初出1968年1月号「展望」誌(筑摩書房)

このなかで森有正は「日本には思想の連続的発展に転化しうる経験がはじめから欠けていたんじゃないだろうか。日本では思想の連続的発展がない。どうしても一に体験を丸ごともってきてやり直すわけです」「フランスでは教会や宗教のモラルでない、宗教に支えられていない世俗的存在のモラル、これの伝統が非常につよい。これがある為に、たとえば宗教の社会的勢力が弱まっても、社会生活に倫理性がなくならないんですよ。私に分かったことは、そういうモラル・ライック(世俗的倫理)といわれるものが実は「社会」と云う事の意味だと云う事です。社会を構成する各々の個の経験によって各個人にまで、その社会を構成している人間存在と結びついている。これがなければ啓蒙思想もフランス革命も生まれないし、レジスタンスも生まれないわけですよ。コミュニストとカトリックとがある事態に直面して根本で一緒になってレジスタンスをやれたのはそうして世俗的倫理があるからでしょう。こう意味でのモラルがないという事は社会がないという事です。あるいはそういう個々の人格を定義する経験をもつ人間集団を「社会」と呼ぶのです。人間は集って住んでいるけれども人間の社会は欠如していつこういう倫理性をもった人間の社会の上に立った社会主義や民主主義を日本に適用したらどうなるか、これは混乱以外の何ものでもないわけですよ。」

木下順二「ぼくはこの間久しぶりに自分の旧制高校の同じクラスの同窓会に行ってみてびっくりしたけれどもそこには戦争中の特高課長がいるし、自衛隊の海軍少将(海将補)そういう人たちがいて、お互いにゲラゲラ笑いながら話している。同窓会に限らず社会のなかに個としてのはっきりした意識をもって構成されている場所がどうも少いんだ。」

森「フランスにはそういう同窓会的なものはまったくないね。学校を出てから別々におとなになって、別の社会に入った者同士が昔いっしょだった学校のことをなつかしがるという空気はまったくないですよ。一人前になっていなかったときのことを集ってわいわい言ってみるという趣味は全然ないね、向こうには。」

木下「齢とってから集まってわいわいやるというのは年とってもあまり一人前にならないという証明にならないこともないね。日本の場合には」

丸山真男「体験共同体なんだ。学生のときの体験は職場に入れば全然別になってしまうから。共通基盤がなくなってしまう。経験の創造性というものがなくなって、体験や追憶の共同性へのめりこんでしまう、やがて新制教育は根性がない、旧制高校にはあった、といつのまにかムードか一種の「イデオロギー」になってくる。」

森「私が発見したことは、国際情勢は戦前からみても、戦中戦後になってからも非常に変わったにもかゝわらず「日本」の実体はほとんど全く変っていないという事です。これは驚くべきことですね。決していゝ意味で言っているのではないんです。批判して越えていかなければならない。いろいろな問題がほとんどそのまま、いや完全にそのまゝ残ってしまっている。天皇制の内容が変わって神である天皇が国民統合の象徴である天皇になったとか、議会制度が昔より民主的におこなわれるようになったとか、そういうことがいくら言われても、そんな事ではごまかすことのできない日本の社会独特の非常におくれた在り方というものが、今日なおずっと続いている。」「経験が定義するのは一人の独立した人間ではなくて、人間の関係なのですね。しかもこの関係は平面的なものではなくて、序列的な上下関係になっている。平面的関係があるとすれば必ず上下的なものによって媒介されている。教育勅語や軍人勅諭はその典型的表現です。」

森「日本はPTAとかいって教師と親とが癒着してしまって子供は腹背から気脈をつうじた敵に監視される。」

 

等非常に納得性のある話が続いている。

第1の思想の連続性については、マルクス主義が日本に入ってきて日本人は丸ごとこれを受け入れた結果、国家権力の弾圧に雪崩を打って転向した事に良く現われている。

第2に日本は変らないについては、第二次世界大戦を国民的に総括しておらず、何が原因で戦争が始まったのか、その責任は一体誰がとるのかを極めて曖昧なまゝにやりすごし一億総懺悔でうやむやにした附けが今日まで引きついでいる。日本国民の大多数が自分達は被害者であると思い込んでいるのが実体である。戦後の様々な物事をしっかりと総括しないまゝできた事が借金1,220兆円の現実を生み、経済の停滞を生み、国民の深刻な貧困を生んでいる。

日本では個人が自立していない。特に秩序は上下関係で成り立っており、多くの組織が誰も責任を取らない体制で進んでいる。総ての社会では新聞を賑わす犯罪や不正に従業員は全責任を感じていないどころか自分達は上からの命令でやれされている犠牲者であるとの認識である。

日本社会獨得の非常に遅れた在り方というものが、戦前戦後変わることなく続いているのだ。

第3の同窓会について、私の周囲でも同窓会は依然として盛んに行われている。個としてのはっきりした意識が全くないと言わざるを得ない。ちなみに私は学生時代の同窓会に参加した事は一度もない。昔の話を皆で追憶して楽しむという興味が全くないからだ。この日本人の意識が続くかぎりでは、民主主義の実現や基本的人権の現実等は極めて難しいと言わざるを得ない。1968年の指摘が自民党の圧倒的多数支配のもと一層際立ってきた。

 

2022年

8月

28日

雲岡石窟について    2022年8月28日

雲岡石窟(ウンコウセックツ)について 

 

(註:雲岡石窟は現地名。2001年ユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された名称は雲崗石窟 )

 

1. 漢帝国の末期、帝国の内部に勢力を有した司馬懿(シバイ)を中心とした知識集団清流派が存在した。

清流派の勢力拡大を恐れた漢帝国はその中心人物の身柄を獄中に拘束するが、この勢力が黄巾の乱と結託するのを危惧して帝国は懐柔政策をとり、牢から解き放つ。鎮圧された黄巾の乱の残党30万と清流派を味方にとり込んだ魏の曹操は、天下統一を狙って赤壁の戦に臨むが敗退。曹操の死後、司馬懿の孫 炎は魏の王位を簒奪し、蜀、呉も滅ぼして天下統一。晋帝国を建設(265年)するが316年4代で滅亡。317年司馬睿が南京にて再興するが、420年に滅亡(東晋)。

 

2.後漢から魏、晋時代にかけて北西方向から中国本土に侵入移住した匈奴、羯(ケツ)、鮮卑、氐(テイ)、羌(キョウ)は五胡と云われ、鮮卑、匈奴、羯はモンゴルもしくはトルコ、ツングース系である。十六国はいづれも漢民族。胡のうち鮮卑が北西より侵入し勢力を拡大し386年北魏を建設。拓跋珪は398年大同に都し、帝位につく。439年は華北を統一、漢民族の伝統や新事の仏教文化、知識人、僧侶、技術者などを集めて大規模な都城を建設した。ここに居住していた漢民族のうち裕福な人達は肥沃で温暖な太平洋側に宋(420年~497年 南朝の最初の王朝)を建康(現南京)に建設。北魏には貧しく脱出も難しい人達が残った。こゝに南北朝時代が始まるのである。

北魏は西方にも勢力を拡め、和平元年(460年)宗教長官(沙門統)に就任した僧侶曇曜は五代文成帝に上奏し5人の皇帝(5人とは  道武帝ー明元帝ー太武帝ー景穆帝ー文武帝ー(孝文帝))を供養する為に大同の西郊武州塞に5つの石窟を開いた。これが雲岡石窟の始まりで、仏法を広める皇帝は如来であるとした。

雲岡の崖に1㎞にわたって造られた曇曜石窟は53を数え、その他に小窟、仏龕も数多く穿れた造像の総数は5万1千体に及んだ。

 

3.北魏では皇太子の生母は殺されることになっていた。皇太子の生母となると親族がこれを利用して王権に介入する危険がある事から定められたものである。5歳で即位した7代皇帝孝文帝の執政は5代皇帝文成帝の馮皇后であったが、子供を産まなかった為に生き残った。決断力、実行力に富んだ人物であり、次第に権力を高めていった。文成帝の皇太子であった19歳献文帝を意に副わずに毒殺したと伝えられている。馮皇太后は孝文帝の養育を荷って、やがて孝文帝と2人で戸籍と税の制度である

「均田制」( 註1) 「三長制」(註2) を創設させるなど統一国家としての基盤づくりに力を発揮した。

  註1「均田制」従来豪族の支配下であった農民に、国が15歳男子には40畝、同女子には20畝の土地を給した。(1畝は単位6尺四方を1歩とし、100歩を1畝とした。)当該者が死亡した際には国に返却するもので豪族の過酷な支配から脱した農民の生産力が飛躍的に上がり、従って国の財政も豊かになっていったのである。この制度は日本にも伝わり班田収授法として奈良時代に取り入れられた。

註2「三長制」北魏の隣得制度。村落の五家を一つの隣とし、五隣を一つの里、五里に一つの党として各々に隣長、里長、党長を立て、治安維持と徴税機能の強化を図った。486年に制定している。

 

孝文帝は胡族と漢族との通婚を奨励。公服を漢風に改め494年には漢族の古都洛陽に遷都、鮮卑服の着用を禁止、495年には鮮卑語の使用を禁じ、496年には胡名を漢風に改める等積極的な漢化政策を打ち出した。これが鮮卑族の反感を買い、帝国の弱体化に繋がった。南と北の帝国は隔絶し交流は全く無く、北魏は半ば鎖国状態の中で独自の文化を発展させた。書については唐時代の隆盛の基礎となり、日本の仏像彫刻の原点となって大きな影響を及ぼした。孝文帝は中国皇帝の中でも指折りの名君である。

質実剛健な気風、武力の充実に加えて均田制が施行されて農業が奨励さてたことで著しい農業生産の発展は経済の発達が退廃した南朝を圧倒して、隋による中国の統一となった。隋王朝は自らは漢人としているが、北魏の流れを受けており、初代揚忠の子隋王朝の初代皇帝高祖文帝の妻は鮮卑系の名門独弧信の娘であることからしても北魏系であると思われる。

歴代皇帝

1.太祖道武帝 386年~409年(拓跋珪)

2.太宗明元帝 409~423(拓跋嗣)

3.世祖太武帝 423~452(拓跋燾) 

4.隠帝(南安王) 452(拓跋余)

5.高宗文成帝 452~465 (拓跋濬)

6.顕祖献文帝 465~471(拓跋弘)   

7.高祖孝文帝 471~499(元宏)

(孝文帝の漢化政策によって漢風の姓「元」に改めた。)

8.  世宗宣武帝 499~515(元恪)

9.粛宗孝明帝 515~528(元詡)

⒑ 敬宗孝荘帝 528~530(元子攸)

⒒ 廃帝(東海王) 530~531(元瞱)

⒓ 廃帝(節閔帝) 531(元恭)

⒔ 廃帝(安定王) 531~532(元朗)

⒕ 孝武帝 532~534(元脩)

 (北魏最後の皇帝)

東西に分裂 東魏  孝静帝

      西魏  文帝 

 

2022年

8月

26日

作品紹介 懸佛 2体      2022年8月26日

本来は鏡の表面に神仏、仏像、梵字などを線刻し、寺社に奉納、礼拝したもので鏡は神社のご神体として祀られる場合が多かったが、神佛習合によって鎌倉、室町時代に懸佛の形式が生まれて盛行した。

2022年

8月

20日

作品 司馬遷の史記より『高祖本紀』  2022年8月20日

司馬遷の史記により『高祖本紀』

史記は紀元前92~89年に書かれた一級の歴史書であるが、人間探求の書でもある。当時遊牧民族「匈奴」は中国を脅かし続けてきた。秦の始皇帝に「万里の長城」を築かせたのは「匈奴」対策の一環であった。漢の武帝時代、総力を挙げての戦いが始まり、少壮気鋭の指揮官李陵が不屈の闘いを続けたが、少数の兵力もあって力尽き、匈奴に降服。朝野の増悪は彼と彼の一族に集中したが、その中で司馬遷は武帝の下問に答えて李陵弁護の論陣を張った。この事は武帝の怒りを買って死刑の宣告を受けるが、死刑を逃れる道は唯一つあり、それが生殖器を切断する宮刑であった。司馬遷はこれを選択。生き恥をさらした司馬遷は歴史書の執筆を続行し遂に完成した。やがて帝朝の歴史編纂者=太史令となった彼が、帝国の意に沿わない記述書であっても、彼は既に死んだ人間である事がこれを可能にした。

さて『高祖本紀』であるが、漢帝国滅亡の後をめぐって項羽と劉邦の激しい戦いが繰り広げられる。才能が有り余る項羽が部下を信ずる事が出来ず、最後の拠り所であった軍師范増を失う決定的な失敗によって滅ぶが、自らの実力を自覚して、部下の才能を上手く活用した劉邦が天下を治めるのである。司馬遷はその人となりを実に的確に書き表わしており、また全体を貫いている司馬遷のキーワードは人間の情念というか、怨恨というか、これにあると思われる。

2022年

8月

20日

作品 永井荷風 「日和下駄」   2022年8月20日

作品 永井荷風 『 日和下駄 』

『日和下駄』は大正3年8月 (1914年) ~翌年6月まで三田文学に掲載された。荷風は生涯東京にこだわり続けた作家であり、また時代によって醜悪に変貌していく東京を鋭く指摘しており、その本質は今日に至るも些かも価値を失っていない。荷風が指摘した事が、今日も更に加速しており猥雑な国籍不明の都市と化している。

荷風が東京の特に下町を丹念に歩いているのには今更ながら驚く。

2022年

8月

12日

作品、 庭の花 紹介     2022年8月10日

法隆寺献納四十八体佛の一つ 東京国立博物館に収蔵されている。

 

桃色の牡丹 今年咲いた我が家の牡丹 大諷 画

庭の蓮  

2022年

7月

29日

「期待と回想」 鶴見俊輔   2022年7月29日

「期待と回想」  鶴見俊輔

  

1.「思想の科学」「べ平連」での活動や同時代の知識人について語っている。

鶴見和子

「思想の科学」同人として武谷三男、都留重人、武田泰淳はマルクス主義に理解をもつものとして、ある程度の理解を示すものとして丸山眞男、距離を保っていたのは鶴見俊輔、渡辺慧であった。同人になるについて鶴見は共産党に異をたてることになるから参加したくないとの見解に対してマルクス主義者の武谷は「共産党に引きまわされない団体があってもいいじゃないか」と、云い、後に渡辺が宮城音弥を連れてきて、反マルクスの論陣を張って武谷等と対決するが、武谷等はこれも認める鶴見俊輔は若干23歳の若さで「思想の科学」の責任者となったが、武谷の示したこの考えが50年続いた理由の一つであろう。

鶴見は「姉和子が人間関係を全部つくり、その据え膳を私が食べたもの」と語っている。

 

2.加太こうじについても「加太さんは戦前からの左翼なんです。戦後『赤旗日曜版』をつくった一人なんですよ。加太さんは共産党本部に行って、一度としてインテリとして扱われたことがないとね。加太さんは小学校のころから紙芝居の絵を描き、卒業するとそのまゝ紙芝居の作家になったでしょ。共産党本部は、彼の知識人としての実力をちゃんと見ることができなかった。ところが「思想の科学」に来ると、どんな議論を出してもきちんとやる。そういってました。加太さんは公式のマルクス主義者なんですよ。しかし「思想の科学」の編集、刊行に対して責任をもち、糖尿病で倒れるまで長くつゞけました。80年に発行人になり、たいへんな額の金銭を負担したんです。あるときから大学風じゃなくなるのですよ。つまり加太さんがリーダーになるような会になったんです。」と共産党の権威主義に対しての批判も語っている。

 

3.このなかで藤田省三、桑原武夫、竹内寛子、林達夫、小田実、中沢新一、加藤周一、今西錦司等多くの言論人等が語られており、辻元清美が好き、彼女はアホだからともある。

また鶴見は葛飾の金町に一時住んでおりその家族の一歳の女の子と一緒に暮らしていたとの記述もある。

加太こうじについては長く金町に居住していた。金町小学校のPTAの文化講演会に当時既に有名人であった加太こうじが講師として呼ばれ、加太こうじは「ナチスの国会焼き討ち事件」とそれにまつわる宗教の欺瞞性について語り、校長や地元神社の宮司であるPTA会長、PTA役員たちを狼狽させている。

 

2022年

7月

27日

「失われた時を求めて」プルースト     2022年7月13日

「失われた時を求めて」  プルースト 

1.「失われた時を求めて」は20世紀を代表する作品で、世界の文学に絶大な影響を与えた。日本の文学者でこの作品に影響を受けない作家はいないと云える。

この大作の冒頭に「長いあいだ、私は夜早く床に就くのだった。ときには蠟燭を消すとたちまち目がふさがり ”あゝ眠るんだな” と考える暇さえないこともあった。しかし30分程すると、もうそろそろ眠らなければという思いで目がさめる」という眠っているか起きているか不安定な意識の描写から始まる。丁度フロイトが「夢の解釈」を出版して直ぐの作品である。

「母が召使いに命じて熱い紅茶とプチット・マドレーヌを持ってこさせ、そのマドレーヌのひとかけらを紅茶と共に口に含んだ途端に、ある快感に襲われ、満たされた気持ちになる」というあまりに有名な一節が出てくる。無意志的な記憶の言語化が始めてプルーストによってなされた。

 

さて、第一章の「スワン家の方へ」でコンプレーのまわりには散歩の為の二つの方向があって、一方はスワン家の前を通る為に、スワン家の方と呼ばれ、他の一方はゲルマント家の屋敷の方である。スワンは裕福なユダヤ人で演劇や文学、絵画などにも造詣の深い教養人でゲルマント家のサロンにも出入りが許されていたが、高級娼婦(ココット)だったオデットと結婚した為にゲルマント公爵夫人から出入りを拒否されるようになる。

地方の古くからの領主ゲルマント家はその歴史もある事から特別な存在とみられており、ゲルマント公爵夫人のサロンに出入りする事が出来るのは貴族の中でもとりわけ選ばれた人達のみで、社会的身分、地位があるとみられていた。ここには学者や芸術家も招待されて一大文化の殿堂となっていた。とりわけゲルマント家の人々と個人的に親しいとなると又別のステータスとみられた。公爵家の内輪の晩餐会に参加するとなれば、上級階級の心臓部に入り込む事となる。一方ブルジョワのヴェルディラン夫人のサロンでは貴族社会には近づけない裕福な人達が集まり、ヴェルディラン夫人は貴族を「やりきれない連中」と呼んで軽蔑する振りをしていたが、やがて夫の死後にゲルマント大公と結婚して、貴族に成り上がるのである。

巧みに変身していくのだ。これぞ ”スノッブ” そのものである。

 

時は晋仏戦争で、仏が敗北し、またユダヤ人が多くフランス内に入り込んできた時代であるり「ドレフィス事件」が起こり、ユダヤ人の軍人ドレフィスがスパイとして摘発され孤島に流刑となる。

この事件をめぐって、貴族階級を中心とした保守系が反ドレフィス派となり、親ドレフィス派と国を二分する事となる。親ドレフィスのスワンはこれで決定的に上流階級から排除されていく。夫人のオデットは反ドレフィスの旗幟を鮮明として上流階級に受け入れられてゆき、スワンとの間に亀裂が入って行く。

 

2.この作品のテーマの一つにスノビスムがある。

貴族社会の中でのスノビスムが執拗に語られる。貴族社会の多くの人々が世評の定まった物事をのみ自分の評価とし、自分達がゲルマント公爵夫人のサロンに入った事を他人に知られたい、他人の目に映る自分の姿こそが何よりも彼らに満足を与えるのである。

この作品はそのほとんど総ての人がスノビスムに侵されているのだ。

プルーストはこのような見栄の張り合いで滑稽なスノビスムに侵された人達をこれでもかと熱心に描いていたが、今日に至るも人間誰もが持っている普遍的な法則とも云うべき性格であるからであろう。私自らを顧みても、自分の主体的判断そのものゝ大半が他者に支配されていると思わされる事が実に多い。

 

ここに描きだされたスノップ達を笑う事は出来ないし、プルースト自身がスノップであったのかも知れない。

 

3.ドレフィス事件

1894年にフランス中を揺るがせたもので、スパイに仕立て上げられたドレフィス大尉が位階を剥奪されて、南米ギアナの悪魔島に流刑になり、フランス中にユダヤ人=(イコール)売国奴の大合唱が起こる。1898年にゾラが「われ弾劾す」の一文を書いて公然と軍部を中心とした陰謀を糾弾。国論を支持派、反ドレフィス派に二分したが、無罪確定したのは1906年の事である。ユダヤ人達が必ずしもドレフィス支持派となったとは言い難く、自分達の身を守るために自分達よりも当時下層とされていたユダヤ人達を攻撃する事態も多くあったのである。

 

4.同性愛

当時同性愛はタブーで、最も罪深い事とされていた。典型的な同性愛者として、ゲルマント公爵夫人オリアーヌの叔父シャルリス男爵が登場しているが、彼は金もあり、身分も高く、高い教養もあり社交界で絶大な権威を誇っていた。ゲルマン家のサロンの常連であり美男ではあるが、酷薄な性格のヴァイオリニストのモレルを愛人としていた。そのモレルにも捨てられて尚快楽を求めて、自分の身体をベットの縛り付けさせて鞭で若い男に打たせて血まみれになりながら快楽に浸る老いたシャルリス。しかしまた晋仏戦争に突入すると国を挙げて戦争に協力しドイツ憎しが、フランス中を覆う中で、この風潮を嘲笑し嫌悪する知的な人物でもある。同性愛者はゲルマント公爵も夫人の甥のサン・ルーも同じ性癖を有しており、マルセルの愛人アルベルチーヌも同じである。

 

5.嘘

アルベルチーヌとパリのアパートで同棲を始めたマルセルは彼女の嘘に悩まされる。また彼女の同性愛にも疑いを持ち嫉妬に苦しむ。そして彼女を部屋に閉じ込めるのだ。

彼は彼女と別れる決意をするが、アルベルチーヌはある日突然置き手紙をして家を出る。彼女は叔母の家に身を寄せていたが落馬して命を落とす。その後彼女の素行を知ったマルセルはすでに亡くなった彼女の同性愛に苦しめられる。

 

プルーストはアルベルチーヌを特別な嘘つきとして描いてはいない。善意である事の為にも、日常生活を円滑進める為にも嘘をつくものなのだと思い知らされる。プルーストは人間を描いているのだ。

 

6.見出された時

マルセルはこれらの経験を踏まえて、また記憶の持つ役割も見定めて、文学に取り組む決意をする。プルーストは子供の頃の柔らかい感覚や等しく誰もが持っている夢や無意識下の出来事の思い出を描き出して壮大な全体小説を作り出したのである。

 

日本の文学者で最もプルーストの影響を受けたと思われる作家に中村真一郎がいる。

5部作の第一部「死の影の下に」を1944年の春に起稿し、第二部「シオンの娘達」を1945年の夏から翌年にわたって書きあげている。

主人公の城栄が父の死に「永い間の苦しい不安から今こそ決定的に開放されたという利己的な喜びに興奮する」場面、また「想い出と云うものはそれが自発的にこちらの心の闇の底に或る神秘的な動機によって眼覚めたのでなければ何らの感慨を呼び起こさない」等はプルーストに強い影響を受けている事を明らかに示している。

中村は多くの日本国民が戦勝気分に浮かれている中で、既に1942年に加藤周一、福永武彦達と「マチネ・ポエティク」を結成し、また「世上乱逆追討、耳に満つと雖も、之を注せず、紅旗征戎吾事に非ず」とばかり、この「死の影の下に」をプルーストの強い影響下のもとに制作を開始していたのである。徹底した平和主義者の中村の面目躍如たるものがある。

 

2022年

7月

03日

作品紹介 木彫り、絵画      2022年7月3日

牡丹と燕子花

詠物の詩  口ずさむ  牡丹哉      蕪村  作 

 

大津絵 鬼の念佛

近江国大津の追分 三井寺辺で生まれた民衆絵画 元禄の頃から戯画風のものが登場

鬼の念佛、藤娘、瓢箪鯰等がある。

 

兜と具足

 

牡 丹

我庭の牡丹は毎年真紅、桃、黄色、白 と120本程  大輪の花をつける。これは2021年4月に咲いた桃色の牡丹である。

2022年

7月

03日

幻の『陶貨』について     2022年7月3日

一銭陶貨 裏 (未完成品)

一銭陶貨 表(未完成品)


2022年7月3日の日経の春秋欄に、日本銀行や造幣局の博物館で陶貨の展示を見たことがあるとして、太平洋戦争末期の1945年につくられたという。

様々な金属が軍需品にあてられてしまった故である。国威に係わるとして一般には流通せず、大半が粉砕されたそうだ。とある。

 

実は50年程前になろうか、京都に旅行した際にある骨董屋の店頭でこれを見つけて購入している。千円程の値がついていたと思う。年号は入っていないが、昭和20年に試作された1銭陶貨であった。店主の説明では京都で製造され、総て粉砕されたが一部残ったものであると。調べてみると、この一銭陶貨は1945年(昭和20年)に佐賀県有田町・協和新興器有限会社及び京都、瀬戸にて製造されたもので、直径15㎜、その品質は三間坂粘土60%、泉山石5%、赤目粘土⒖%、その他10%である。

その他に2種類の陶貨が試作されており、同じく1945年に10銭21.9㎜、5銭18㎜ があり、いずれも未発行で破砕されている。 

2022年

7月

01日

E. H. カーの「歴史とは何か」1961年初版   2022年7月1日

E.H. カーの「歴史とは何か」 1961年初版

① 岩波新書が発行されて今日に至るまで、最も評価の高い本が 1位「歴史とは何か」で2位は丸山眞男の「日本の思想」である。

 

② E.H. カーは「歴史とは歴史家の経験である。歴史をつくるのは歴史家以外のだれでもない。歴史を書くという行為だけが歴史を作るのである」

「歴史家とその事実のあいだの相互作用の絶え間ないプロセスであり、現在と過去のあいだの終りのない対話なのです」

「科学とは一方で『多様性と複雑さに向かって』、他方では『統性と単純さに向って』同時に進歩していると指摘したうえで、この二方向で矛盾して見えるプロセスこそ○の必要条件なのだ。「科学におけるあらゆる進歩とは、始めに一つと見えた生の状態からさらに論理学でいう前件と後件の大きな分化へと、そしてますます広範囲の前件が関連しているのだという認識へと私達を連えて行くものである。」

「文明の没落とかいうお話のすべてはじつのところ何を意味しているのかと云うと、昔の大学教授は家事使用人を雇っていたが、今や自分で台所に立って洗い物をしているというにすぎない」

「歴史家は勝利した諸力を前面に引き出し、敗北した諸力を後方に押しやる事によって現存の秩序に必然といった容貌を○える。」等のまことに示唆に富んだ発言を多く述べている。又ギボンの「ローマ帝国の衰亡」という重いテーマにも動じることなく、彼の自説「すなわち世界のあらゆる時代は人類の本当の富、幸福、知識をあるいはまた美徳をも増進させてきたし、これからもなお、増進させるもであるという愉快な結論」をしっかり記したのだ。進歩の崇拝はイギリスの繁栄、権力、自信が高みにあったときに絶頂に達した。そしてイギリスの文筆家や歴史家は、この崇拝のもっとも熱心な唱道者であったのです。とヨーロッパで第二次大戦まで人類の歴史は進歩の歴史であるという確信がギボンの文章にも良くみえる。

E.H. カーは歴史について実に様々な考察を行い、私達を多方面に誘う。ユーモアを交えた語り口は実に楽しく、知的興味を呼び起して尽きることがない。

 

2022年

6月

27日

映画『山猫』1963年 ルキノ・ヴィスコンティ監督作  2022年6月23日

映画「山猫」1963年  ルキノ・ヴィスコンティ監督作品 

 

1860年シチリアに上陸したガルバルディの軍隊はシチリア王国の首都パレルモを解放し、イタリア王国が成立した。主人公はシチリアの名門ファブリッィオ・ディ・サリーナ公爵が将来を託す甥のタンクレディは解放軍に加わり、解放後はガルバルディ軍を離れて復活した王軍支配下に入り、新議会の下院議員を目指す野心家である。彼はサリーナの娘と結婚する予定であったが、平民の娘アンジェリカに夢中となる。サリーナは甥の野心の実現には娘の財産では到底足りないとして、平民あがりの貴族で俗物男の娘を金の為に結婚の許可を父親に頼み込む。大貴族のサリーナは戦争中と雖も自己の行動スタイルは変える事なく一族を引き連れて別荘に出掛ける。馬車による一大行列である。非常線も何のその、世の中はどうかわっても我々の生活は何も変わらないと豪語する。

サリーナ邸に常駐する神父は人々に貴族の考え方は我々にも到底理解できないととして「私達にはどうでも良いと思われる事にも強いこだわりを持っているかと思えば、こんな重大な事と思える事にでも重きをおかない等、計り知ることが出来ないと語る」革命後の新政権から貴族院議員を要請されるがこれを拒絶する。我々は元々は山猫かライオンであった。我々のあとは多分ジャッカルが引きつぐ事だろう」と華麗な舞踏会の夜、彼は自分達の時代が終わった事をしみじみと感ずるのであった。3時間を超える大作である。

 

サリーナをバートラン・カスター、タンクレディをアラン・ドロン、アンジェリカをクラウディア・カルディナーレが演じており、ランカスターの大貴族の演技は相当なものであった。大貴族の日常的に行われる様々な形式的行事や毎夜のように催される舞踏会、大邸宅は自分でも開いたことのない多くの部屋が存在しており、この絢爛たる大貴族の生活振りがこれでもか展開されており、ヴィスコンティ以外では作ることの不可能な世界も描き出している。

 

本人自身が大貴族であり、イタリア共産党の創立者アントニオ・グラムシとも考え方を共有していたヴィスコンティはファシスト警察に監視されながらパルチザンの運動に挺身。警察に狙われた人々を自分の広い別荘にかくまうのが彼の仕事であり、又国境を越える援助もしていたが、ついにファシストに捕まり収容所に入れられ、銃殺が決まった。ファシスト達は彼をドイツ軍に引き渡して銃殺を依頼する事したが警察の一部が彼を助け出すことに成功し、病院に身を隠して連合軍の到着で助け出された。

 

イタリア映画人の多くがこうした経験をしており、イタリア・ネオ・リアリズムの作品群がこうして生まれたのである。ヴィスコンティ伯爵はコミュニストとして作品作りに参加していったのである。

革命の必要性を主張しながら一方ではお互い貴族に共感するヴィスコンティの内部の矛盾をこの作品は良く表わしている。イタリア共産党のこの意識は共産党の党首だったヴェリングェルも貴族出身で国民から絶大な支持を得ていたが、ヴィスコンティと共通するところがあったのであろう。

 

2022年

6月

25日

日本共産党について思うこと     2022年6月25日

 日本共産党について思うこと        2022年6月25日

                                                        

1.はじめに

1970年代に入って日本共産党が掲げる「民主連合政府」構想は明らかにレーニンの主張とは大きく異なってきた。その後の革命路線は唯々選挙に勝つことに特化していくようにみえた。

 

2.日本共産党の創立と潰滅

1922年7月15日 日本共産党創立として、平和で民主的な日本をつくりあげることを当面の目標としてたたかったとしているが、実は独自の組織ではなく、世界で初めて社会主義革命を成功させたソ連の国際部とも云うべき、世界の社会主義化を目的としたコミンテルンの日本支部として結成されたもので、その政策から人事、運動資金に至るまですべてに亘ってコミンテルンの支配下に置かれていた。しかし労働運動にも大衆運動にも全くその基盤がなく、ましてや政治活動にも経験が乏しかった。日本共産党は1927年の3・15事件、1929年の4・16事件により、又雪崩を打っての幹部以下の党員転向によって肝心の階級闘争の本番前に組織は壊滅し、革命政党としては全く機能しないまゝに権力に敗退してしまったのである。しかし日本共産党の2020年1月18日の綱領では戦前の党の闘いについて「他の総ての政党が侵略と戦争、反動の流れに合流するなかで、日本共産党が平和と民主主義の旗を掲げて不屈にたたかい続けたことは日本の平和と民主主義の事業にとって不滅の意義をもった」と手放しで自画自賛している。まことに能天気というか、おめでたいと云うべきである。

 

3.丸山眞男による批判 

丸山談「ここで敢えて取りあげようとするのは個人の道徳的責任ではなく、前衛政党としての、あるいはその指導者としての政治的責任の問題である。ところが不思議なことに、ほかならぬコミュニスト自身の発想において、この問題の区別が、しばしば混乱し、明白に政治的指導者の次元で追求されるべき問題が、いつの間にか、共産党員の奮闘力闘振りに解消されてしまうことが少なくない。つまり当面の問いは共産党はそもそもファシズムとの戦いに勝ったか、負けたかということなのだ。

政治的責任は峻厳な結果責任であり、しかもファシズムと帝国主義に関して共産党の立場は一般大衆と違って、単なる被害者でもなけれは、況や傍観者でもなく、まさに最も能動的な政治的敵手である。この闘いに敗れたことと、日本の戦争突入とはまさか無関係ではあるまい。敗軍の将はたとえ彼自身いかに最後まで踏み止まったとしても、依然として敗軍の将であり、敵の砲撃の予想外の熾烈さや、その手口の残忍さや味方の陣営の裏切りをもって指揮官としての責任をのがれることは出来ない。戦略と戦術はまさにそうした一切の要素の見透しの上に立てられる筈のものだからである。もしそれを過酷な要求だというならば、はじめから前衛党の看板など掲げぬ方がいい。」と直言している。当然の指摘と言えよう。

 

4.日本共産党の理論の変遷

1961年7月の第8回大会で採択された日本共産党綱領では「労働者階級をマルクス・レーニン主義とプロレタリア国際主義でかため、国会を反動支配から、人民に奉仕する道具にかえ、革命の条件をさらに有利にすることが出来る」としている。

更に「プロレタリアート独裁の確立、生産主段の社会化、社会主義的な計画経済にすゝむ」としている。

しかし1951年8月の綱領では「日本の解放と民主主義的変革を平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」と明記している。暴力革命不可避論である。

この決定的違いを、一体何を根拠として変更したのかを一切説明していないのだ。

1961年綱領で暴力革命を放棄し、議会主義に転じた党は1970年の11月大会で「党はマルクス・レーニン主義を行動の指針とする」から「理論的基礎とする」と、レーニン主義の暴力革命不可避論から距離を置き、ついにはマルクス・レーニン主義を放棄し、「科学的社会主義の理論」と云う訳の分からぬものにすりかえたのである。

尚レーニンは「国家と革命」の中で「プロレタリアートはまずブルジョワの支配下で行われる選挙で過半数を獲得しなければならない。しかる後にはじめて支配しようとする事が出来るなどと考えるのはペテン師か白痴だけだ。われわれはこれと反対にプロレタリアートは先ずブルジョアジーを打倒し、権力を手中に納め、それから労働者の多数の共感を得るようなやり方で、この権力、すなわちプロレタリアートの独裁を自己の道具として使用せねばならないと主張する」と述べている。つまり資本主義的経済構造の上には、資本主義的な政治制度、法律体系がのっており、下部構造の変化が上部構造を変化させるのであるとの社会科学の常識からしてレーニンの主張はむしろ当然と云えるのだ。

日本共産党の理論の変遷は暴力革命とプロレタリアートの独裁をなし崩しに変更しようとする、まことに姑息な手段と云うべきである。日本共産党はレーニンの云うペテン師か白痴だけが考えるやり方に移行したのである。

 

5.ソ連を始めとした東欧社会主義の崩壊

2020年1月18日に採択された日本共産党綱領によれば1989年~91年に起ったソ連、東欧の支配体制の崩壊について「レーニン死後スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義、専制主義の道を進んだ。「社会主義」の看板を掲げて行われただけに、これらの誤りが、世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響はとりわけ重大であった。(中略)これは社会主義の道から離れ去った覇権主義と官僚主義、専制主義の破産であったと」総括している。又1966年に始まり10年続いた中国の文化大革命についても「赤旗」に長文の論文が掲載されて「これは毛沢東一派の奪権闘争である」と結論づけている。つまり、いずれも事実はその通りであったとしても、何故この暴走を止める事が出来なかったか、それを許した社会制度、全くチェック機構がなかったのか又はあっても働かなかったのか、社会制度そのものに原因があったのかを明らかにするのが、科学的社会主義の理論で武装( 科学的社会主義の理論そのものがあるかどうかも不確かであるが )した日本共産党の役割ではなかったのか。もし、指導者が悪かったからの人的原因を理由としたならば、日本共産党が権力を握ったあと、同じ誤まちを冒さない保証はどこにもないからだ。

 

6.民主集中制について

日本共産党が大きく変貌する中で唯一変わらないものがる。それは組織原則の中心 民主集中制である。

中央集権制はそもそも軍隊組織の要であり、敵と戦う際、その作戦をその都度、民主主義に則り討議にかけて決定していたのでは戦えないのは当然であり、上位下達が必然的に要求される最高責任者の命令が絶対なのだ。階級闘争前戦で闘う革命政党にとっても不可避の体制であり、かつ敵から自己の組織を守る為に党員各自が自己の所属する組織以外の連絡は禁止されている。本来革命が成就した時点で解消されるべき体制である。

現在の日本は問題はあっても一応民主主義が保証されていて、党の集中制は害の方がはるかに多いとみられるが何故か党はこれを手放さない。

1977年9月号の「現代と思想」に田口富久治 名古屋大学教授(当時)の論文がある。

「先進国革命と前衛政党組織論」である。

ここでは当時「民主集中制」が今日の発達した資本主義国の共産党のあり方をめぐって一つの鋭い争点を為しているとして、共産党のもっとも基本的な組織原則とされている民主集中制を取り上げている。1800年代からドイツ社会民主党等のヨーロッパの多くの社会主義政党が党委員会の独裁を可能なかぎり防止する為に統制委員会等を設置し、党委員会の執務遂行を監督する、等の党内民主主義の制度的保証を採っている。(探る)

しかし日本共産党は第7回大会で、中央統制監査委員会を中央委員と並ぶ大会選出機関としていたが、第10回大会では統制委員は中央委員会が任命する統制委員によって構成されると変更した。

それは中央委員会の指導のもとに統一して行うほうが党建設の為に効果的であるからとした。中央委員会を掣肘する勢力を削ぐ方針をとったのである。これは実質的には党執行部の自己責任、つまり政治学の常識でいえば「無責任」に陥る危険がないかと云うことである。

1920年8月6日 共産主義インターナショナル第2回大会で採択された加入条件第12条に「共産主義インターナショナルに所属する党は「中央集権制」の原則に基いて建設されなければならないとし、現在のような激しい内乱の時期には党がもっとも中央集権的に組織され、軍事的規律に近い鉄の規則が必要であるとしているが、レーニンは同じ論文で「政治的自由の行われている国々では党組織において第一に完全な公開性「しかもその組織の成員だけにかぎらない「公開性」を自明のこととして承認している。

民主集中制の原則はやがて政敵ないし異端を党内から排除し、党指導部というよりも、書記長スターリンの絶対的支配を確保するように転化していったと論じている。

田口富久治の論文が「現代と思想」誌に発表されるやいなや、民主集中制の危険という逆鱗に触れたか、日本共産党は「前衛」誌にヒステリックで猛烈、執拗な反論を展開。共産党に対する批判は許さないとばかりの激しさであった。これによって田口の政治に関する論文の掲載は無くなっていったのである。

又、当時の党副委員長 上田耕一郎は現代における前衛組織で「選挙制と報告制とだけでは党内民主主義を充分に保証することは難しい。とくに党組織が巨大になればなるほど、指導部に少人数の強度に中央集権化された幹部組織が固定化する傾向が増大する」と危惧の念を表明している事が、注目すべき発言である。

 

7.ローザ・ルクセンブルグの批判

レーニンの民主集中制に当時共産主義運動の中心であったドイツ社会民主党の指導者の一人ローザ・ルクセンブルグは民主集中制をレーニンに反対し、党中央だけが考え、決定を下し、残りはそれに盲従することになると厳しく批判した。更に2,3ダースの党指導者が指導し、支配し、実際にはその中の1ダースほどの人達が指導し、そして労働者の代表は時折会議に召集されて指導者の演説に拍手を送り、提出された決議に満場一致で賛成することになると予言していた。

 

8.「寡頭制の鉄則」論

ロベルト・ミヒェルス(1876~1936)

「官僚制支配においては、上層部が命令権をもち下層の構成員は上の決定に従うように仕向けられる。極めて民主的な組織であったとしても、時がたてば少数者による寡頭制支配に移行する傾向は避けられない」という寡頭制の鉄則論を展開している。

ミヒェルスは1902年ドイツ社会民主党に入り、フランスのサンジカリズム運動や、イタリアの社会党に参加して社会活動に参加したが、やがて政治活動から手を引いて研究に専念。「現代民主主義における政党の社会学」を著し、徹底的民主化を目ざす革命的組織であれ、組織の拡大につれて必然的に官僚化し、少数者の支配にならざるを得ないと主張している。

 

9.日本共産党の民主集中制の現実

私の知るかぎり地区委員会では党大会の決議案が「赤旗」に発表されるとき、各選挙の時期、地区委員の改選の時期等に地区委員会が開催される。各支部からは人員数に比例する代表がこれに召集される。選挙以外の行事は型通りの委員長の報告と参加者の全会一致の賛成で決定される。委員の選挙は一応立候補も認められるが決意表明も政策発表もなく、当選の可能性は100%無い。委員の候補は地区委員会から推選され、候補の個人の何たるかも分からないまゝ投票が求められる。白紙委任状である。もし一票でも反対票があれば、あたかも反党分子が混入していたかの如く、遺憾の表明が選管からされるのである。決議案に反対しようとしても、例えば支部で反対するとしても、地区委員会で阻止されることはもとより、反党分子の集まりとみなされる。されば他の組織と意見を交換しようとしても規約で禁止されており、党中央に意見を表明する事は事実上出来ないシステムが構築されているのだ。

 

10.民主集中制の典型

1964年の 4.17ストをめぐる共産党の対処にみる事が出来る。常に熱心なスト推進派であった共産党がスト一週間前に突然このストライキは権力の挑発であるとしてストに反対する論陣を張って、我々を驚かせた。しかし病気療養中(ルーマニアであったか)で海外に居た宮本委員長が帰国するや「赤旗」に長文の論文を発表「4.17ストと当面する労働運動の諸問題」で中央委員会の決定を誤りだと指摘、この決定を撤回した。数十名の党中央員の面々は、いずれも一騎当千の理論家のつわもの揃いで彼等が衆知を集め、当然権力の動向の逐一も情報を集約して決定した事は明らかであったと思われる。それが宮本委員長の意見によってこうも簡単に覆えされてしまうとは、多分人事権も握った絶対権力者の宮本委員長に忖度したとしか思われない。田口論文にみる民主集中制は結局、一人の独裁者を生むこと、意見の異なる者は排除して行く事は、過去多くの反対意見を有する人々が反党分子として党から放遂されていったのである。一たん権力を握ると余程の事ないかぎり地位は安泰、権力は一層強まって、独裁者を生む必然性が高くなるのは明らかである。

民主集中制を手放さないの真の理由もそこにあるのではと思われる。

 

11.一方で27万人とも云われる一般党員は党を信じ、真面目で、正義感に溢れ、意志が強い人達が多い。

半植民地化となっている日本を憂い、沖縄の現状を怒り、原発に反対し、政府の横暴を糾弾し、日本の社会を真の独立と平和な国にしたいと念ずる人ばかりである。原発反対のデモに参加するが、参加者の多くが昔からの党員で活動してきたと思われる中高年の婦人が多い。共産党はこのような党員に支えられて、現実路線をとり、政策もその反映でもあるのだ。その点で農業を捨て、食料の自給の道を放棄し、エネルギー改革に目を背けて化石燃料と原発に依存する環境破壊の道をすゝみ、公文書偽造、破毀と前代未聞の暴挙を行う自民党の反国民的な政治に唯一対抗している事もまた事実である。その事からも共産党が民主集中制の組織原則を止め、開かれた政党になる事を切に望みたい。(完)

 

2022年

6月

18日

作品紹介 書 蘇東波 二題 2022年6月18 日

一、望海樓晩景 五絶 蘇東坡

青山断ゆる処 搭層層たり

岸を隔つる人家 喚ベば応えんと欲す

江上の秋風 晩来 急なり

為に鐘鼓を伝えて西興に致る

  

二、 蘇東坡

読書万巻なれども律を読まざれば

君を堯 舜に致す事 術無きを知る

農を勧むる冠蓋は閙がしきこと雲の如く

老を送る韲塩は甘きこと密に似たり

虀塩は甘きこと密に似たり

門前万事眼に掛けず

頭は長しえに低ると雖も気は屈せず  

 

2022年

6月

17日

作品紹介 刻(絵) 四題  2022年6月17日

戦国時代 瓦当文 

 

旧 石器時代

2022年

6月

15日

「破船」 吉村 昭   2022年6月15日

 

『 波打ち際に古びた菅笠が所々に動いている。

岩礁のつづく遠い岸に砕けた飛沫があがると次々に飛沫が近づき、伊作の立つ岸の海水もにわかにふくれ上がって岩に突撃すると散った。』

 

  で始まるこの作品はたちまち吉村の世界に我々を誘い込む。焦点を当てられているのは父が3年契約でうられており、残る母と伊作、弟の磯吉、妹のてる、かねの4人である。

貧しい漁村で作物も殆んどとれない漁だけでは生活が出来ずに17戸のいずれの家でも男、女に拘らず何人かは金で売らねば生活が成り立っていかない。

小説の中心には「お船様」がおかれ、冬の海が荒れる頃に米を積んだ船の座礁を狙った夜の塩焼きが行われるし、米を中心に船に積まれた品々の略奪は村の幸福の為に欠くことができない。この事は村の秘密として厳格に守られている。

しかしある船の座礁は村に災厄をもたらす、天然痘だ。これが村を不幸のどん底に落とすのだ。いつの時代かは不明である。完全に封鎖された社会の中で、個人の生活は村社会と一体化しており、生き延びていく上での協力、共同は不可欠であり個人の秘密などは存在しない。自分達の略奪行為に怯えながらもそれを頼りにせずには生きていかれないのだ。

 

極力余分な文章を一切拝した乾いた文体はここでも吉村昭の特徴を良く表しており、心情的な表現は切り捨てゝいる事で登場人物の現実をよりよく表している。

いつも文章はこうありたいと思わせる文体である。

2022年

5月

15日

第30回記念 葛飾の美術家展始まる 2022年5月15日

会期 2022年5月13日(金)~ 22日(日)10時~18時(最終日17時迄)

会場 葛飾シンフォニーヒルズ 本館2F 

 

 葛飾美術会の歴史は1986年(昭和61年)9月 第1回 私の葛飾美術展~(1991年 第5回)。1991年(平成3年) 葛飾美術会結成。1992年「葛飾シンフォニーヒルズ」の落成を祝い 第1回葛飾の美術家展開催。以後毎年シンフォニーヒルズにて開催されてきた。(2020年のみ新型コロナ禍により延期)今年2022年第30回を迎えた。

(第30回記念号冊子より)

和田大諷(克巳)出展作品

東大寺 戒壇院 四天王の内

広目天立像 

2022年

4月

21日

「鷲は飛び立った」 作 ジャック・ヒギンス 2022年4月21日

「鷲は飛び立った」  ジャック・ヒギンズ 作

1975年発表した「鷲は舞い下りた」から15年、満を持して書かれた「鷲は飛びっ立った」は前作でイギリスからチャーチルを拉致するという総統の特命を実行すべくクルト・シュタイナー中佐を中心としたチームが成功寸前にある理由から失敗し、シュタイナー中佐は死亡する。生存者はリーアム・デブリン唯一人。

 

今作では死んだと思われていたシュタイナー中佐が、負傷して捕虜となりロンドン塔に収容されている事が判明、しかも近いうちに身柄をセントメリー修道院に移すという。

ヒトラーの思いついたことの一つが「ドイツ帝国の英雄をイギリス人に捕らえられては放ってはおけない、これを奪還する」というもので、それもヒトラーは2,3日もすれば忘れてしまうが、ヒムラ―は政敵アブヴェールの長官カナリス提督を追い落とすために実行を強要する。この仕事はナチス親衛隊秘密情報部の将軍ヴァルター・シェレンベルグ少将に廻ってくる。シェレンベルグは述懐する。「総督の愚かな考えによって我々はスターリングラードで30万人以上の戦死者を出した。24人の将官を含めて9万1千人が捕虜となり、総統のおかげで次々と失敗が重なって行く」と。また第三帝国をお粗末な喜劇と認識し、ヒトラーと取り巻きを非常に程度の低い役者とみなしており、自分をナチスの一員とは考えてはいない。しかし総統の命令は絶対であり、その実行の為に、欠かすことのできない人物それがアイルランドのIRAメンバー リーアム・デブリンであった。デブリンは3万ポンドでこの仕事を引き受ける。チャーチル拉致で仕事を共にシュタイナー中佐を助ける為だ。デブリンは協力者を選択し、計画をすゝめるのだ。

 

ここからスリルに満ちた活躍が始まる。デブリンの活躍はさながらジェームス・ボンドである。更に凄腕のアメリカ人パイロット エイサ・ヴォーン、デブリンの友人と妹メリィ、イギリス男爵マックスウエル・ショウ、妹ラヴイニア、武器を調達する為に拘わり合ったギャング ジャック・カーヴァー、弟のエリック等々。仲々魅力的な人物が交錯する。果してシュタイナー中佐の奪回はなるのか・・・・。

 

2022年

4月

11日

銀座鳩居堂 和田大諷「金泥の世界」展 4月5日~10日 写真集

2022年

4月

04日

書 及び 塑像(1~9)         2022/2/24

1.源氏物語 桐壺の一節     作品の大きさ 47ⅹ28㎝

いずれの御時にか女御更 / 衣あまたさぶらいける中 

に いとやんごとなき / 際にはあらぬ   

がすぐれて時めきたまふあり / けり、 はじめより我はと

思ひあがりたまえる御方々、めざま  / しきものにおとしめそ 

ねみたまふ。同じ  /  ほど、それより下臈の更衣たちは、 

ましてやすからず 朝夕の  / 宮仕えにつけて

も、人の心をのみ動かし、恨み / を負ふつもりにやありけん  

いとあつしくなり /  ゆき、もの心細いげに 

里がちなるを、いといよいよあかず  / あわれなるものに思ほして

人のそしりをも憚ら  /  せたまわず。 

 

2.普門経  径25偈  作品の大きさ  80 x 30㎝

 

3.蘭亭序  

 

4.李白詩  五言古詩

春日酔起言志

處世若大夢 胡為労其生 所以終日酔 /  頽然臥前楹 覚来眄庭前 一鳥花間鳴

借間此何時 春風語流鴬 感之欲嘆息 /  對酒還自傾 浩歌待明月 曲儘已忘情

楹(エイ) 楹(ナガ)むれば

 

5. 般若心経ー1 2-521 

般若経の心髄を簡潔に説いた経典。最も流布しているのは唐の玄奘訳に二文字を付加した262文字から成るもの。 摩訶般若波羅蜜多心経

 

6.  般若心経-2 2-256

 

7.誕生仏(塑像を作った上に金泥で仕上げたもの)作品の大きさ14㎝ 4-431

 

8.如来像(塑像を作った上に金泥で仕上げたもの)作品の大きさ 7㎝  4-430

 

7.遊女  

遊君、遊女はもと神につかえるものであった。

桜咲くや 帯買う室の 遊女かな

2022年

4月

04日

刻字 (1~19)     2022/1/30 

1. 交以淡成 - 1  15 x 30cm    漢魏六朝  郭璞     2-113

言以忘得 交以淡成 

言説は忘れて得られ 交際は淡泊をもって成るのである。

 

2.龢     20 x 30㎝    2-116

声符は禾(ヵ)、 龠(ャク)は笛  楽音のととのうことを云う

龢(ヤク)も禾(カ)に従う形であるがその禾は軍門の意でなく、もと農耕に関しその儀礼に笛を用いたのであろう。

 

3.言必有防 30 x 54㎝  漢魏六朝 徐幹 2-278

行必有検 言必有防

行為には必ずつゝしんで妄りにせず。言語には必ず用心する所ありて、でたらめにせぬ。

 

4. 月以表我心  17 x 60cm   元代 劉詵 2-868 

月以表我心 澗以明我徳  

くもりなき月光はわが心をあらわすもので 谷川の水の清きは我が善行を明らかにする。

 

5.24寿 65 x 25㎝   2-861

篆書 24文字 

 

6. 無疆福  30 x 60㎝   唐代  李商隠 (リショウイン)2-864

かぎりなき幸福。

 

7.遊星 12 x 17㎝   2-867

惑星のこと。比喩的に実力が未知ながらも有力とみなされる人を云う。

 

8.春雨 37 x 19㎝    2-865

春降る雨、特に若芽の出る頃 静かに降る細かい雨

万葉集に「春雨に燃えし柳か 梅の花 ともに後れぬ 常の物かも」がある。

大伴宿称 書持作 

 

9. 曹全碑  70 x 30㎝  2-871

曹全碑 漢代  (金 泥)

隷書は秦の程邈(テイバク)が小篆の繁雑さを省いて作ったものとされ、漢代に装飾的になる。隷書は漢代に絢爛たる一時代を築くが、その掉尾を飾ったのがこの曹全碑である。

曹全碑は万歴(16世紀)の初めに出土したもので当初は傷みが少なかったが、業者が拓本を取ったあとに傷を意図的につけていった為に傷みがひどくなって行った。本文は849字である。曹全はあざなを景完といい、やがて孝廉(コウレン)に挙げられ郎中の官に叙せられ、西域戊部司馬を拝した。黄巾の乱に際して選ばれて郃陽令を拝し動乱を収拾、そこで群僚たちがその高徳を表彰するために、その功績を石に刻したのがこの碑である。しかし漢帝国の滅亡に際し、急拠この碑は埋められた。 

 

10.  寿 30 x 70㎝    2-938

豊穣を祈る字で祷(トウ)の初文。金文に「眉寿無期」のような語がある。

 

11.  瀧 25 x 100㎝   2-937 

万葉集に「雨零(フ)れば瀧(タギ)つ山川」のように云う。説文には雨の降るさまを云う

 

12.新月一鉤 60 x 17㎝ 明  呉子和       2-869

荷香十里 新月一鉤

蓮の花は十里も続いて香気を放ち 三日月は一箇の鉤をかけている 

 

13.龢(ヮ) 2-866      

 

14. 寿 11 x 16㎝    2-939

 

15.戦国時代 瓦当文   4-437 

文 長楽無極 興天無極 

幾久しきたのしみがいつまでもつきぬ

物事の永久につきぬのを祝う語 

 

16. 交以淡成 -2   x  cm    漢魏六朝  郭璞   4-438

言以忘得 交以淡成 

言説は忘れて得られ 交際は淡泊をもって成るのである。

 

17.誠 堅  作品の大きさ 45 x 20㎝  4-427

物事に誠実に対処し、堅い信念を有している。

 

18.  桂隠 作品の大きさ 9 x 26㎝ 4-435

隠者を云う。

19. 遊 作品の大きさ  x  ㎝ 

 遊ぶものは神である。神のみが遊ぶことが出来た。遊びは絶対の自由と豊かな創造の世界である。それは神の世界に他ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。神と共にというよりも、神によりてというべきかもしれない。祝祭においてのみ許される荘厳の虚像と秩序をこえた狂気とは、神に近づき神とともに在ることの証であり、またその限られた場における祭祀者の特権である。

遊とは隠れた神の出遊をいうのが原義である。それは彷徨する神を意味した。

ー白川静 遊学論よりー

2022年

4月

03日

絵 その1 ( 1~15 )    2022年1月27日                      

一、称名寺 弥勒菩薩立像  作品の大きさ 62 ⅹ 90㎝  2-856 

称名寺は横浜市金沢区にある真言律宗の寺院で奈良西大寺の末寺。文永4年(1267年)北条実時の創建による。鎌倉幕府滅亡で衰退したが江戸時代家康の援助によって復興した。弥勒菩薩は菩薩形の弥勒に蓮華を執り、その華上に宝塔載せる。菩薩形と如来形の複合形をとっている。その唯一の彫像の遺例である。大型の宝髻を結い宝冠、胸飾、腕釧を付け両肩に垂髪を垂らし、衲衣を右肩に着し、さらに右肩に別の衣を懸ける。左手屈臂して蓮華を執り、その華上に宝塔を載せる。宝冠前面に3個の円相形を取り付けそのうち2個に化佛を付ける。これは過去佛としての釈迦、現在佛としての阿弥陀と推定され、本来の弥陀と合わせて過去、現在、未来の三世を表したものと云われる。本像の像内に建治2年(1276年)の墨書像あり。像内納入品の中に建治3年~弘安元年(1278年)11月の日付けが書かれている。 

称名寺 弥勒菩薩立像   62 ⅹ 90㎝ 

文 酒杯觸揆詩情動 

   書巻招邀病眼開      宋代 范名湖

       

 

二.聖林寺  十一面観音立像  作品の大きさ 30 x 44cm  2-841 

聖林寺は奈良桜井市にあり藤原鎌足の子 定恵の庵に始まるとつたえられるが、実際は江戸中期に文春が石造りの延命地蔵菩薩を安置したのが始まりである。本像は近くの大神神社の神宮寺 大御輪寺の本尊として祀られていたが、明治初年の廃仏毀釈の煽りを受けて縁の下に放置されていたが聖林寺が大八車に乗せて引き取ったと云われている。現在は聖林寺の宝物館の全面ガラス張りに納まっている。木心乾漆、漆箔の像で檜の一木彫刻の上に乾漆を盛り上げ全身に金箔を押して仕上げている。六重蓮華座の上に両足を揃えて直立する均整のとれた見事な天平佛である。(像の高さ 196.4㎝)張りのある豊かな顔、体の肉づき、衣文の起伏とゆったりと造られて、乾漆像特有の美しさを表わし、天平理想の具現像である。

聖林寺  十一面観音立像

文 吾道一以貫之哉  論語 

 

吾道一以貫之哉 曽子曰、唯 子出

門人問曰、何謂也、曽子曰、天子之道 忠怒而已矣 の一節   

 

三.慈恩寺 普賢菩薩    作品の大きさ 30  x  44㎝  2-849   

山形県寒河江市にある慈恩寺は神亀元年(724年)に行基が開山。平安時代後期天台宗を中心として、のちに真言宗、山岳修験道場等も入って、多くの宗派を併合した。本堂、釈迦堂、阿弥陀堂、薬師堂、三重塔等によって伽藍を構成している。本尊は弥勒菩薩、本堂営殿内には30数体が秘仏としておさめられている。この普賢菩薩は五葉松が使用され、平安時代の作である。法華経勧発品に説かれる佛であり、これに付属する10羅刹女は法華経を護持する存在である。この像には見事な截金など豊富な装飾がみられ、繊細な造形を待徴としている。尚10体の羅刹女のうち5体が現存している。 

慈恩寺 普賢菩薩

文 清帯山林気香来筆硯邊  

 

四.室町時代 九面観音  作品の大きさ 30 x 44㎝ 2-853       

室町時代に製造されたと思われる金銅佛で法隆寺の白檀一木造りの九面観音立像に酷似しており、多分模して造られたものであろう。風貌は童児形である。  

室町時代 九面観音  

 文 謙慎 漢書

 

五、醍醐寺 三宝院 弥勒菩薩     作品の大きさ  33 x  45cm  2-842 

醍醐寺は京都市伏見区醍醐にある真言宗醍醐派の総本山である。延喜7年(907年) 醍醐天皇によって創建。天暦(952年) 五重塔建立された。文明2年(1470年) 兵火によって五重塔を残して悉く焼失。秀吉によって再建される。弥勒菩薩は上醍醐岳東院の本尊でのち菩提寺 金剛輪寺に移されたあと三宝院の本尊となった。高い髻を結い、それが隠れるような高い五佛宝冠を被る。両肩に垂髪が懸かり、冠帯、胸飾り瓔珞(ヨウラク)などの装身具を付ける。両手で法界定印を結び、その掌上に五輪塔を載せている。建久3年(1192年)の秋後白河法皇の御料として醍醐寺の権僧正勝賢が如法にこの像を造立している。本像の像内に権僧正勝賢が願主となり建久3年8月5日から造り始め同年11月2日に供養し巧匠は快慶だったという旨の朱漆銘がある。木造金泥塗 截金、玉眼嵌入 運慶派の典型的な作品である。

醍醐寺 三宝院 弥勒菩薩      33 x  45cm   文 鳥啼簷角飛無定風剪林梢寒有声                                            竇遴寺

 

 

六.西提寺(サイダイジ) 菩薩立像 作品の大きさ 33 x 45cm  2-876

所在地は広島県尾道市向東町。明治5年(1872年)火災に遭い寺暦を知る手懸りを失っており本尊の詳細も分からない。この観音像は天暦5年(951年)の作であったが、盗難にあい一時所在不明であった。のちに発見され戻ってくる。寄木造りで唐風の影響を脱し和風へ移る時代である。焼損がみられ、火中にあったが辛うじて難をのがれたのであろう。盗賊に奪われた為、治安2年(1022年)仏師定願が1像を造って安置したが、その後本尊が戻った為に2像を安置することなった。 

文 辞賦文章純者 稀難者莫過詩  唐 社荀鶴  

 

七、聖林寺(ショウリンジ) 十一面観音立像 作品の大きさ 24 x 33cm  2-831

奈良県桜井市にある真言宗室生寺派の寺院。奈良大神神社の神宮寺第御輪寺に本尊として安置されていたが、明治初年の神仏混淆と廃仏毀釈処分によって縁の下に投げ込まれてあったが、聖林寺がこれを大八車に乗せて引き取ったと伝えられている。乾漆造り。一木造りの木彫の上に乾漆で仕上げられており、柔らかな表現で写実性を持たせている。7体ある国宝十一面観音の内の一体。乾漆作品のの頂点に立つ作品である。

  文 額田王 近江の国に下る時に詠んだ歌一首

 

八、宇治平等院  阿弥陀如来座像 作品の大きさ 33 x 37cm  2-844  

宇治市は宇治蓮華にある単立の寺院。1050年藤原頼道が寺として創建。阿弥陀如来像は平等中期の仏師で日本彫刻史上屈指の名工と謳われた定朝(ジョウチョウ)によって天喜元年(1053年)作成された。定朝晩年の作で寄木造り、漆箔を施し、定印を結ぶ。華麗な飛天の光背をもち、木造の天蓋の下、九重の台に座し円満な顔広く薄い胸法衣の衣文など貴族の趣味にあった和様彫刻の完成を示す名品である。定朝は仏師として初めて僧綱位の法橋に除せられている。

宇治平等院  阿弥陀如来座像      作品の大きさ 33 x 37cm

文 筆花開処墨花濃                    

                   清    戚 朝桂

 

九、 善光寺式 阿弥陀三尊像 脇侍 観音菩薩像 作品の大きさ  30 x 44cm 2-840    

長野の善光寺の秘仏本尊を模した像で、鎌倉時代の特筆すべき金銅仏、浄土宗の普及に伴って東国中心に全国でつくられた、光背一つに三尊が掛けられた一光三尊立像。中尊は手に印刀を結び、脇侍は丈の高い宝冠を戴き、両掌は胸前で合わせている。本像の腕は別鋳されて取り外し出来るようになっている。スイスのマリオン・ハマー氏の旧蔵品。

 善光寺式 阿弥陀三尊像 脇侍 観音菩薩像  作品の大きさ    30  x 44cm  

 文 冷暖自知  大慧

 

十、善光寺式 阿弥陀三尊像 脇侍 観音菩薩像 作品の大きさ 23 x 34cm  2-882         

仏像の説明はをご参考ください  

文 筆墨生涯成冷淡筍蔬盤鐉易経営 

 

十一、法隆寺 献納 48体仏 銅造菩薩半跏像 作品の大きさ  23 x 34cm  2-837     

小金銅佛は飛鳥時代に造られ始めた。平安時代までが最盛期である。その中心にいたのは止利仏師の一派であり、北魏の様式が百済、新羅を経由して日本に入ってきたのである。町の貴族達が病気の平癒を願い又、故人の菩提を弔うものが中心であった。

明治初年の神仏分離令から始まった廃仏毀釈によって、財政的に追い詰められた法隆寺は49具57躯からなる宝物を皇室に献納した。明治11年の事である。皇室から下賜されたのは当時の金額で1万円であった。昭和22年国有に帰し、1999年(平成11年)東京国立博物館の法隆寺宝物館が完成し小金銅仏48体が保管されている。以前は東洋館に天候の良い日に限って毎木曜日に公開されていたが、現在は新しい建物にかわって48体すべてプラスチックのケースに納められ、前後左右どこからも見ることができる。大きさは 30~40㎝以内が大半で、童顔、童形の誠に愛すべき姿が多い。  

法隆寺 献納 48体仏         作品の大きさ 23  x  34cm   

文 詩酒共為楽 竹梧相興清

 

十二、法隆寺献納 48体仏 銅造菩薩立像 15 x 22㎝  2-836    

文 学者如登山 六朝  徐幹

 

十三、慈恩寺 普賢菩薩 作品の大きさ  30 x 44㎝  2-881 

文 外適内知 体寧心恬  白楽天 

慈恩寺及び作品の説明はをご参考ください。

 

十四、室町時代 九面観音  作品の大きさ  30 x 44㎝  2-880

文 其言必信 其行必果 已諾必誠 不愛其軀   司馬遷 

九面観音についてはをご参考ください。

 

十五、誕生仏  作品の大きさ 30x40㎠ 10-33

文 虚心何慮同心少 敬事弥知處事難 清代 伊継善

2022年

4月

02日

絵 その2 (16~29) (2022年1月27日の続き)    2022/1/29

十六、東大寺三月堂の月光菩薩 206.8cm   作品の大きさ 26 x 74cm  7-81 

東大寺三月堂には本尊の不空羂索観音脇侍の日光、月光菩薩、四隅に四天王、二体の金剛力士、帝釈天、梵天と11体すべて国宝である。月光菩薩は大きな唐風の宝髻を柔らかく結いあげ、高貴な女性を思わせるふくよかな顔立ちをみせ、両指をかるく伸ばして合掌するしなやかな手先も的確で見事な表現である。胸高に花型の飾りや襟の縁取り帯など装飾も美しい。袖には朱地に菱形の截箔を散らす文様が残っている。上半身を覆う袍衣様の衣にはほとんど彩色の痕跡をとどめない。天平時代を代表する塑像である。

文 名飲豈須絲竹肉 清談無過画書詩 趙瓯北 

 

十七、新薬師寺の十二神将の内 伐折羅大将 (ハサラタイショウ) 作品の大きさ 56 x 83㎝  2-82

新薬師寺は奈良高畑町にある華厳宗の寺院。光明皇后が聖武天皇の病気平癒を祈願して建立したが、平安時代は衰微して興福寺の末寺となった。十二神将の大半は天平時代の塑像で十一体は国宝。残る波夷羅大将は昭和6年に補作されたものである。飛鳥園の創立者小川晴鴨が伐折羅大将の頭部に照明を当てて劇的に表現し、絵画的写真にしたことによって一躍人気となった。東大寺戒壇院の四天王像よりやゝ時代が下る作品で造形的にも精神性でもかなり見劣りするのは否めない。

文 竹陰覆几琴書潤  花気董窓筆硯香 

 

十八、善光寺式 阿弥陀三尊像  脇侍 観音像 作品の大きさ 26 x 74㎝  7-80

 文  春風輿酔向天涯 乗興何郷不我家

  此去芳山一千里 長亭楊柳短亭花        菅 茶山 

註 菅 茶山 :江戸時代は日本の漢詩の最盛期で、清朝の詩人性霊派の袁枚の影響のもあって多くの詩人を輩出した。菅茶山はその代表的人物で34才のとき私塾「黄葉夕陽村舎」を開いて子弟の教育に力を注ぐ傍ら詩作を続けた江戸後期の大詩人である。

延享5年(1748年)現広島県福山市神辺町に生れる。没年文政10年(1827年)10月3日。

 

十九、善光寺式 阿弥陀三尊像 脇侍 観音像 作品の大きさ  35 x 80㎝ 10-35

文 陽花落盡子規啼 闘道龍標過五渓

  我寄愁心與名月 隋風直到夜郎西

 

ニ十、東大寺 戒壇院 四天王の内 持国天立像 160.6㎝ 作品の大きさ 63 x 95㎝ 7-83  

四天王は1733年戒壇院が再建されると東大寺大仏殿から移されたと云われる。持国天は冑を被って、口をきっと結び目を見開いて立ち、外側の足で邪鬼の頭を踏み、内側の腕を曲げている。遙か彼方を見通すような深い眼差しで、怒りを内に秘めた節度ある控えめな表現であり、完成度の高い造形を作り出している。冑の両側につけられた翼形の飾りや、甲の細部を飾る金具類、両肩に装着した龍のモデリング等質感十分に造形されている。

文 硯日自古無荒歳 酒国於今憶往年  

 

二十一、東大寺 戒壇院 四天王の内 増長天立像 作品の大きさ 34 x 78㎝ 2-943 

文 不撓(フトウ)たわまない事(撓はたわむの意)  

 

二十ニ、東大寺 戒壇院 四天王の内 広目天立像 作品の大きさ 34 x 90㎝ 2-946

文 曝書(書物の虫干し)のうち一首

呼童発櫃満前除 颯颯風乾走蠧魚

巻内何年曽挿入 怱看亡友赫蹏書(カテイ)

 

二十三、東大寺 戒壇院 四天王の内 多聞天立像 作品の大きさ 36 x 90㎝  2-944

文 窓近花筆硯香  元代 黄庚

 

二十四、法隆寺 四天王の内 広目天立像 木造 133.3cm  作品の大きさ x  ㎝ 

日本最古の四天王像の一つである。

文 酒杯觸揆詩情動 書巻招激病眼開 宋代 范名湖

金堂内陣須弥壇上の西北隅に西面している。光背裏面に作者山口大口費(ヤマグチノオオグチノアタイ)の名が刻まれている。山口大口費について「書記」の白雉元年(650年)の条に詔を奉じて千仏像を刻んだとあるので7世紀半ばの作に間違いない。像は良質の樟材を用いた檀像で両袖、両沓、両足をふくみ、一本より彫刻されている。後の修補部はほとんどなく、保存状態は完好に近い。全面に薄く漆を塗った上に白土を下地とする彩色が施されている。当初は美しい極彩色に彩られたものであった。

 

 

二十五、法隆寺 四天王の内 多聞天立像 134.2cm   作品の大きさ 43 x 90cm  7-84

多聞天の光背裏面には「薬師徳保」を上位者として「鉄師マロ古」(註)と二人の作であると刻されている。クスノキの一木から丸彫されていて、直立の姿勢で肘を体にピタリとつけている。光背の覆輪につけられた忍冬唐草文様を透かし彫りにして銅製、渡金の金具、ことに宝冠金具の意匠は夢殿観音菩薩系に近い。(註)マロは司の字から 一と口を除いて手を挿入

文 竜盤虎踞帝王都  誰見当時職貢図

  祭祀千年周雅楽  朝廷一半漢名儒

  世情頻逐浮雲変  吾道長縣片月弧

  懐古終宵愁不寝  城鐘数杵起栖鳥      菅 茶山

       菅 茶山 については十八をご参考ください。 

 

二十六、法隆寺 橘夫人念持佛  33.3cm  金銅仏  作品の大きさ 22 x 37㎝  7-85 

光明皇后の母橘夫人(三千代)の念持仏であるという伝説は「古今目録抄」にすでに見えている。浄土の蓮池から生えでた蓮花の上に座す阿弥陀如来と脇侍は厨子に納められている。念持仏は七化佛を浮彫にした後屏を負い、浄土の世界を展開している。小金銅仏としての最高作品といえる。中尊の後頭部には流麗な透かし模様の円光を配し、その趣向は華麗の限りを尽くして貴人の要望に見事に応えている作品となっている。

 

二十七、室町時代 九面観音像   2-823  

文 処和 荘子 心身を平和の地おく

九面観音像の説明は「絵」 をご覧ください。

 

二十八.  遊神 文 窮探極覧 2-824

 

二十九、 法隆寺48体佛 

文 胆瓶花落硯池香  元代 許有王

2022年

3月

26日

『エレクトラー』 作 ソフォクレス 2022年3月19日

「エレクトラー」ソフォクレス作  2022年3月19日

「エレクトラー」は妻と従兄弟によって殺害されたアガメムノーンの長女エレクトラーを中心に据えてこの作品を描いている。作品の基本的な構成はオレステスがアポロンの神託を受けて従兄弟のピェラデースと共に実に7年振りに帰国。父アガメムノーンの墓に供養の髪の毛を捧げて後、姉エレクトラーと再会、虚偽の報せなどの計略を用いてクリェタイメストラーとアイギストスを殺害し復讐を果たすというものである。

この作品に登場するエレクトラーの妹クリュートラミスは父を殺した母と権力を奪って王位に就いた情人アイギストスの前に屈伏して現実に妥協し豊かな生活を享受している。頑なに復讐心に燃える姉エレクトラーとの間に実りのない言い争いが続くことでエレクトラーの激しい復讐の念とその決意の固さが一層浮き彫りにされる。

父が殺害されてからのエレクトラーの執拗な非難を受け続けた母クリュタイメストラーと今や王となったアイギストスはエレクトラーに食事、衣類等召使以下とも思える非常な境遇に陥れる。エレクトラーにとって父の復讐の為には死をも恐れない激しいものであり、繰り返し行われる母との論争は娘イーピゲネィアの為の復讐を理由に自らの正当性を主張するクリュタイメストラーに対し、アイギストスとの密会こそが真の理由であると弾劾して母を圧倒する。またオレステスは帰国前から2名の殺害はすでに決意しており、姉の要請によって意思を固める事はない。彼の目標の第一は母クリュタイメストラーで、先ずは彼女を殺害しその後帰ってきたアイギストスに殺害された姿を見せた上にアイギストスをも殺害する。オレステスには些かも気持ちの動揺は見られない。物語はここで終わり、オレステスの親殺しに対する復讐の女神たちエリーニュエスも登場しない。

コロスの最後の朗詠。

おお  アトレウスの血を引く子よ、何と数多の苦難の果てについに自由の境涯へと辿りつかれた事か。今日のこの殊勲により見事その身を全うして、とあり母親への復讐は正義であるという立場に立っている。

注1)コロスは市民の女神から成っている。

注2)作者ソフォクレスはアテネ市 郊外裕福な家庭に育ち、90才まで創作活動を行い123編の作品があったと伝えられている。政治家としても活躍、高官職も歴任している。紀元前5世紀の人。

2022年

3月

16日

『アガメムノン』 アイスキュロス作    2022/3/16

「アガメムノン」   アイスキュロス作 

時はアルゴスの王アガメムノーンの居城で10年続いたトロイアーとの戦争でついにイーリオン陥落の日である。そもそもトロイアーとの戦争はスパルタ王メネラオスの王妃で絶世の美女ヘレネがトロイヤー王子パリスに奪い去られた事に起因し、ヘレネを奪回すべくメネラオスの兄アルゴスの王アガメムノーンを総大将として10年間の攻囲の後、トロイヤーが灰燼に帰した戦争である。スパルタ王女ヘレネを求めてギリシャ中から英雄が集まりヘレナが指名した婿に将来災難が起きた際にはすべての求婚者がその夫を援助することを誓い合った為に求婚者たちはこの戦争に参加したのである。絶世の美女とは云え尻軽女一人の為に甚大な被害とギリシャ全土に及ぼしたアガメムノーン兄弟に対する怨念の気分が、ギリシャ全土に存在していなかったとは云い難い。コロスは語る「あとに残るは顔を歪め、いつかは必ずと陰謀をめぐらすのは女主人、わが子の命の償いを行うまでの日を恨みを凝らす復讐の女神」とクリュタイメストラーを語る。

 

いち早く戦勝の報を受けたアガメムノーンの妻クリュタイメストラーはトロイアー軍の夫、子供を失って嘆き悲しむ女達、女、子供老人達の姿、疲弊して土に横たわる兵士達を生々しく語る、その描写力の凄さにコロスの長老達は圧倒される。

やがてアガメムノーンの登場となり、彼は神々に向かって帰国の挨拶を述べ、トロイアーの都イーリオンの町が灰燼に帰したことを報告するが、彼は戦争を通じて人間に対する深い不信の念を抱いて帰国している。クリュタイメストラーは夫の帰国と戦勝を大仰に喜んでみせ、紫貝の紅で染めた織布の上を歩かせようとする。本来織布は宗教的儀礼に用いるもので、その上を人が歩くなど許されるものではなかったのである。アガメムノーンは妻の言葉を自分に対する礼賛かと勘違いし「自分を神のように崇めないでくれ」と応ずる。

 

妻の真意は、これは宗教的儀式であり、夫をその為の犠牲にする目論みであったのだ。アガメムノーンの退場のあと、トロイアーの王女であり巫女のカッサンドラが引き出される。カッサンドラは自らの心に映ずる事を言葉にする。それはアトレウス家(アガメムノーンの一族)にまつわる血で血を洗う身内の争いであり、宮殿の中でやがて行われる殺人であり、又我が身とトロイアーの悲運を嘆く事であり、自らの死を予告する。カッサンドラはすぐさま切り殺される。アガメムノーンは浴槽の中でクリュタイメストラーの手によって刺殺される。彼女はコロスの長老達に「アガメムノーンは奴隷のような死にざまに逢ったとは思わない。何故ならば、わが家にたくらみを仕掛けて破滅をもたらしたのはこの男ではなかったか。この男との間に育った私の若木、嘆いても嘆いても尽きないあの娘、私のイーピゲネィアを殺害した男、今それに見合った仕打ちを身に受けた事を黄泉にいって大声でわめき散らす等心得違い。刃のもとに果てたのは己の蒔いた種を刈り取ったまでのこと」とコロスの長老達の難詰も嘆きも、自信に溢れて冷然と退ける。アガメムノーンの凱旋の場面でのコロスの言葉は戦勝を称える言葉はなく、ギリシャ全土の遠征軍の兵士の故郷の実情、人の命を黄金で商う軍神アレースへの呪詛、正義の戦いとはいえ、これ程の血が流されたとあれば、それに対する何らかの社会的な償いが、求められるのではないかとの危惧の念が吐露されている。

 

やがて7年後成人して帰国したアガメムノーンの息子オレステスの復讐の刃の下、クリュタイメストラーとアイギストスは倒される。親殺しの罪を犯したオレステスは復讐と刑罰の女神たちユリーニユエスに追われ、諸国を放浪し発狂する。

 

☆クリュタイメストラーの動機は何か。

イ.予言者カルカースの占いに従ったとは云え、対トロイアーとの戦勝を神に祈る行事の人身御供として娘イーピゲネィアが犠牲とされたその復讐。

ロ.夫の従兄弟アイギストスとの情事が複雑に絡みあっているようである。

☆アイギストスの動機は何か。

アガメムノーンの父アトレウスによって二人の兄は殺害され父は追放されており、その復讐を誓っていた。アガメムノーンを恨む二人がやがて情を通じて事を起すのだ。情欲と権力欲とが二人を結びつける根拠であることがやがて明らかになる。

 

ギリシャ悲劇の数々はヨーロッパの文芸の中に深く浸透しており、文学者も繰り返し取り上げており、映画の中でも上映が多い。

ジロドウは1937年5月13日 パリのアテネ座に於いて、ルイ・ジュヴェ演出の下「エレクトル」が初演されている。オレステスと姉エレクトラの復讐物語に取材したものである。

 

サルトルは「蠅」でこの復讐劇を初の長編戯曲として作品化しており1943年シャルル・デュラン演出により初演されている。この作品でサルトルは「神でさえ一度爆発した人間の自由を前にしてはいかんとも為し得ない」と宣言している。神ゼウスの「良心の可責」の脅しにもオレステスは一もひるまない。この上演は占領下の巴里人に多大の感銘を与えた。時代が生んだ輝かしい人間賛歌である。

第二次世界大戦の折ユダヤ人から数千通の助けを求める嘆願書がローマ法王の元に送られてきたが、法王はこれを黙殺した。まして第二次大戦を止めるべく何らかの行動を起こしたことはない。世界中に数十億の信者を有していたキリスト教の頂点に立ち、大きな影響力をもっていた人物であるのにである。サルトルはこのことに絶望していたのではないか。宗教は人間の生きていくうえで何の役にも立たないことを痛切に実感したのであろう。

 

映画「旅芸人の記録」(ギリシャ)1975年ラオ・アンゲロプロス監督作品。「アガメムノーン」の登場人物と同じ名前を背負った彼らは名前の通りあの悲劇をこの現代の時間の中で見事に再現している。

(注)コロス(合唱隊)は12名の市民によって編成され、アガメムノーンの王国アルゴスの長老職という配役である。劇の進行に直接、間接に関与し、劇の進行に重要な役割を担っている。

2022年

3月

03日

和田大諷「金泥の世界」展 ご案内 鳩居堂4月5日から10日まで

ご来場をお待ちしております。

2022年

1月

26日

2022年初場所について       2022/1/26

1.初場所優勝者

関脇 御嶽海が13勝2敗で3度目の優勝を飾り、場所後大関に昇進した。

三役通算28場所かゝった。抜群の相撲センスを有し、既に3~4年前に大関になっても不思議はなかったのだが、生来の稽古嫌いと、それに伴ってのスタミナ不足が祟り、その上の斑気(ムラキ)が治まらず、足踏みを続けたのだ。大関に昇っても今のまゝでは常に2桁以上の成績をあげていかれる保証はどこにもない。彼は本番に強い力士だと云われる。つまり稽古場ではさほど強くないと云うことで、本当の強さは稽古場で絶対の強さを発揮する必要が求められる。この事を御嶽海には肝に銘じてもらいたい。

 

2.さて照の富士である。

大関から膝の故障で序二段まで陥落したが、驚異的精神力で復活し、ついに横綱まで昇りつめた。故障した膝は治ることはないが、常に膝を曲げ、前傾姿勢を保ち、立上るとすかさず左前褌を引き体勢を整えてから前に出る。小兵力士や押し相撲を相手にすると、引っ張り込んで両上手又は閂に極めて相手の動きを封じたあと、攻めにかゝる等安定した相撲で一強の地位を築いた。先場所まではまさに敵なしの存在であった。彼の唯一の弱点は押し相撲であり、それでも先場所までは実に巧みな取り口で、苦戦はしても取りこぼしはなかったが、今場所明星の突進を受け損なって苦杯を喫したが土俵下に足から落ちた時に古傷の膝に衝撃をうけて悪化させ、その後の取り組みに精彩を欠いた。来場所以降の相撲に不安が残る。何せ横綱白鵬なきあと相撲界を背負っている金看板であるのだから。

 

3.大関陣 

大関陣の惨状はまことに酷いものであった。特に正代の相撲は無気力そのもので覇気が全く感じられない。2場所連続で対横綱戦が組まれなかったことに、彼は大いなる屈辱感を味わったことであろう。この事を深刻に考えるべきである。大関よりも平幕の阿炎の方が勝負になると協会も観客も考えたのであるから、前代未聞の事である。正代の相撲はそもそも体格に恵まれているが腰高のまゝ体当たりで相手の上体を起し双差しを狙っての取り口であるが、爆発的な当たりがあればそれなりの相撲が取れるが、当りが弱まると、体当たりで自分の上体が反り返り、双差しを狙う取り口から相手の押っつけの格好の標的となり、押される事になる。この相撲振りと、気力の無さから今後は下降一方となる可能性が高い。

 

4.一方で新しい勢力が台頭してきた。

1⃣ その筆頭が平幕6枚目の阿炎である。阿炎は協会の制約を破って謹慎処分を受け、幕下まで陥落、その他にも「楽して勝ちたい」等、様々な物議を醸す言動も多く師匠の錣山親方(元寺尾)も半ば諦めていたようであったが、処分のあと阿炎に心境の変化がどのようにあったか、復帰後見違える相撲に変り、厚みを増した身体もあって、それまでは突っ張って相手の上体を起し叩き込みが常道であったが、叩くことはなくなり、突き切るスタイルに変って再入幕の先場所は12勝3敗、今場所は横綱照ノ富士を破って12勝3敗。

一躍優勝を狙える力士と見做される事になったのである。

 

2⃣ 同じ平幕の若隆景。彼は左からの強烈な押っつけのみで今日の地位まで昇ってきたが、今場所は右からの攻めも加わり11勝4敗の成績をあげた四つ相撲である。小柄であるがキビキビした相撲振り、誠に好感がもてる力士でる。

 

3⃣ 平幕下位の22才琴の若

祖父は猛牛と謳われた横綱琴桜、父は大兵で二枚目琴の若(関脇)である。今の琴の若は大柄で身体が柔らかな四つ相撲でスケールも大きい。今場所11勝4敗で来場所上位でどのような相撲を取るのか楽しみである。

 

4⃣ 一度優勝している大栄翔、平幕の阿武咲、同じく明生の押し相撲3羽烏であり、少しおくれて29才の北勝富士がいる。押し相撲は調子に乗ると優勝もするが、調子が良いからと言って必ずしも勝ち星につながらず大敗することもあり、安定感がないところがある。従って負けがこんでいるからと言って舐めてかかるととんでもない事になるのだ。

今場所の明生のように観客にとって彼らの相撲は常に番狂わせの期待を抱かせるものであるのだ。

 

5⃣ 平幕の豊昇龍

今場所の彼は11勝4敗。小兵であるが四つ相撲で、立ち合いの鋭さ、投げ技の切れも強さもあり、足腰も強く闘志もさかんで、もう少し身体が出来てくれば、協会の米櫃となる大いなる可能性がある。彼は横綱 朝青龍の甥である。

 

6⃣ 平幕の宇良  29才

彼は学生時代反りのスペシャリストとして名を馳せて、鳴り物入りで角界に入り。しかし相撲界は重量化が加速しており、重い者が有利の法則に従い成績もついてくるが、腰、膝、足首に負担が過剰にかゝり故障の原因となる。体重増に比例して稽古量も減少し、故障が加速する。相撲内容も、押し出し、寄り切り、叩き込み、引き落としが多くを占めまことに味気ない様相を呈するのだ。宇良はこの重量化した力士を相手として襷反り等の反り技を繰り出した事から膝を痛めて休場、幕下に陥落。引退の危機に瀕したが不屈の闘志で復活。体重を増やして反り技を封印、幕内に帰り咲いて今場所には上位に進出し、足取りを始めとして多彩な技を披露し、上位陣を脅かした。鍛え上げた技術を駆使して相撲界に切り込む、その異能振りは一際精彩を放って、得難い存在となっている。

 

7⃣ 34才の四つ相撲の宝富士は左差し一辺倒で、それ以外の取り口はない。差せれば大関級の力を発揮する。37才の押し相撲の玉鷲、優勝したこともある。押しの威力は依然として健在である。今場所二人とも前半は白星を揃えたが、後半はやゝ疲れたようだが、自分の相撲を取り切る若さも変わらず、身体も張っており勝負に対する執念も衰えておらず若手の見本となっている。

 

8⃣ 長く続いた相撲界の停滞も小兵の四つ相撲の力士が台頭してきた、又大柄な四つ相撲の力士も表われ、久方振りに未来がひらけてくる予感を窺わせる。又照ノ富士、宇良、阿炎にみられる不撓不屈の精神力と意志の力は人間の精神の力が如何に困難を乗り越えるものかを我々にまざまざと示してくれたのである。

 

9⃣ 相撲界に望むのは常人とは異なる鍛え抜かれた体格、体力と技術が、その限りを尽くして土俵上で披露することで観客を感動させることであることを各人が銘記してもらいたいものだ。

 

2022年

1月

24日

いわゆる受けうりについて          2022/1/24

いわゆる受けうりについて

2018年10月2日の朝日新聞に「居酒屋で考えた」が掲載されていた。甲南大学教授田中貴子氏である。「ある居酒屋のカウンターで明日も仕事なのでビールを一杯だけ、あとは秋刀魚でを焼いてもらおうかなと考えていると、隣り合わせた男性が話しかけてくる。『山廃がどうの』『ひやおろしがどうの』と日本酒の蘊蓄を語りたいようだだった」「しかし何かで得た知識を披露するだけで、そこには自分独自の視点やユニークな感想は見当たらない場合が大半である。そんなものを聞かされるのは迷惑千万である」と要旨を語っていた。

しかし「山廃」も「ひやおろし」も酒造りの方法の定義であり、その事に個人の視点の入り込む余地はない。田中氏は人の受けうりは価値がなく、自分の独創性こそが大事だと力説しているが、田中氏は大学の講義で受けうりは一切ないとでも言うのであろうか。又まさか自分の言動、考えが総て独創的であると考えている訳でもあるまい。田中氏の言動の99%以上は過去の人々の積み上げてきた知識のいわば剽窃であり、独自性など殆んど取るに足りないものなのではないか。現代の思想、学問、文化、芸術等の中心的役割を占めているのは、中国、西欧から得た知識から剽窃したものであり、他からの受けうりが悪いとすれば今日の日本は存在しないのだ。「何かで得た知識を披露する」のがそれ程卑下すべきものであろうか。他からの受けうりこそ大いに結構、人間にとって大切なものであると思うのだが・・・・。

ちなみにアナトール・フランスは「他人から自分に適したもの、特になるものだけを取る作家、選択することを心得ている作家については、それは立派な人間である」と。

 

2021年

12月

27日

ドキュメンタリー映画「死霊魂」第三部

2019年 山形ドキュメンタリー映画祭上映 『 死霊魂』 第三部  

 

1.朱照南の証言77才2007年9月取材 朱は夾辺溝の元職員

収容者が送られてきた夾辺溝は高台県農場にあった荒地で、冬には零下30度になりなり、1mの凍土となる作物等全く育たない土地であり、しかも受け入れ態勢もない所の収容所へ収容者が次々に送り込まれてきて収容者達はやむなく荒地に壕を掘り、雑草を刈って敷き藁替わりとして凌いだ。しかも1960年に入ると全国的飢餓もあり、一人当たり一日雑穀250gが支給され、寒さと栄養不足で1960年12月撤収が始まるまでに3500人の収容者のうち生存していた人は500人であった事、生存者をバスで高台農場に移すが、途中で次々と死んでいった。

 

2.裴紫豊 元教師(天文が専門)1960年11月飢餓で死亡 享年44才

范培林 教師 吹生の妻の証言 80才 2005年11月7日 取材

夫婦で収容所へ 妻だけ帰される。夫吹生は真面目な人で、再教育と希望に満ちて受け入れ、教育施設は良いところらしい。再教育を受けて新しい自分を作るのだと、又労働者と農民と共に働けると喜んで収容された。こんな厳しい所だとはと漏らしたが、妻には決して苦しいと訴えたことも、食料を送れとも云わず、4人の子供に与えてくれと最後まで手紙に云い続けていた。范培林はその後1961年12月解放された元同僚と再婚したが圧力は続いた。范は1984年に死亡している。

当局は党員になると傲慢になるものが多く、利益の享受を優先し苦労は後回しにする。入党すれば職場で昇格し給料が上がる。上層部がいくら統一戦線を語っても一般の党員にあるのは不満や軋轢だ。思想矯正というのは人を疲弊させ抹殺する。政治教育は開放と締め付けを繰り返すとテロップが流される。

この映画の最後はかって収容所のあった荒野にさんらんする多くの人骨を執拗なまでに映し続けて終わる。

 

3.この映画に出てくる収容所は夾辺溝、明水、新添墩の3カ所で夾辺溝は甘粛省にあった労働収容所全体の名前で、新添墩は夾添溝の主要部から7㎞に位置しいる分場。明水分場は1960年夾添溝のほとんどの収容所がすでに疲労と飢餓であとにできたものである。映画が明水で始まるのはすべての証言者が明水収容所に関連している為である。

 

4.この映画は政治的、社会的に正義であり、進歩であると信じた遂行された社会主義の現実が、これが人間の業(ゴウ)のなせる業(ワザ)によって実行されると、かくも残虐な結末が待っているものかと思い知らされる。現在の中国、北朝鮮の現実とオーバーラップして見えるのである。

 

2021年

12月

26日

ドキュメンタリー映画「死霊魂」第二部

2019年 山形国際ドキュメンタリー映画祭上映 「 死霊魂」第二部

 

1.明水の荒野に人骨が散らばっている。

再教育の為の収容所の跡地である。

縄で縛ってある袋か箱が出てくるが、収容された者が死ぬと荷物と一緒に埋められたものだ。

小石が散在しており一つ一つに朱書きのあとがみえる。死者の名前である。夾辺溝収容所の生存者曹宗華(64才)以下6名が参加して冥銭を火に焼(ク)べて死者たちの供養をする。収容者達は地下壕を掘ってそこに寝起きしていた。

 

2.収容され辛うじて生存していた人達の証言

イ.邢徳(シン・ドー)86才 2005年11月3日 取材 その後死亡

ロ.蒲衍信 83才 同年月 5日 取材 2011年に死亡

ハ.趙丙堃(シャオ・ビンクン)同上年月3日 取材 2008年に死亡

二.趙鉄民 同上年月4日 取材 2016年に死亡

 

4人の証言は実に克明に語られる。驚くべきことに彼らは収容前の職場の人物を始め収容所の幹部の多くの名前を記憶しており、与えられた仕事、次々と死んで行く仲間の実態を生々しく語っている。

誰もが一致して語っているのは、突然職場から移動を命じられ、行きつく先は収容所であり、政府に騙されたと言う事であり、政府の方針は各職場から人数が割り当てられており、右派として収容所に根拠なく送り出されたのである。

邢徳の送られた収容所は3500人のうち3000人が死亡している。収容所の実態は虐待そのもので、その非人道的たるや、まさに目を蔽うような恐るべきものであった。釈放された人々の名誉回復は1977年の文化大革命以降となる。

 

第一部 173分、第二部 171分、第三部 183分 計 8時間47分 2010年に完成、2014年に上映するまでになる。

 

2021年

12月

23日

ドキュメンタリー映画「死霊魂」第一部 

山形国際ドキュメンタリー映画祭上映『死霊魂』第一部  

               2011年 中国 王兵(ワン・ビン)監督作品

 

1956年スターリン批判が始まると中国共産党は「共産党の批判を歓迎する」として「百花斉鳴」「百花争鳴」の運動を展開、知識人から共産党批判の声も出始めた矢先の1957年6月毛沢東が人民日報に「右派が社会主義を攻撃している」との論文を発表し、方針を急展開した。共産党に対する批判的意見を”右派”として徹底的に弾圧、対象者は50万~130万人にのぼった。多くの人々が収容所に送られた。

 

「死霊魂」はその中の夾辺溝収容所に送られた3200人の中で辛うじて生き残り、生存している人達の証言を取材したものある。

1959年から61年にかけ中国全土を襲った大飢饉の最中、収容された人達は一日一人当たり250gの穀物を支給されて、木の皮、草の実も採取して飢えを凌いだが多数の人が次々と餓死していったのである。収容所に送られた人々は党中央を批判した者は殆んど無く、各地方の組織や幹部に意見を述べた者、上司に逆らった者等が大半であった。

収容される基準は定かでなく、各地方の責任者の機嫌を損ねた者や、意見を具申した者、無法、違法な命令に応じなかった者達であった。そこには中央から末端の組織に至るまで横暴な権力の行使、まさに恐怖政治が行われていた。

輝かしい理想を掲げて出発した社会主義社会であっても、人々の心は変らず、非人道的な醜い、人間性を曝した社会がまかり通っていたのである。

 

2019年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で最優秀賞を獲得している。

王兵(ワン・ビン)監督 1967年11月17日中国西安生まれ、2002年に9時間16分に及ぶ大作「鉄西区」を制作。ブログ2020年8月3日付けに『 ビデオ 「鉄西区」WEST OF TRACKS をみる』 として掲載している。

 

2021年

11月

25日

続 大諷の無辺楽事 ボクシング編 刊行

大諷 5冊目の本 『 続 大諷の無辺楽事 ボクシング 編 』が出来上がりました。

本編は大諷のホームぺージの 「ボクシングTV観戦記」及び「ボクシング界の伝説のボクサー達」にアップしたものを抜粋編集したものです。出版社は前回に同じ 智書房。ボクサーの似顔絵は大諷の筆によるものです。

2021年

11月

20日

第14回 葛飾現代書展 風景

2021年

11月

08日

『フーシェ革命暦』辻 邦生 を読んで 

フーシェ革命暦 2冊本  辻 邦生 出版 文藝春秋 

上・下とも650頁に及ぶ大部の作品である。

主人公のジョセフ・フーシェはフランス革命に参加し、反革命家を鎮圧。ナポレオン時代は警察大臣として権力を揮い、彼を人々は変節漢とのゝしった。彼の家は代々大西洋を舞台とした船乗りであり、その後船主として成功をおさめた。そこに生れてパリに多く存在した学院に入り、学校の寄宿舎で生活、僧職となり、田舎教師となる。ついには歴史に残る大政治家なるのだ。

その一代を描いた作品である。最初にナルボンヌ侯爵家の庭に入り込んだフーシェ外1人 フィリップが侯爵の息子アントワーヌの命令で殺害される。殺害者は罪に問われない。

当時のフランス社会がそうであったのか、遡ること2世紀の16世紀には国会が開かれ(全国三部会)その時の議事記録によれば自由、平等、博愛と云う政治概念が既に確立しており、自由な討論が貴族、聖職者、市民たちの間で交わされており、知的水準も高く、人権と正義についての考え方も明瞭に呈出されており、18世紀のフランス革命で噴出した、もろもろの概念はすでに16世紀の中期にには用意さていたものである事から明らかにされている。国家の中の市民つまり第三身分の上奏書には裁判の組織化と裁判そのものを無料にせよという要求や、教育の機会均等と義務化の要求、教育費の国家負担の要求、又国内の商業流通の障害排除、自由化、度量衡の全国的統一の要求等がある。

つまり現実の社会のあらゆる問題について、これらの市民階級、第三身分の人々は確実に目配りが出来ていたのである。この事からみて18世紀末の時代に貴族が平民を殺害して何事もない等が許されていたとは到底思えないのだが・・・・

又、侯爵家の馬車が襲われ2名が殺害される事件や、美少女ミュリエル、銀行家で徴税請負人のブロン他多くの人達が登場するが、物語上の必然性が全く分からないし、登場人物が物語の中で生き生きと動いておらず、各自が果たしてどのような人物か明確ではない。物語をふくらませる目的としか思えない。

 

当時のフランスの政治状況がこの作品では全く描かれていない。階級、権力がどこに存在しているのか、王の権力の及び方、財政、対外的な政策、貴族の実情、その財政、生活基盤等の説明がない。大体にして王侯貴族が徴税をどのようにしていたか、貨幣か物納かも分らない。この時代貴族の没落も進んでおり、商品経済によって、新興勢力も力量を蓄えており、社会変革の準備は進んでいたのであるが・・・・。

 

辻邦生にはそうしたフランス社会の実情に目を向ける関心は全くないようで、他の長編「背教者ユリアヌス」にも感じた事であった。社会と切り離されたところで人物を描こうとしても、それは無理というものではないか。

 

ルネッサンス期の生活についての記述が『ミシェル城館の人』1991年 (集英社) 堀田善衛 著にある。

一般の貴族は、要するに領主であり、地主であってその仕事は農産物の収集であり、その交易であった。従って城館といっても、彼等のそれは豪勢でもなければ、美麗とか瀟洒などと云うこととはまるで縁のないものであった。 ー 略 ー

田園が彼等に与えてくれる収入では到底宮廷での出費を賄えなかった。高価な衣装や、馬匹、召使、宴会等の催し物などには、莫大な費用が掛かり、例えばパリに滞在している時などは、大抵は部屋やフラットを賃借していたものであった。さて、その田園や城館であるが、これもまた、今日の目で、或いは観光客の目で見たりしてはならないのであって、漆喰で石組をかためた塀、あるいは城壁のなかに広い土地を持ち、かつ広壮な城館が建てられていて、その正面に石の大きな紋章などが飾られてい、方々に大理石の彫刻が立っていたりしても、それらのものに目を眩まされていてはまずいのである。高い塔がそびえ立っていても、その内側は穀物や乾草の倉である。中庭の奥の家族の居住する建物は調理場を中心として、4っ乃至5っの部屋があったのであったが、部屋と部屋を仕切るドアというものがまだ考えられていなかった頃としては、全ての部屋は巨大かつ単調、方形に仕切られていて、前後は壁であり、窓は左右の側面壁にしかなかった。それに冬期の寒さを勘定に入れれば、窓はなるべく少ない方がよかった。

もし人が一つの階の端から端へ移ろうとすれば、全部の部屋を一つ一つ突っ切って行くより他に方法がないということになる。その一つ一つの部屋で家族の誰かが、あるいは複数の召使たちの誰彼が何をしていたとしても、とにかく彼、又は彼女のそばを通り抜けるなければならない。たとえ彼と彼女が性交していてもその傍らを通り抜けて行かなければならない。

 

観光客は城館を見物し、巨大な調理用の暖炉マントルピースを眺めて豪勢なものだと感嘆するが、それほど暖かくも有難くもない代物で、火から少しでも離れれば空気は凍てつかんばかり、従って人々は一日中室内でも毛皮つきの部屋着を着たきりで男女とも頭には頭巾を被っていた。マントルピースはけぶってばかりいて、部屋を煤で真っ黒にし煙突から突風でも吹き込めば火の粉だらけになる。ラファエロが最初に法王から呼び出しを受けたのは画業の為でなく、暖炉の修理の仕事であった。床には保温用の麦藁が敷きつめてあり、17世紀のルイ14世でさえもヴェルサイユの宮殿で葡萄酒の凍ったカタマリを噛らなければならなかった。従って貴族も庶民も目覚めている時間の大部分はマントルピースのある台所で過ごすことになる。当時は食堂などなく、台所の調理台で食事をした。テーブルの下には犬や鶏、家鴨がおこぼれを待ち構えていた。領主の家族の食事が終われば、泥にまみれた作男や女達がどっとつめかけて来たのである。

これが時代の貴族の生活の実態であった。領主の妻は種蒔き、農地の手入れ、収穫等の農作業の監督、狩猟の獲物の処理、冬期の為の備蓄、作男や小作人たちの苦情処理などを一手に担って激務をこなしていた。

 

その他、王族から庶民に至る様々な生活実態を極めてリアルに描き出している。

1337年に起った100年戦争はイギリス エドワード3世とフランスのフィリップ6世がフランスの王位を争ったのが原因で1437年ジャンヌ・ダルクがシャルル7世を擁してパリに入るまで続いたが、当時、王とは言うものの、王領としての地域はあるものの各地の大貴族が各々領地を有して隠然たる勢力うぃ示して群雄割拠の時代であったが、ユマニスト ミシェル・モンテーニュを語るには、この本3部作の大半をこの解明にあたっている。然もフランス、イギリス、ドイツの各国の入り乱れての抗争の中にカトリックとプロテスタントの血で血を洗う闘いが繰り拡げられ、双方から多くのキリスト教徒を中心に火刑台に送られていた。

イギリスのトーマス・モアを始めユマニスト達の多くが殺されているが、その中で尚多くのユマニスト達が育っていったのである。イギリス、ドイツ、オランダ、フランスのユマニスト達は国際語たるラテン語を駆使して強い絆で結ばれ協力していて、弾圧をかいくぐって多くの本も出版している。

 

堀田善衛はこの苦難の時代を様々な視点から解明し、政治、社会のあり方と、文化、芸術との関係をドラマチックに描き出している。

「フーシェ革命暦」との大きな違いである。

 

2021年

11月

02日

椎名 保 展 をみる    銀座第7ビル ギャラリー

会  場 銀座 第7ビル  ギャラリー 1F 

開催期間 2021年11月1日~11月6日

 

椎名 保 氏は葛飾区美術会に所属する日本画の大家である。

海、木立、筑波山、桜、紅葉、オーロラと様々な日本画のモチーフを美しく繊細に描き出して極めて真面目な人柄を全作品に偲ばせている。誰もが好感を持つ作家である。

2021年

11月

02日

作品 紹介 刻書 「 露 」 

 刻書 「露」 銀泥仕上げ 

2021年

10月

31日

ドキュメンタリー映画『チリの闘い』 第二部「クーデター」及び 第三部「民衆の力」  10月25日掲載の続き 

ドキュメンタリー映画『チリの闘い』 第二部「クーデター」及び  第三部「民衆の力」

    ( 第一部「ブルジョワジーの叛乱」は10月25日付け掲載済み)

1973年6月29日のクーデター未遂事件から9月11日のクーデター実施へと至る出来事が時系列で語られる。

第二部 「クーデター」 

6月29日のクーデターは軍の多くの司令官たちはこれを静観、時期尚早とみたのである。街はクーデター挫折を喜ぶ人民連合の支持者で埋め尽くされる。左派の労働者たちは即座にチリ中の工場や企業を彼等の管理下に置いて、これをコルドンと云う地域労働者連合会がこの仕事を統括した。アジエンデはこのクーデターを受けて非常事態関連法を議会に要請。野党が多数の議会はこれを却下。軍は前年議会を通過していた銃砲取り締まり法案により武器の捜索を工場中心に強行し、国民恫喝を開始する。

政府は政府転覆をもくろむ勢力、アメリカ合衆国と叛乱支持者による迫りくるクーデターの脅威を前にして、民主主義を尊重する将校達の支持とキリスト教民主党との最低限の合意を目指す一方で人民連合内でのクーデターに対する戦略をめぐって見解の相違が表面化する。左派の過激派が政府と人民連合の主力の態度を「妥協」ととらえ激しく対立する。

 

7月27日 大統領の海事副官は政府と海軍将校との重要なパイプ役を担っていたが、極右に暗殺される。又輸送業者が無期限ストに突入、経済を混乱に陥れ、政府とキリスト教民主党との対話を妨害しようとする極右の作戦である。このスト参加者達にはCIAから500万ドルの資金援助がなされた。CIAの訓練を受けたテロリスト達はダイナマイト等を使ってのテロを繰り返し、キリスト教民主党はスト支持を表明。しかし政府と支持者によりこのストに対応「人民商店」を強化し、国から直接購入した食料を原価で売る等の手配と政府を支持する運送業者の協力でこれに対抗した。

 

やがてホワイトハウスと国内の野党は次第にブルジョワの大半を味方につける事に成功。

一方人民連合はアジエンデ支持のデモを組織し80万人が集結。アジエンデは9月11日に政府のやり方をめぐって国民投票の実施を表明。これを知った合衆国政府と反アジエンデ派は最後の手段をとることに決定。アメリカの駆逐艦4隻がチリの沿岸に迫り9月11日空軍の爆撃がモネダ宮殿を襲い、アジエンデは宮殿の中で死亡。

以後 大衆運動は徹底的に弾圧、数千に及ぶ人々が虐殺されスポーツ競技場は強制収容所と化す。

 

9月11日に放送されたアジエンデのラジオ演説『歴史は抑圧や犯罪をもってしては押しとどめることはできない。彼らは我々を押しつぶすこともできるかもしれない。しかし歴史は人民のものであるり、労働者のものである。遅かれ早かれ大きな道が切り開かれることだろう。みな自由に歩くことができ、より良い社会を建設するために通る大きな道が』

 

ここに描かれる人民連合の人々の涙ぐましい努力と崇高な精神と高い倫理感、反動勢力に対する的確な対応力は感動的である。

対するアメリカ合衆国の権力と策略とそれでもダメなら武力で叩き潰す、その在り方には今更ながら改めて思い知る思いがする。

 

チリの闘い  第三部 「民衆の力」 

1972年アジェンデ政権が誕生して1年半、サンチャゴでアジェンデのパレードに大声援を送る支持者達の熱狂ぶりが示される。

運送業者のストライキが実施される。野党の強硬派国民党がけしかけたもで、全国農業協会や全国商店主連合も同調、キリスト教民主党もこれを支援、原料、農産物は国中でストップした。

ニューヨークタイムスは「経済的支援」を合衆国政府であったと暴露した。

労働者達は工場のトラックを走らせることで何とか対処、労働者の多くが工場のトラックや徒歩で通勤、一方で産業界の重役やエンジニアは自宅に留まることでストを支援する。これに政府支持のエンジニアが数社を担当して業務を維持した。反政府派による生活必需品の買いだめが急増、政府派はこれを監視強化と、産業界の組合が製品を各地域に運び閉鎖中の商店を開業。

1972年10月には政府の予想を超えて労働者の組織能力は高まり、産業界で資源を交換するシステムを作り上げる。改革に行き詰まったアジェンデは民主制を支持した陸軍司令官プラッツを内務大臣に任命し、ストライキ終結に成功、一方労働者は国内の数百の工場を占拠、企業統合した産業コルドンが形成されて社会主義化が進んで行く。

都市部の労働者が農民に協力して雇用者側に対抗、政府には農地改革を迫った。右派の策謀により商品の多くが闇市に流される事態を人民勢力は商店を介さずに各家庭に食料を始め生活必需品を行き渡らせる供給制度を作る等、人民勢力の成長振りは目覚ましく、社会主義化への道を着実に突き進んで行く中で、労働者、農民、市民の連帯を一層強めて行くのだ。

しかし、議会中の勢力は半数以下であり、政策の現実は困難を極めて、労働者たちは現状への危機感を強め、膠着状態に陥った政府に対し苛立ちを募らせていた。彼等は既存の資本主義制度を超えて、階級闘争を挑んで行かなければならないと考え始めていたのである。クーデターの悲劇は真近かに迫っていた。

反政府勢力は(アメリカ合衆国を含めて)の様々な政府転覆に失敗して、ついに最後の手段クーデターを実行に移すことになる。

 

2021年

10月

25日

ドキュメンタリー映画「チリの闘い」三部作(1975~78年) 第一部「ブルジョワジーの叛乱」

ドキュメンタリー映画「チリの戦い」三部作(1975 ~78年)

 

(1)チリ出身のドキュメンタリー映画の巨匠パトリシア・グスマン監督。チリでは世界初めて選挙で誕生した社会主義のアジェンデ政権が1973年9月ピノチェト率いる軍部のクーデターで崩壊するまでを描いている。クーデター後逮捕、監禁されたグスマンは亡命。国外に持ち出した撮影済みフィルムをもとに映画を完成させたものである。

 

(2)第一部 「ブルジョワジーの叛乱」

映画は1973年9月11日正午頃モネダ宮殿が爆撃される短い映像から始まり、すぐに6ヶ月前に戻る。

3月4日の選挙を前に野党キリスト教民主同盟と結束した国民党の右派と左派政党が結束した人民連合の善戦で予想された右派が大統領を解任に必要な3分の2以上の多数をとることがかなわず、人民連合の議席増に終わる。

そこから右派の激しい攻撃が始める。砂糖、トイレットペーパー、洗剤、米などの買い占めが始まり、政府が即座にこれに対処。ついで右派は内閣の閣僚を次々に解任し、やがて全閣僚に対する弾劾を始めるが、これに失敗。野党の支援を受けた右翼学生のデモ、ついで合衆国で研修を受けた輸送業者が罷業を行い3分の1が移動不能となる。又軍人4、000人以上が米国で訓練を受け、4、500万ドルに及ぶ軍事援助を受けていた。

4月19日チリ経済の中心である銅山でキリスト教民主党のそゝのかしによってストライキが勃発(銅山労働者は高額労働者であった)。ストライキ中も労働者の半数は残業しながら残業しながら通常の倍の仕事を行って、人民連合を支えたのである。給与を倍額にする事を要求するデモが組織され組織され行く手を塞ぐ警官隊と乱闘を始める。ストの指導者は鎮圧による犠牲者を必要としていた。しかし政府は細心の注意を払って行動するように警官に命じており、このデモは失敗。スト指導者はカトリック大学を煽動し、反政府デモを行わせるに成功。小売業者や輸送業者がスト参加者と連帯してストを呼びかけ、政府は警官隊を動員し、人民連合支持者も宮殿前に結集し、デモを組織し、内戦阻止をスローガンに50万人集会が開かれアジェンデが演説。その一週間後ストライキは終息、そしてついに6月29日第2機構甲連隊が6台の戦車と数台の輸送車を使ってモネダ宮殿を攻撃。

アルゼンチン人のレオナルド・ヘンリクセンがこの様子を撮影している最中に撃たれる。(そのヘリクセンが撮った映像が示される)で一部が終わる。

 

(3)チリという国について

 

イ.住民の95%はスペイン系白人と原住民アメリカインディアンとの混血人(メスティーソ)である。

ロ.スペイン人の征服は遠隔の地であることと、インディアンの抵抗の激しさに手を焼いた為と、金・銀の発見がなかった為に主として牧畜が行われてきたが、1917年スペイン国軍を破って独立を宣言した。

ハ.1964年キリスト教民主党のフレイが社共を中心とした人民戦線がアジェンデを抑えて当選したが、6年間の結果国民の失望を買って社会党、共産党、急進党その他3会派による人民統一戦線におされた社会党のアジェンダに敗れた(70年9月)

 

しかし得票率は36%、決選投票によって当選。当時の国会勢力は上院50、下院150のうち、総計80。キリスト教民主党は78で、不安定であった。軍隊については軍事予算は国家予算の10 %と低く、軍隊については軍事予算は国家予算の10%と低く、陸軍の兵力は3万8千人、政治不介入の原則にたってはいたし、過去の武勲により国民的な人気を確保していた。50万の組合員を擁する労働総同盟は共産党の指導下に置かれ、銅度業、こ公共企業関係、労組は強力でしばしばストライキに訴えており、国民の教育に関する関心は強く文盲率は20%弱である。

 

二. 産業は銅を中心とする鉱山物は輸出の85%を占めてこれからの脱却を図っているところである。チリの銅産業を支配するアメリカの企業にとってアジェンデの国有化政策は脅威となっていた為に何としてもアジェンデ政権を倒す事が急務となっていた。

 

2021年

10月

23日

10月22日 朝日新聞 「眞子さんの結婚に思う」森まゆみ について

寄稿 ----「眞子さんの結婚に思う」----- 森まゆみ を読んで思う事

2021年10月22日の朝日新聞に掲載された その要旨。憲法第24条によれば「婚姻は両性の合意のみに基いて成立する」何人たりとも介入は出来ないはずとし、この4年間プライバシーの侵害はもとより「内親王の結婚相手にふさわしくない」「これからの皇室が心配される」「皇室の尊厳を損なうものだ」と おちょぼ口、したり顔の皇室ジャーナリストをはじめ、識者といわれる人たちが敬語を用いながら全く敬意のない論を繰り広げてきた。こうしたおためごかし、余計なお世話の論がふえるにつれと続き、憶測だらけの記事を書きまくったメディアにはうんざりだとし、結論として、思うように生きたらいい。

好きな仕事をしたらいい。もっと別な貧しい、過酷な社会があることも知るといい。うまくいかなければやりなおせばいい。人に強いられた人生には恨みしか残らないが、自分の信念で選んだことなら責任の取りようはある。眞子さん、アメリカで羽ばたいてください で終わる。

森氏の結論を世間一般では余計なお世話と言い、したり顔と云う。

 

第一に 森氏は自己決定権は基本的人権の基礎であると述べているが、そもそも眞子内親王に基本的人権は無い、選挙権も無ければ、住民票も無いく、言論の自由も無く、自分で生活して行くという自己決定権は全く無いのだ。自己の主張も一切封じられている。そうした状況を全く無視していきなり「婚姻は両性の合意のみに基づいて」と言われても内親王は一般人と隔絶した世界に生きており、そこに本当の両性の合意が築けるとは到底思えない。日本国民としての権利が一切奪われている、いわば羽を失わされた内親王に「アメリカで羽ばたけ」とそこは酷と言うものである。

 

第二に マスコミ非難について、はマスコミは売れるとみればとりあげて報道するものであり、そこには虚実入りまじるのが当然である。それには政治家でもタレントでも区別なく容赦なく曝される。森氏は皇族をこのように取り上げるのはいかんとでも言うのであろうか。皇族には忖度しろとでも云うのであろうか。

 

第三に 言論人としての森氏が取り上げるべきは、こうした皇室の人達の人権や言論の自由を改めて考える事である。憲法には第4条に「天皇は憲法に定める国事に関する行為のみを行い国事に関する権能を有しない」

 (注)権能とはある事柄について権利を主張し行使することが出来る能力。法律上認められている権限についていうこと。

 

としか記されておらず、住民票のない事や選挙権がない事等又言論、信教の自由や表現の自由の制限等には一切触れられていない。従って現在の慣例である様々な制限は憲法上規定されていないのである。この事こそ現在問題視されている内親王の根本原因であるのにこれに切り込む事をしないのは何故か。

 

第四に  第二次世界大戦の開戦、続行に最高責任者として絶大な役割を担った昭和天皇は侵略戦争のまさに当事者として責任を負っておらず、昭和天皇は必ずしもその責任を感じてはいないようであった。しかし平成天皇は天皇の原罪とも云うべき戦争責任を痛感していたかのように、戦争犯罪人を合祀した靖国神社参拝を行わないことでその矜持を辛うじて保っており、自然災害の度ごとに現地を見舞い、慰撫、激励し、国民に寄りそう姿勢を一貫して続けてきたし、令和天皇もその意思をついでいるようにみえる。歴代の政府と戦争関しての大きな意見の相違が見てとれるのである。

森氏は第二次世界大戦をどう考えているのであろうか。何故戦争は始められ、軍人350万人と民間人数10万人の命を奪い、数百万人のアジア人を殺害する侵略戦争に突入していったのか。軍隊はもとより、政府に誘導されたとはいえ多くの国民が熱狂的に戦争を支持した事も又事実であり、戦争終結後もあいまいのまゝ不問に付し、戦争遂行責任者の多くが戦後も尚引き続いてその任に当たったことから、憲法違反の世界有数の軍事力を持ち、今日のモリ、カケ問題、公文書破棄・偽造問題や桜問題、福島原発問題等民主主義国家にあるまじき事態を迎えた遠因となったと言えなくもない。

眞子内親王問題も戦後、米国の思惑によって存続させられた天皇制の矛盾が表面化したに過ぎない。

 

最後に森氏の尊敬する知恵ある老人の「失敗のない人生はそれこそ失敗でございます」といったこの言葉を眞子内親王にプレゼントしたいと語っているが、人生で失敗の無い人なんて唯一人として居ないものだし、取り返す事の出来ない失敗も人生にはあり得ると言っておきたい。戦後国家の主権、人権、そして天皇制を国民的論議なしに作りあげら事に内親王問題の本質がある。

 

2021年

10月

19日

『理大囲城』山形国際ドキュメンタリー映画祭2021

『 理大囲城』 香港 2020年 制作

2019年11月 民主化を求める若者たちによるデモ隊は、圧倒的武力をたのんで嵩にかゝって威圧する警察によって理大構内に包囲される。様々な手段で脱出を図るが悉く失敗。若者たちの憔悴や不安、別れる意見、そこに高校校長を名乗る人物が現われ妥協案を提示する。果たして彼は権力の回し者か?  揺れる若者たち。結局全員投降して終息する。

一国二制度を力づくで覆そうと容赦ない暴力使用を辞さない中国の権力行使をまざまざと表現している。

 

2021年

10月

19日

虎 二作品 紹介

桜板に描く 『 虎 』 

来年が寅年。 妻が7回目の年女にあたる。

 

石に彫る『 虎 』 

輪郭を彫った上に水彩絵の具で彩色

2021年

9月

27日

令和四年干支 寅年 に因んで 『虎』 他作品 4点 紹介

1.『 虎 』 200 x 280 ㎝  

 

2021年11月に例年姉小路(京都)で行う路上での墨のパフォーマンスが、昨年に続いて現地に行けない為に、東京の自宅で作品を書いて京都に送ることとなった。

昨年は京都から軸装した用紙を送付してもらったが、今回は作品を送って先方でこれを軸装してもらう事とした。書いた作品は一年間京都市観光センターで展示される。

 

2.刻字  30 x 70㎝     

金文  20行 197字

佳八月初吉 王在宗国 以下 省略 陰刻 胡粉仕上げ

 

3.刻字

『 龍 』  16 x 23㎝    

 陽刻  金泥仕上げ 中国で心霊視される鱗虫の長 

 鳳麟亀 とともに四瑞の一つ。

 よく雲を起し雨を呼ぶという。

 仏教では仏法守護の天竜八部衆の一つ。

 

4.刻字  19 x 32cm    

屋久杉の古木に陰刻 緑青仕上げ

『 王維の五言律詩 

 中歳頗好道 晩家南山陲(ホトリ)  呉来毎獨往

 勝事空自知 行到水窮處 坐看雲起時

 偶然値林叟 談笑無還期

2021年

8月

07日

演奏会付食事会に参加 7月29日

演奏は1時間、津軽三味線の山中信人と二胡のシュウ ミンの二人である。

三味線の演奏は「忍者」「島唄」「桃花過度」「ソーラン節」「十八坂」で二胡と共演である。

ソロは「津軽ジョンガラ節」「さくら」。

 

三味線と二胡は相性が良いとは必ずしもいえず、何故演奏を共にしなければならないか、その必然性が全く理解できないものであった。

「さくら」に至っては自己のテクニックが如何に優れているかのみを誇示するのを目的としているかにみえて、曲の美しさを無視したものであった。

 

肝心の「津軽ジョンガラ節」は今から50年程以前に聴いた高橋竹山の演奏はまさに魂を揺さぶるような見事なものであったが、山中氏のものはたゞただ騒がしいものであり、元々は雪深い津軽の貧しい寒村で、或いは瞽女等の演者が門付けで各人家の前に立って演奏したものであろう。家には病人や乳飲み児もいたかも知れず、あのように騒がしい音を出してはその家はもとより近所迷惑であった。

竹山の演奏は門付けの状況が目に浮かぶような情感溢るゝものであったが、今の演奏は演奏会用に特化し、三味線の持つ地域性の強い哀感を切り捨て、無国籍なものとしてしまったのであろうか。

演者として生活していく為に、合わない洋楽器や今回の二胡のように各々の楽器を単なる道具と考える、哀しくも情けない現実を見せつけられたのであるが、地域性の強い楽器や楽曲は存続が難しくなったことなのであろう。

二胡の演奏は「二泉映月」に救われるおもいがあった。

 

2021年

5月

14日

私と金泥の書 (その3)作品紹介 3 / 3

私と金泥の書 作品紹介 3 / 3   4月28日 2/3 より続く

24.李白 詩選  25.  正法眼蔵随聞記    26.  菅 茶山 作 七言律詩  法隆寺 持国天 賛  27. 李白 作 五言律詩  法隆寺 九面観音 賛 28.張 廷琢 作 マリア観音 賛 

 

24.  李白 詩選  李白は李太白(701~762)

酒を好み奇行多く遊侠の人。文才を認められて玄宗皇帝の側近に取り立てられたが高力士等の高官に嫌われて宮廷を追放されている。その後野心家の王子に利用されて部下となったが、中央政府から処罰された。

政治への関心が強く、詩文は政治、酒、遊侠、山水、婦人等多岐にわたっている。

今回は3分の2が酒に関わる詩をあつめ、3分の1が王昭君や西施を始めとし女性に関する詩を取り上げたものである。

 

李白を良く表した詩に

問余何意住碧山 笑而不答心自閑職 桃花流水窅然去 別有天地非人間

(俗人は私にたずねる あなたは何が面白くてこんな山の中に住んでいるのですか 私は笑って答えない ただ黙っている だまっていて 私の心にわだかまりはない)

俗人どもの世界とは違った純粋な美しい別のひとつの天地がこゝにはある。

 

25.  正法眼蔵随聞記  懐奘 作

宗教家 道元禅師の思想を知るのに最も適切な入門書である。

道元の弟子孤雲懐奘(1198 1280)は師が折に触れて説示した教えを自ら書き残したのが随聞記である。もともとは懐奘がメモとして書き残していたものを懐奘の弟子達が整理編集して一書をしたと考えられている。

随聞記が今日なお愛読されているのは、そこにたぎっている精神的気魄である。

 

26. 菅 茶山 作 七言律詩 

法隆寺 持国天 賛

竜 盤

竜盤寅路帝王都  誰見当時職貢図

祭祀千年同雅楽  朝廷一半漢名儒

世情頻逐浮雲変  吾道長懸片月弧

懐古終宵愁不寐  城鐘教杆起栖烏

 (法隆寺 持国天立像)

 

27.李白 作 五言律詩 

法隆寺 九面観音 賛

贈 銭徴君少陽 

白玉一盃酒  緑楊三月時

春風餘幾日  両鬢各成絲

乗燭唯須飲  投竿也未遅

如逢渭水猟  猶可帝王師

(法隆寺 九面観音)

 

28.張 廷琢 (清代) マリア観音 賛

閑雲野鶴心同静  瓶水爐香意自如

(マリア観音像)

  

2021年

4月

28日

私と金泥の書(その三)作品解説 2 / 3

金泥の書 作品解説 1/ 3  4月25日より続く

11. 古事記 12. 日本書紀 13.  和漢朗詠集  14. 子規句集 15. 集字聖教序 16. 自叙帖 17. 西園雅集図記  18. 曹全碑  19. 風信帖  20. 古今和歌集  21. 赤壁の賦  22. 蘭亭序 

 

11.古事記  (銀 泥  上・下)

日本最古の歴史書。稗田阿礼が天智天皇の勅により誦習(ショウシュウ)した帝紀及び先代の旧辞を太安万侶(オオノヤスマロ)が元明天皇の勅により撰録して712年献上したもの。

 

12.日本書紀  (金 泥)

奈良時代に完成した日本最古の勅撰の正史。神代から持統天皇までの朝廷に伝わる神話、伝説等を記述したもの。

 

13.和漢朗詠集  (銀 泥 上・下)

藤原公任撰 1012年頃成立したもので白楽天等漢詩文580首(多くは七言二句)及び柿本人麻呂、紀貫之等の和歌216首を添えたもの。

 

14.子規句集  (金 泥)

高浜虚子選 子規は生前に自選の句集を刊行。「獺祭書屋俳句帖抄」上巻 745句、下巻は本人の病気悪化と死の為に刊行できず、大正13年に子規全集 全15巻が、昭和4年には全集 全22巻が刊行されている。子規は短歌改革を試み、大きな足跡を残した。

尚随筆に「病状六尺」「仰臥漫録」「墨汁一滴」等がある。

 

15.集字聖教序  東晋 王羲之  (銀 泥)

この碑は唐の高宗の咸亨3年(672年)長安の弘福寺内に建てられた。通高350㎝、広さ113㎝ 碑頭に7仏を彫っているところから七仏聖教序ともいう。

碑文は30行、全文1904字。懐仁(エニン)が王羲之の行書を集字したものである。聖教序とは玄奘三蔵法師がインドより将来した佛典を新たに漢訳して唐の太宗に奉じたもので、蘭亭序とともに行書の典範と仰がれている。

 

16.自叙帖  唐時代  懐素

懐素(カイソ)は張旭と友に「張顚素王」と称せられ、狂草をもって知られる。二人は共に酒酔に乗じて筆をとり、ところかまわず奔放に疾書して世を驚かせた。懐素の作のうち最も名高いのが自叙帖である。巻末には「大歴丁巳(777年)冬10月20有8日」の款記がある。本幅は紙本絎28.3㎝、長さ755.0㎝。現在は台北故宮博物院の所蔵となっている。良寛は懐素の自叙帖を学んで草書を会得したと云う。

 

17.西園雅集図記  明代  張瑞図 (銀 泥)

宋の米芾(ベイフツ)の撰した「西園雅集図記」(セイエンガシュウズキ)を書いたもので西園雅集は蘭亭における雅会とともに、文人の心楽しい生活を象徴するものとして世に尊ばれた。瑞図(ズイト)は進士科に合格するや、順調に出世の階段を登って、当時権勢を振っていた宦官 魏忠賢の愛顧を受け高官に登ったが、毅宗が即位すると魏忠賢は誅せられ、瑞図も連座して官を下って民となり詩文書画に余生をおくった。明時代の本流は平明で風格ある文徴明を中心としていたが、新しいロマンチズムが台頭し激情的、あるいは華麗にして新鮮な風がおきてくるが、張瑞図もその一人であった。

本書は幅 絎207cm ,横55㎝ 全文503字である。

 

18. 曹全碑 漢代  (金 泥)

隷書は秦の程邈(テイバク)が小篆の繁雑さを省いて作ったものとされ、漢代に装飾的になる。隷書は漢代に絢爛たる一時代を築くが、その掉尾を飾ったのがこの曹全碑である。

曹全碑は万歴(16世紀)の初めに出土したもので当初は傷みが少なかったが、業者が拓本を取ったあとに傷を意図的につけていった為に傷みがひどくなって行った。本文は849字である。曹全はあざなを景完といい、やがて孝廉(コウレン)に挙げられ郎中の官に除せられ、西域戊部司馬を拝した。黄巾の乱に際して選ばれて郃陽令を拝し動乱を収拾、そこで群僚たちがその高徳を表彰するために、その功績を石に刻したのがこの碑である。しかし漢帝国の滅亡に際し、急拠この碑は埋められた。

 

19.風信帖  空海  (金 泥)

風信帖は空海が最澄にあてた手紙3通を合わせたものである。

書き出しに「風信雲書・・・」とあることから「風信帖」と呼ばれる。京都の教王護国寺(東寺)に所蔵され、国宝に指定されている。風信帖はもともと5通あったが、盗難にあったり、古筆愛好家で名高い豊臣秀次の懇望によって割譲されたりして二通が失われたと跋文に記されている。

空海の書は日本の名筆中の名筆と称せられ、上代の日本の書道の頂点であるといわれている。

 

20.古今和歌集  (銀 泥)

勅撰和歌集の始まり。醍醐天皇の下命により紀貫之、紀友則、凡河内躬恒(オオシコウチノミツネ)、壬生忠岑(ミブノタダミネ)撰。六歌仙、撰者らの歌約1100首を収め、優美、繊麗な歌集。

 

21.赤壁の賦  蘇軾(ソショク) (銀 泥)

1082年7月 友人と一夜赤壁に遊、さらにその冬別の友人と再遊した時の作。前者を「前赤壁賦」、後者を「後赤壁賦」という。

「赤壁の戦」

三国時代 孫権、劉備、の連合軍と曹操の軍との戦い(208年)。曹操の兵船や陣営を焼き払い、勝利を占めた。これにより江南の大部分は孫権に、劉備は巴蜀を得て天下三分の形勢が生じた。

 

22.    蘭亭序  王羲之

王羲之は晋代の永和9年(353年)9年3月3日、現在の県知事に相当する役職に任命され會稽に赴任した。

そこで地元の名士を園遊会に招待。謝安、孫統、王彬之等羲之の子 凝之、徽之、操之たち計41人と會稽の蘭亭で曲水の宴をひらいた。

曲水の宴は中国の年中行事の一つで3月上巳(ジョウシ)3日(桃の節句)に、参会者が曲水に臨んで上流から流される杯が自分の前を過ぎないうちに詩歌を作り杯をとりあげ酒を飲み、次に流す。

終わって別堂で宴を設けて披講(註)するものである。その時作成した参加者達の詩に微醺(ビクン)を帯びた羲之が鼠鬚筆(ソシュヒツ)を揮って序文を書いた。

これが世に名高い蘭亭序である。

全文28行、324字で同じ字はみな別の形に作っている。後に幾度書き直してもそれ以上ものは出来なかったと云う。羲之自身もこれを愛重(アイチョウ)し、子孫に伝えて七代の孫智永に至った。智永は臨終に際して、弟子の辯才にこれを与えた。

 

唐の太宗は名筆を愛し、特に羲之の真筆を全国から集めたが、蘭亭序だけは得ることが出来なかった。やがて辯才が所持している事を知った太宗は監察御史の蕭翼に命じ、蕭翼は辯才を巧みに誑(タラシ)込み、これを手中にし、太宗に届ける。気落ちした辯才はまもなく世を去っている。

 

太宗は手に入れた蘭亭序を虞世南、欧陽詢、豬遂良等に臨本を作らせて、これ等が現在に残っている。蘭亭序の墨本は太宗が棺中に納めさせて真筆は永久に姿を消す事になった。

 

(註)披講(ヒコウ)詩歌の会や歌合わせ等で詩歌を読み上げること。

当時の役人は総て、そして文化人もまた詩を吟じ、書を能くするのは必須の条件であった。

2021年

4月

25日

私と金泥の書(その三)作品解説 1/ 3

金泥の書 作品解説 

1.源氏物語 2.風姿花伝 3.平家物語 4.歎異抄 5.千字文  6.梁塵秘抄

7.方丈記 8 徒然草 9.紫式部日記  10.奥の細道    

  

1.源氏物語 紫式部(金泥 全38巻) 

 源氏物語は様々な疑問を生んできた。

 イ.宇治十帖は別人が書いたものではないか。

 ロ.五四帖は現在の順序で執筆されたものではないのではないか。 

空蝉、夕顔、末摘花、玉鬘の部分は後に挿入されたもではないか、等々である。

しかし、いずれにせよ小説としての出来栄えは見事なもので、宿直の場面「雨夜の品定め」の中で、若い貴族達が様々に女性を語るが、源氏がこれを聞きながら「何も分かってないなぁ」と思うところや、女三宮が柏木と密通して源氏がこれを知った時の心の動きや、柏木に嫌味を云う場面はまるで20世紀文学を彷彿させるようである。

物語としての前半は女が男のふた心に悩み、後半は女が自分のふた心悩むことがテーマ

となっており、前半は光源氏の名のとおり昼で、後半は闇の部分となっている。

登場人物の薫、匂の宮に象徴的に示されているのだ。

 

2.風姿花伝 世阿弥 (金 泥)

「秘すれば花なり」が特に宣伝されており、日本芸能の核心をつく一言でもある。

「時分の花をまことの花と知る心が真実の花に猶遠ざかる心也」「老骨に残りし花」「この花よりは大方、せぬならでは手立あるまじ」等まことに納得させられる名言が語られている。

 

3.平家物語      (金 泥 12巻)

平氏積年の願いを平忠盛が昇殿を許され実現しようとしたが、貴族達がこれを「殿上闇討」にしようとする。

宮廷貴族達が宮中の総てをとり行い政治を動かしていたが、忠盛という武人が割り込んでくるのが我慢ならなかったのである。

闇討ちといっても殺害するのではなく大恥をかゝして、その力を削ぐのが目的であった。これを知った忠盛は剣を帯びた屈強な従者を従えて、貴族達を恫喝これを封じ込める。

又権力を握った清盛が市中にきらびやかな衣装をまとった童子達を送り込み、反平家の人々を取り締る。

宇治川の合戦で義経配下の梶原景季(カゲスエ)が磨墨(スルスミ)に、佐々木四郎高綱が生唼(イケズキ)にうち跨り先陣争いする場面、川中に張った網を刀で切り拂いながらの描写は、まるで活劇のようであり、読み物としてのみどころが多い。

 

4.歎異抄    (金 泥)

この書は親鸞の語録を本とし、それによって親鸞の死後に現れた異説を嘆きつゝ親鸞の正意を伝えようとしたもので、十章以降は弟子の唯円(ユイエン)が師の主話を汲んで書いたものとされている。九章までの力強さが、十章以下とでは大きく異なるのはその為でもある。

歎異抄と云えば三章の「善人なおもて往生とぐ、いはんや悪人おや」が有名であるが、五章の「親鸞は父母の孝養のためとて、一遍にても念仏をまうしたることいまださふらわず」。

二章の「たとひ法然聖人にすかせまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」とまことに衝撃的な内容が詰まっていて驚かされる。

今日でも依然として多くの人に読まれる所以である。

 

5.千字文   (金 泥) (銀 泥)

千字文は四言の韻文で綴られた一千個のそれぞれ異なる文字の集まりで、作者は梁(リョウ)の周興嗣(シュウコウシ)である。

梁の武帝が「王羲之の書千字を次韻せるをあげて、並びに興嗣をして文をつくらしむ」とあり周興嗣は一晩かゝって千字を用いた整然たる韻文を作り、武帝に奉ったが、その苦心の為に髪の毛が真っ白になったという。

 

6.梁塵秘抄 上・下 (金 泥)

後白河法皇が編んだ平安時代の歌曲、今様とよばれるものゝ歌詞の集大成である。

二部から成っており、第一部は今様その他の歌詞を集め、第二部は法皇の意見、感想、思い出などを記した覚書である。この時代成熟した貴族文化は極限に達し、形骸化して行った。新しい血が必要になったのである。法皇は老いて引退した今様の名手、遊女乙前を探し出し宮廷内に住まわせて12年間彼女に師事したのである。乙前が84才で没すると50日間、毎日阿弥陀経を誦(ヨ)みその極楽往生を願ったという。

 

有名な一説  

遊びをせんとや生まれけむ 戯せんとや生れけむ 

遊ぶ子供の声聞けば 我身さへこそゆるがるれ   

がある。

 

7.方丈記  鴨  長明 (銀 泥)

鎌倉時代の随筆。長明は強情片意地な性格があったようで後鳥羽院が長明に音楽、和歌

の才を認めて鴨後祖神社の祢宜に任じようとしたが、これを拒否して、出家している。

人生の無常を簡潔、清新な和漢混淆文で書きあらわしている。

 

8.徒然草 吉田 兼好(金 泥 4巻)

兼好は後二条天皇の御代(1302~1308年)、朝廷に仕えたが、30才頃に官吏の身分を離脱して遁世者となった。

彼は世俗とも仏道とも異なる第三の道を模索し、世俗にも惑溺せずに仏道にも真に徹底出来ない自己を心身の安静に生の意義を見出している。

徒然草は、世の中を豊かな関心と興味をもって具体的に描き出し、自分史の自由な発想のもと自在に書きあらわしている。

 

9.紫式部日記 紫式部 (銀 泥)

紫式部が中宮彰子に仕えた1008年から約1年半にわたる日記と消息文よりなるもので、藤原道長邸での生活、彰子の出産等が描かれている。

 

10.奥の細道 松尾 芭蕉(銀 泥)

元禄2年(1689年)3月27日江戸深川を出発、門人曾良と共に奥州各地を行脚し、北陸道をへて美濃路の大垣に入る。9月6日伊勢神宮に向かって大垣から船で出発するところで筆を止めている。別号に桃青、泊船堂、釣月軒、風羅坊がある。

 

2021年

4月

20日

私と「金泥の書」( その二 ) 作品一覧  書き続けた作品の数々

「金・銀 泥の書」 作品一覧           

これらの作品は本ホームページの「作品集」及び「展覧会」の項目にて、特に源氏物語に関しては「源氏物語書写」の項目にてご覧いただけます。             

( 最近の作品の一部はまだアップが間に合わないものもあります)

 

1.源氏物語   金泥 全38巻  

2.平家物語 金泥 12巻  

3.徒 然 草 金泥  4巻  

4.和漢朗詠集   銀泥   上・下  

5.梁塵秘抄 金泥    上・下

6.風姿花伝 金泥

7.奥の細道 銀泥

8.紫式部日記 銀泥

9.子規句集 金泥

10.日本書紀 金泥

11.古 事 記  銀泥  上・下

12.方 丈 記  銀泥

13.古今和歌集  銀泥

14.佛説阿弥陀経 金泥

15.曹 全 碑  金泥

16.西園雅集図記 銀泥

17.集字聖教序  銀泥

18.自 叙 帖  懐素  金泥

19.歎 異 抄  金泥

20.千 字 文  金泥

21.千 字 文  銀泥

22.風 信 帖  金泥

23.般若心経 金泥

24.般若心経 (隷書)銀泥

25.  般若心経 (草書)金泥

26.  般若心経 (草書)銀泥 

27.赤壁の賦  銀泥

28.源氏物語の一節   金泥

29.  春日酔起言志  銀泥

30.  蘭 亭 序  金泥

31.  五行律詩 李白  金泥 

 

書きたいもの、残しておきたいものがまだまだ沢山あります。 筆が持てなくなる日まで書き続けるつもりです。

 

次回の「金泥の書」(その三)では作品の内容の解説等を掲載します。

 

2021年

4月

16日

私と「金泥の書」( その一 )魅せられ、そしてライフワークに

「金泥の書」について   

  

(一)50才で銀行を早期退職し隠居生活にはいって3年。1993年に銀座の緒方画廊で初の個展。佛画18点を以て開催して以来23回の個展となった。内容は佛画を中心に書、刻字、版画、篆刻と拡がった。

しかし20年も経つと片手間仕事のような現状に、自分の非力は十二分に自覚しているものゝ何か物足りないライフワークとしての「自分だけの作品」を探している自分を発見した。その頃銀座伊東屋で歯科医師であり、金泥作家でもある静岡県清水市在住の福島久幸さんの個展で金泥の書に出合い、その美しさに驚嘆し、金泥の書について教授を頂いた。

私自身大腸癌の手術直後で再発の懸念もあった事から、余命も考慮、金泥の書に取り組もうと決意した。

金泥の書は天平時代に写経の作品が作られ、平安時代平清盛が厳島神社に奉納した納経で有名であるが、その後急速に後継者が失われて、歴史に埋もれて来たのである。

現代の金泥作家は私の知るところ福島久幸さん以外には寡聞にして聞かないのである。

何とかこの伝統を引き継いでいく事の一助になればとの思いが強まった。

しかも書家の人達に期待するのは難しい。第一、費用が掛かりすぎる。従って書き直しが出来ない。総て一発勝負である。時間も相当掛かる為である。

 (註)福島氏は2014年8月25日死去 享年92才。

 

(二)先ず取り組んだのは無謀にも源氏物語全巻書写である。

本来ならば一行2㎝幅で書く予定であったが、これでは80巻6~700mとなる事と費用が掛かりすぎる為に1㎝幅で38巻で延べ300mとした。延べ100万字である。

毎日5時間正座して取り組み、2年間を要した。完成は2011年11月末であった。

途中個展の作品も作りながらである。

以降平家物語、風姿花伝、奥の細道、方丈記、徒然草、古事記 等々を描き継いでいる。

全部書き直しや誤り書きは無い。

 

次回はこれまでどのような作品を作ってきたかを「 金・銀 泥の書 」作品一覧 ( 現時点

31巻)を取り上げます。

 

(三) イ.先ず書写する作品の字数を数える。巻子が2巻以上になる場合は、どこで区切るか、巻子を何巻にするかによって字の大きさも決める。使用する本は「岩波文庫」が大半である。

ロ.次に作品の内容を理解する事も欠かせない。私の場合源氏物語は原文及び与謝野晶子訳、谷崎潤一郎訳そしてイギリス人アーサー・ウェィーリーの英文訳からの訳の3部であったが、中でもウェィリーの訳が出色で源氏が世界的に有名になったのはひとえにウェィリーの英訳が見事であったことであり、20世紀初めのプルーストやジョイスの20世紀文学と同様にヨーロッパで読まれたのである。社交界、美に対する感覚、そして人の内面についての表現等現代文学として読まれたのである。

また与謝野訳と原文と比べると優雅さや雅びさは比べるべくもない。原文の美しさは格別である。 

 

(四)「用紙」紙は何を使用したら良いかが分からず、とりあえず書道用品店に依頼し、紺紙、紫紙、濃茶紙を注文。紙を漉いてもらい、染めてもらう。

大きさは1.8m x 1.0mであり、少量では受けてもらえず、とりあえず20枚注文した。

同時に金泥も注文。1袋0.4g、時価である。膠は福島さんの説明によれば鹿膠1.3gを100㏄の蒸留水に入れて40度で溶解すると1.3%の溶液となるとの事であったが、市販の溶液で代用、ただし希釈率は不明の為に自分で判断するしかない。

私はこれを字の幅が 0.5㎝~1.0㎝の場合は4~5%、1.5~2.0㎝幅の場合は7%、4㎝となると12%~15%としている。

 

銀泥の場合はすべて18%~20%に溶解したものでなければ定着は難しい。又季節にもより、一日では終了せずに溶液が残った場合等の事もあって、本文にとりかゝる前に別紙に1~2字試し書きをして、乾いたあと指で擦って定着を確認する。

金・銀泥は高価の為に、最小量の量で定着するかを見定めて使用する事が大切である。

私の場合0.4gを使用して3000~4000字数としてひと文字1㎝ 幅で書けるのである。

 

(五)「筆」使用する筆は鼬(イタチ)毛の面相筆を使用しており、硯を使用しない。

(絵皿使用)為に1本で100万字は書けるのである。

 

(六)金泥の書で日本の古典文学を書写する場合、毎日一定時間必ず書く事。

私の場合来客があり、夫婦喧嘩があっても酒を飲んでも休まないで書いている。

そこに座ったらすぐにスイッチが入り、書くモードが出来なければ長文の書写は到底出来ないのである。

 

(七)書き終わったらこれを猪牙で磨く。書かれた金泥の書は平らにみえても、細かい凹凸があり、その為に乱反射して光らないのである。為に表面を擦って磨き、平らにして反射を統一する事によって光らす事と、金泥を紙に定着させる二つの意味がある。

象牙は表面に細かい管があり、その管に金泥が付着するが猪牙にはこれがない為に猪牙が使用されるのである。

これからも日本の古典文学を書き続けていきたいものだ。

 

ご参考:本ホームページの項目の中に「源氏物語書写」があります。巻子38巻を全巻 動画にてご紹介しておりますので是非ご覧ください。 

 

2021年

4月

14日

作品紹介 九面観音、石佛、深大寺 倚像

  九面観音( 室町時代 )

 

        石 佛 (自宅)

      

      深大寺 如来倚像

2021年

4月

01日

刺客列伝のうち 荊軻(ケイカ)史記 2021年に読んだ本 12

刺客列伝のうち荊軻(ケイカ)史記 司馬遷  2021/3/24

 

紀元前3世紀の初め戦国時代の末期、秦は最大の強国にのし上がっていた。

首都は咸陽、領主は政。のちの始皇帝である。

 

荊軻は衛の人、燕に移ってからは燕の人は彼を荊卿と呼んで尊敬した。

荊卿は読書と剣を好んだ。

やがて秦に人質としてとられていた燕の太子丹が怨み抱いて帰国、秦に仇討ちをしてくれる人物を探していた。当時秦は斉、楚、三晋を下して全国を統一する勢いを示しており、遠からず燕も支配されることが心配されていた。

丹の教育係 鞠武(キクブ)は「どうして冷遇された恨みなどで秦の逆鱗にふれるようなことをなさるのか」と丹を諫めた。

又秦の将軍 樊於期(ハン キオ)が燕に亡命してきて丹はそれを受け入れていたが、これに対して「早く将軍を匈奴の土地へ入らせて人のうわさを消しておしまいなさい。

どうか西は三晋と、南は斉、楚と同盟し、北は匈奴と講和を結んでください」と進言。

丹は進言を受け入れない。そんな薄情な事はできない、と。

そこで 鞠武は対策として田光先生を丹に紹介。田光は「私は老いさらばえて駄馬にも劣る」として荊軻を丹に紹介する。丹は田光に「この事は決して口外しないように」と釘をさす。田光は荊軻に依頼した後、丹に疑われた事に対して「口外しないことを示した」と自害する。荊軻は丹に秦王殺害を了承し、条件として「 樊将軍の首と燕の南境の地 督亢(トクゴウ)の地図を秦王に献上する事」を要求する。

 樊将軍殺害に同意しない丹に対して、荊軻は 樊将軍に直接談判し、 樊はこれを了として自害する。 いよいよ勇者秦舞陽を従え樊の首と地図を携えて秦に到着。

秦王は正装に身をかため、最高の儀礼を整えて首都咸陽の宮殿で燕の使者と会見。

秦王「舞陽どのの携える地図をこれへ」、秦王の言葉に、軻は地図を献上する。

秦王は地図を開く。拡げ終わって匕首(アイクチ)があらわれた。荊はすかさず左手で秦王の袖をとらえ、右手に匕首をもって秦王に突きかかる。秦王は柱をめぐって逃げる。

秦の法律では殿上にひかえる家臣は身に寸鉄を帯びてはならないとされている。

従って荊軻を打つすべもない。侍医の夏無旦(カムショ)がささげていたや薬嚢(ヤクノウ)を荊軻に投げつける。その隙をついて秦王は剣を抜いて荊軻を殺害するのだ。

死亡に際して荊軻は「事の成らざりし所以の者は生きながらにして、これを劫(オビ)やかし、必ず約契を得て以て太子に報ぜんと欲せしを以てなり」と。

 

やがて秦は5年後燕を滅ぼし、その翌年秦は天下を統一して、秦の政は始皇帝と名乗るのだ。荊軻は数多い刺客の中でも取分け有名である。

秦は中国史上初めての統一国家の成立を成し遂げたが、始皇帝が死亡すると3世16年で漢の高祖に滅ぼされる。(紀元前221~前206年)

 

2021年

3月

27日

松谷みよ子 について  2021 年に読んだ本 11

童話作家 松谷みよ子 について 

1.「図書」2021年3月号に松田青子の「古びない物語の魅力」が記載されている。

松谷みよ子著「ちいさいモモちゃん」である。松田青子は「この世界が生まれていることの痛みを容赦なく描いていることに驚かされる」と語る。

 

2.もう40年以上前となるが、松谷みよ子の「貝になった子ども」を読んで強い衝撃を受けて全集15巻を購入した。

「貝になった子ども」は松谷みよ子20才の時の作品である。

 

若い母親おゆうは夏の日がじりじり照りつけている日、5才のわが子 弥一にトマトやなすの入ったボテをもたせて先に家に帰したが、弥一はそのまゝ行方知れずとなる。

おゆうは気狂いのようになって探し歩いたが見つからず、そのうち小さな子供が3 、4人白い街道を歩いているのをみて、あとを追いかけ、やがて北の海にたどり着く。

3羽の雀が話している。「弥一はしあわせだ。白い貝になったのね、いいなあ」おゆうは海の中に白い貝が見えました。おゆうのほゝにはあたゝかいなみだがすべり落ちました。作品をみせられた坪田譲治は驚嘆して「この作品はアナトール・フランスとか、アントン・チェホフなどという人の作品に交じっていても、おそらく疑いをさしはさむ人はいないだろう」と最大限の賛辞をおくっている。

松谷みよ子はこの作品で1951年第一回日本児童文学者協会新人賞を受けている。

 

3.松谷みよ子の最高の作品は多分「二人のイーダ」であろう。夏休み母親と妹と直樹がおじいさんの家に出掛けた時の事である。近所に人の住まなくなって大分経った廃屋があって、中に入った直樹は古い「いす」に出合う。3才の妹ゆうこ、自称「イーダ」は一人でまるで我が家のように廃屋で「いす」と戯れる。「いす」は直樹に語りかける「イーダはどこ」。近所のおねえさんりつ子と直樹は、この「いす」と廃屋について調べ始める。廃屋の住人は広島に落とされた原爆で老人二人が死に、孫娘一人が助かったことを知る。実はりつ子がイーダだったという。やがて予想外の結末が訪れる・・・。

3才の妹「イーダ」のあどけない可愛らしさと、大人にはない不思議な感覚はやゝおどろおどろさを秘めて、読者の前に投げだされる。物事を良く見極めた視点と不思議なメルヘンの世界が、現実のむごさをより一層明らかにするのだ。

この作品は明確なる反戦文学である。「貝になった子ども」「二人のイーダ」は児童文学に納まりきれない深い内容をもって私達の心を揺さぶるのだ。

 

4.「ちいさいモモちゃん」「モモちゃんとプー」「モモちゃんとアカネちゃん」は現実を見きわめてリアルに見つめる目と夢の世界を実にたくみに描き出し、中には夫との軋轢をもそれとなく盛り込んでいる。

 

5.松谷みよ子は1926年2月15日神田元岩井町に生れる。(2015年2月28日没)。

父は日本労農党の代議士で弁護士の松谷與二郎、母は翠、二男二女の末っ子である。1948年横浜銀行労働組合書記となる。翌年まで闘争支援オルグ等活動。1950年春結核発病、信州で療養。1952年片倉工業内に人形サークルをつくり、ここで瀬川拓男と知り合う。1955年11月瀬川と結婚。葛飾区金町4-39 (旧表示)(現在の東金町3丁目付近)に住む。(1967年離婚、1975年12月12日瀬川死去。)

1956年民話探訪、信濃、秋田。

金町の住居は『人形劇団 太郎座』の拠点となり仲間と共同生活は数年に及んだ。

その間留守番に後の白土三平がいる。(なお金町には街頭紙芝居業の雄 加太こうじがいた。)夫の瀬川拓男は東京に「人形クラブ」の創立に参加し、地域に、工場にオルグ活動を行っていた。又下町の文工隊として文化活動の一翼を担っていたのである。

 

続き 日本の民話は未来社から42巻出版されているが、やはり松谷みよ子の書いた「秋田の民話」「信濃の民話」が群を抜いて出色である。

ちなみに私の妻が1958年頃この『人形劇団太郎座』に在籍していた。

 

2021年

3月

25日

作品紹介3件 白拍子 他

 『白拍子』” 花に舞 ハ で 帰るさにくし  白拍子 "

 

 浄心寺(葛飾 新宿)の石佛 

 句は ” 菜の花や 法師が宿は 訪 ハ で過し ”                

 

   九面観音

2021年

3月

16日

廉頗(レンパ)、藺相如(リン ソウジョ)列伝 司馬遷 21年に読んだ本10

廉頗(レンパ)、藺 相如(リン ショウジョ)列傳  司馬遷 

 

趙の恵文王の時、王は楚の和氏の璧(カシノタマ 又は ヘキ)を手に入れた。

璧は環状の玉器で環の幅が孔の直径に等しいもの。

楚の和氏は玉の原石を手に入れて楚の厲王に献上した。王が細工師に鑑定させたところ「ただの石ころにすぎません」という。騙されたと思った王は罰として和氏の左足を切断させた。厲王の死後、武王が即位すると和氏は再びこれを献上。細工師は「ただの石です」と云い、今度は右足を切断された。

 

武王が死去して文王が即位。和氏は玉の原石を抱いて山中で泣いていた。文王がこれを

細工師に磨かせたところ、見事な宝玉があらわれた。これを「和氏の璧」(カシノヘキ)と名付けた。

 

秦の昭王はこの璧が趙王の手に入ったと聞き、趙王に手紙を送って15の城と璧を交換したいと申し出た。趙王は臣下達と相談、璧を秦に与えれば秦の城は手に入らず、一杯食わされるだけで、これを拒否すれば秦軍の襲撃が心配であると相談がまとまらない。

すると重臣の一人が「それがしの家令藺相如ならば使者の任に堪えます」と過去の事例を挙げて説明。王はこれにより、これを使者と任命。使者にたった相如は璧を捧げもって秦にのり込む。

秦王は遊興にふけっていた場所に相如を呼び寄せた。秦王は大いに喜び、璧を側室や側近のものに回して見せる。側近達は皆万歳と叫んだ。相如は代償として趙に城を渡す意志のない事を見とどけると「璧にきずがございます。その個所を教えて差し上げます」と王から璧を受けてると、相如は「因りて璧を持ち却(シリゾ)き立ちて柱に倚(ヨ)る。怒髪上りて冠を衝く」

大王は璧を手に入れようと手紙を趙に届けられた。趙は家臣を集めて相談したが、誰もが秦は貪欲でその強大さをたのみ、でたらめを云って璧を取ろうとしている。

城を代償にするなど実現しまいと一致したが、私の意見は、たかが璧一つの為に強国秦との友誼を無いにするのは良くない。大国の権威を尊重して十分に敬意を払うためです。しかるに璧が手に入ると遊興の場所で私と会い、傲慢なあしらいで璧をお妾共にまわし私を馬鹿にされる。

 

ここで本文「臣、大王の趙王に城邑を償うに意なきを観る。故に臣復(マ)璧を取れり。大王、必ず臣に急らんと欲せば、臣の頭、今璧を倶に柱に砕けん」と秦王は驚いて詫びを述べると、相如は大王は5日の物忌みをなさり、宮廷で正式なる引見の礼を行うべきですと述べた。

秦王は5日のものいみをして宮中で引見の礼をととのえ、相如を迎えた。

相如は「秦の繆公より以来、20余君未だかって約束を守った者はいません。私の恐るゝは大王に欺かれて趙にそむく事である。故に人をして璧を趙に持ち帰らせた。秦の強さを以て、先ず15都市を趙に与えれば、璧を秦に渡さない事などありません。臣、大王を欺きし罪誅に当ると知る」として、どうかゆで釜のところに参りましょうと申し出る。

 

結局相如を殺したところで璧は手に入らず、趙を敵に回すことは得策でないと知って、相如は厚いもてなしを受けたあと無事帰国する事になる。

 

趙ではこの功績を多とし、相如を宰相に任命する。これに対し廉頗は自分が大将軍とし

て国を守ってきたのに対し、相如は口先一つで自分より位が上になったのが面白くない。事あるごとに相如をそしる。

やがて相如が外出するとき、廉頗を彼方に見かけると車を戻させて廉頗を避けて隠れた。家令たちは「あなたは廉頗を恐れて、逃げかくれて私達は恥ずかしい」と口々に意見した。そこで「相如は秦王の威光をもってしても、私は宮廷で怒鳴りつけ、秦の家臣どもを宮廷で怒鳴りつけ、秦の家来どもに恥をかかせた。私は駄馬ではあろうが廉頗ごときを恐れようか、巨大な秦が趙を攻めないのは私達二人がおればこそ、二頭の虎が争ったら必ず一頭が倒れる。私がぶざまな姿をさらすのも国家の危急を第一と考えるからである」と。

廉頗はこの話を聞くと、相如の門を訪れ「育ちのわるい私めは、将軍がこれほどまでに

心広い方とは知りませんでした」ついに二人は友情をかよわせ、刎頸の交わりを結んだのである。

 

或る時秦王は酒宴をひらき、宴がたけなとなると「趙王どのは音楽好きだと伺っている、どうか瑟(オオゴト)を弾いて下され」趙王、竹べらがかきならす。相如が進み出て云

う「秦王は民謡をうたうのがお好きだそうで、趙王の為にご一緒に楽しみましょう」秦

王は立腹して承知しない。相如はひざまずいて秦王に頼む。秦王はかめを叩こうとしない。相如は「わずかに5歩のへだたり、一つそれがしめが首の血しおを大王にふりそそいでお目に掛けましょう」身をすててかかれば秦王の一命はないぞとおどしたのである。

秦王はやむなくかめを一度たたいてやった。いわゆる「澠池之会(メン 又は レンチノカイ)」である。

何故この事が大事であったか、趙はこれで秦の属国となるのを防げたのである。

 

文字の重要性が古来存在しており、周王朝の成王が弟叔虞とふざけて桐の葉を珪の形にきりとり叔虞に与えていった。「これで君を大名に取り立てよう」(桂とは領地権の象徴として君主より授かる玉器の一種)史官の伊佚はこのことをたてに、叔虞を諸侯にとりたてるようお願いした。成王はいった。「わしはあれと遊んでいただけだ」伊佚は言った。「天子に冗談などありません。なにか発言なされば史官が記録し宮廷の儀式のかたちで、その発言を実現完成し、雅楽部の手で楽歌にうたって公表するものです」と。

中国では前11世紀には天子、諸公の発言はすべて書記が記録して、その内容を正確に諸国に公表されていた。従ってあまりに理不尽な行為はその権力者の権威を著しく失墜される事になったのである。

 

顧みて日本の現状は公文書の破棄、紛失、改竄(カイザン)と、権力を握った暴権が跋扈していた紀元前11世紀より程度が悪いと言わざるを得ない。

「完璧」壁を完うするの意。「怒髪天を突く」「刎頸の交わり」等の語源はここにある。

 

2021年

3月

10日

項羽と劉邦  史記(司馬遷)朝日新聞社 21年に読んだ本 9 

項羽と劉邦 史記(司馬遷) 朝日新聞社  

 

そもそも本記とは帝王の事跡を叙述するもので、項羽はどちらかと言えば外伝に載せるべきものであろうが、本記にのせたのは項羽がそれだけ重要人物であったからである。

 

秦の始皇帝が戦国期の六ヶ国を滅ぼして中国に初めて統一国家をつくったのは前221年のことであった。しかし彼が死去すると宦官趙高が権力を握って承相李斯を獄死させ、自ら承相となり横暴を極めた為、たちまち帝国は根本から揺らぎ始め、人々の抑えに抑えていた憤懣が爆発し、群雄が再び立ち、戦乱の坩堝と化した。

中でも楚の中から出現した二人の人物が秦帝国を打倒するのである。

その頃のヨーロッパはローマ帝国がカルタゴの勇将ハンニバルに大敗を喫した時期でもあった。

項氏は代々楚の将軍をつとめた家柄であった。項羽の叔父である項梁は頭角を現わして、打倒秦の中心人物となる。項梁は戦乱の中で死亡するや、あとを項羽が継ぎ、秦滅亡のあとを担う中心人物になって行く。

劉邦は項羽に対抗するまでの勢力を有していなかった。

項羽の軍は進軍して、函谷関に到着したが関所を守備する部隊がおり、入る事が出来ない。劉邦が諸侯の入関を阻止する為に部隊を派遣しておいたのである。しかし劉邦が首都咸陽を破り「関中の王なるつもりで秦王室の珍宝類は全部自分のものとしている」との讒言があり、激怒した項羽は函谷関を攻撃して関中にのり込む時に項羽の兵力は40万人、劉邦の兵力は10万人である。ここで有名な「鴻門の会」が行われた。

項羽は軍師范増の勧めによって劉邦を殺害する事とする。会場の上席には参謀亜父范増が座る。范増は項羽のいとこ項荘に祝いの名目で剣の舞をやらせ、機会を狙って劉邦を殺すように指示する。かつて張良から命を救われた恩を受けている項伯は立って同じく剣舞いをおこない、項荘の企てを妨害する。そこへ、劉邦の部下で劉邦の正妃呂后の妹婿樊噲が陣幕内に侵入、項羽をにらみつける。頭髪は逆立ちまなじりはひき裂けんばかり、これをみた項羽は「偉丈夫じゃ、この男に酒杯をとらせい」と一目でその豪傑振りに惚れ込むと、急に劉邦を殺害する気がなくなってしまうのだ。

劉邦はその間にここを脱出して自陣に戻る。

范増はこれをみて「唉(アア)、豎子(ジュシ)与(トモ)に謀るに足らず。項王の天下を奪うものは必ず沛公(劉邦)ならん。吾が属、今にこれが虜とならん」と憤嘆する。

 

その後の両者の闘いは殆んど項羽軍の勝利に帰し、劉邦は命からがら逃げ続けるが、臣下張良と陳平の計略を採用して項羽から范増を引き離す事を図る。

項羽は范増が漢と内通しているのを疑い、彼の権力を剥奪してゆく。怒った范増は「天下のことは大体決定的です。わが君ひとりでおやりなさい。おひまを頂戴して部隊に帰らせてもらおう」と離脱。途中背中に腫れものが出来て范増は死亡する。

項羽の唯一のブレーン・トラスト范増を手放した為にその後項羽は滅亡の道をたどる事となる。

 

一方の劉邦には参謀の張良、大将軍韓信、財政、軍の兵力補強、食料確保を一手に引き受ける蕭何を有し、有能な人材を多く抱えていたのである。

やがて大勢は次第に劉邦軍に傾いて行き、両者は天下を二分して支配する事で合意。

項羽は軍を引き連れて戦闘体勢を解き、東に帰って行く。西に帰るつもりの劉邦に張良、陳平は「今こそ天が楚を滅ぼす時で、今をおいてない。楚は兵力が疲弊して食料も底をついている」と進言。劉邦は二人の勧告に従い項羽を追撃する。

前202年漢の劉邦の軍が垓下の地で項羽軍を包囲。「項羽の軍、垓下に壁す。兵少なく食尽く。漢軍及び諸侯の兵これを囲むこと数重、漢軍の四面皆楚歌するを聞く。項王、乃ち大いに驚く。漢、皆已(スデ)に楚を得たるか。是れ何ぞ楚人多きや」と嘆く。

実は漢の策略で楚の歌を漢軍兵に歌わせたのであった。

 

項羽はここで哀調をおびて歌う。

「力は山を抜き 気は世を蓋う 

時利あらず 騅逝かず 騅逝かざるを 

奈何すべき 虞や虞や若を奈何せん」 

歌うこと数闋(ケツ)美人これに和す。

大王涙数行下る。

唱和した美人の歌「漢の兵 已(スデ)

に地を略し 四方楚歌の声 

大王 意気尽きたり 

賤妾何ぞ聊(ヤス)んじ生きん」

 

項羽は囲みを破って脱山、騎して従う者八百余人。やがて「東の方烏江を渡らんと欲す。烏江の亭長船を檥して待つ。項王に謂いて曰く「江東小なりと雖も、他は方千里、衆は数十万人、亦た王たるに足るなり。願わくは大王、急ぎ渡れ、今独り臣のみ船あり、漢軍至るも 以て渡るなし」

ここで項羽は「天の我を亡ぼすに 我何ぞ渡るを為さん 且つ籍、江東の子弟八千人と江を渡りて西せしに、今一人の還るものなし、たとえ江東の父兄憐れみて我を王たらしむとも、我何の面目ありてか、これに見えん、たとえ彼言わずとも〇独り心に愢じざらんや」と語ってここで戦い自刀する。

 

烏江の亭長がこのような暖かい呼びかけを行わなかったら、項羽はこれを切って舟で渡ったことであろう。亭長の言葉で逃げる気分が変わったのである。

 

「鴻門の会」で樊噲の偉丈夫振りをみて劉邦殺害の気が失せた場面と云い、時利あらずして騅行かずの自分に力がなかったり、失敗があったのではなく唯時が自分に味方しなかった為の結果を語る場面と云い、誇り高い項羽の人柄を余す事なく見事に描き切っている。又豪傑である為に、他人の云う事を聞かずに何事も自分が決定したがるあり方も、劉邦の自分の実力を知って臣下の力に依存するやり方と対比して味わい深いものがある。

 

司馬遷は滅びの美学を描きたかったのであろうか。

物語の最後に項羽の死骸を多くの騎武者達が互いに踏んづけあって争奪し、同士討ちで数十人もの死者が出て、あげくのはてに五人が切り刻んだ肢体を劉邦のもとに持ち込む。

恩賞に預かる為だ。司馬遷は戦争の残忍さも見逃さずに記述している。

 

2021年

3月

01日

管 仲   宮城谷 昌光 著 文春文庫 21年に読んだ本 8

管 仲 宮城谷昌光 著 文春文庫             

 

「管鮑の交わり」で有名な管仲の物語である。

管仲は周都に於いて若者の教育を行っていた。16才の鮑叔(ホウシュク)は周都に修学にのぼって管仲の教えを受ける。管仲は半月後家族の病気のために故郷に帰る。

管仲の居ない周都に興味を失った鮑叔は諸国を巡って鄭の太子に見込まれて、家と従者達を与えられたる。

鮑叔は太子の許しを受けて管仲を鄭に呼ぶが、太子は管仲が気に入らず取り立てない。

鄭の軍事行動に参加した管仲は間(カン)人と疑われて、拷問をうけるが、罪は晴れて釈放され、商人に転進する。友人の鮑叔は、今の生活を離れてこれに同行する。

様々な困難のあと鮑叔は故郷斉の僖公から公子糾の輔弼、管仲には弟小白の輔弼を命じられる。

僖公が崩じると太子諸児は即位し「襄公」と呼ばれる。暴虐な「襄公」に危険を察した鮑叔は小白を連れて斉を脱出する。冷遇されていた公孫無知に「襄公」弑逆されて、後を公子糾と小白が争う。

糾の輔弼管仲に弓を射られて、すんでのところで命拾いをした小白は糾を倒して即位するや、鮑叔の薦めで管仲を宰相に迎える。管仲の政治、軍事、行政能力はやがて斉を諸公に号令する覇者へと導くのである。

 

理想の宰相として名高い管仲を取り上げているが、時の中国の勢力争いの構図が今一つはっきりしていない前11世紀、殷を滅ぼした周王朝は前771年幽王が崩ずると東西に分裂し、東周はまもなく滅亡し、東周も力を失いつゝあり、春秋時代に突入する。

宗主国としての周王朝の権威は未だに残っていたものゝ、実質的な力は諸公に移行していったのである。管仲、鮑叔はまさにこの時代を生きた。

 

そこで極めて大事なのは、この時代がどのような時代であったかを、先ず俯瞰して示す事である。周王朝の実態はどうであったか。

諸公を集めて号令する出来たか、朝貢は行われていたのか、軍事力は、勢力図は、財政は等々。又諸公との関係はどのようなものであったか、諸公間の合従連衝はどのようであったかが、語られていない為にその辺のところが理解しずらい。

又肝心の管仲と鮑叔は非常に能力が高く、高潔な人物であるのは作品中で何度も繰り返

されて良く解ったが、人物像が浮かび上がってこない。それでも管仲と鮑叔の関係はそ

の発想力と行動について理解を深め、教育し合う事によって尊敬と信頼を高め合い刎頸

の友となっていったのである。

 

桓公と管仲の関係は、自分の命を狙って弓を引いた管仲を鮑叔の勧めはあったが、宰相に据えた懐の深さを考えると何か中曽根首相と後藤田官房長官の関係が思い起こされる。

後藤田は中曽根の政策実行に関して、自分の考えを決して曲げることなく、諌言をしており、実行を止めている。後藤田は中曽根を「私は彼を人間的に好きではないが、だからと云ってともに仕事が嫌だと言うのではない」と語り、中曽根は後藤田を「私はタカ派で彼はハト派だ。自分が暴走しそうになると、彼はそれを止めてくれる」と語って、二人の関係を明らかにしている。お互いに信頼と牽制といった緊張感に満ちた関係であり、互いに成熟した政治家達であったことを窺わせる。

 

国会答弁で官僚の書いたメモを棒読みにする一方、裏では自分の意に沿わない人物達を強権を振って容赦なく切り捨てるどこぞの総理大臣は、桓公と管仲の関係を勉強して欲しいものである。実に見苦しい。

 

2021年

2月

26日

今西錦司とはいかなる人物か

今西錦司とはいかなる人物か   2021年2月26日

 

1.1902年1月6日京都西陣の織物業の家に生れる。屋号は「錦屋」と言い、西陣の織元の中ではトップクラスで銀司が生まれた頃は総勢30人もが働いていて、その中心に祖父平兵衛がいた。平兵衛は進取の気性に富んでいて、織物の研究のためヨーロッパにも出掛けており、最新のジャガード織機の導入から、これを改良して新ジャガード織機も考案している。

又同業組合の頭取うあ商工会議所の役員を歴任、京都市議会員もつとめていた。

 

2.当時の京都には未だ自然が多く残っており、銀司は小学3、4年生の頃には昆虫採集を始めており中学入学の頃には特に蝶の採集コレクションを驚くほど有していた。

 

3.13才で富士登山、16才で同級生と青葉会をつくり山城30山を設定し、登山に傾倒する。1年浪人の後、第三高等学校入学。1925年京都帝国大学農学部入学。’28年卒業、結婚。’31年ヒマラヤ遠征計画をたてるが、満州事変で中止。’32年樺太、東山山脈を踏破。理学部大学院を終えて研究嘱託となる(無給)。’33年加茂川のカゲロウの棲み分け発見。’39年京都探検地理学会設立、内蒙古調査。同年「日本渓流におけるカゲロウ目の研究」で理学博士の学位をうける。’41年ポナベ島へ生態調査。同年「生物の世界」出版。’42年中国東北部の大興安嶺を63日で縦断。’44年内蒙古奥地調査(9月~翌年2月)。この頃まで登山、探検は藍染めの足袋・脚絆に草鞋履きである(蝮よけのため)。

尚今西の生活費については三高卒業の直前’25年2月父平三郎はガンで死亡。

家の商売は既にやめていた。生活は家作があってその賃料を当てていたのである。

 

’48年京大理学部講師となり、始めて常勤講師となる。同年宮崎県都井岬でウマの調査を開始。その間ニホンザルの一群に出合ってサルの調査に転向する。’52年日本山岳会マナスル登山の先発隊長として、ネパール、ヒマラヤを踏査。宮崎県幸島で二ホンザルの餌付けに成功。’58年第一次ゴリラ調査隊長としてアフリカ調査。’61年京大類人猿学会調査隊長としてアフリカへチンパンジー調査。’63年第2次アフリカ調査。

’79年文化勲章受賞。’85年83才で奈良県白鬚岳1,378m登頂成功。日本登山史上例のない1、500山登山達成している。頂上ではいつも酒盛りを楽しみ「酒は山の上でこそうまい」と語っている。彼は頑固一徹でやれ個体識別だ、長期観察だ、熱帯林だ、サバンナだと野外を流れ歩きまわったあとに、日本の霊長類学や、日本のアフリカ地域研究が育っていった。

 

彼は学術探検のリーダーだった。青年たちに対する指導は徹底したもので、常に自然を正確に自分の目で見よというのが基本であった。彼はフィールドにおいては比類のないリーダーであって、登山においても探検においても研究活動においても常に優れリーダーシップを発揮し、若者たちはそのリーダーぶりに心服してフォロワーとしてついていったのである。

彼は自由人であり何事にもしばられることを最も嫌った。自分のやりたい事を自分のやり方でやり遂げる。彼は自分でも野人と称していたが、京都というなかで人間形成を行った都会人であり、生まれながらの自由な近代的市民であった。

彼の率いる様々なチームの関係はドライそのもので若いメンバーの間では「団結は鉄よりもかたく、人情は紙よりもうすい」と語合っている。

晩年は「自然学」の提唱を掲げて進化論研究の締めくゝりとした。

        (1992年6月15日没 90才)

2021年

2月

10日

私の進化論 今西 錦司 全集第10巻 21年に読んだ本 7

(7) 私の進化論  今西錦司 全集第10巻 1970 年

 

1.ダーウィンの進化論について

 イ.生存闘争における適者の生存というところから出発しており、生存闘争において  どの個体が生き、どの個体が生きそこなって死ぬかという同種のなかにおける個体対個体の関係が問題であり、少しでも有利な条件をそろえた個体が生き残ることを自然淘汰といったのである。ダーウィンの進化論は生物の世界を生存闘争に終始する世界とみなし、この生存闘争の結果、適者が生き残って、不適者が死滅し、優者が勝ち残って劣者が敗れることを繰り返しているうちに、しだいに生物の進化ということも認めるようになるというものである。

ダーウィンの進化論は自然淘汰であるが、これでは種の枠をこえることは出来ない。

そこでその弱点を補う形で役割を果すことになったのが、突然変異論であった。

 

 ロ.しかし、突然変異の発生する頻度は驚くほど低く、発生した突然変異のほとんどが

その種にとって有害なものが多く、進化の足しとはならない。

たまに有用なものが出来たとしても個体中の1個体が現れたぐらいではどうにもならない。

 

 ハ.進化は千篇一律の速度ですゝむのではなく、環境の変化に応じて、比較的短い時

間のあいだに進化は急テンポで進行し、それによって環境に対する適応ができるように

なれば、進化のテンポはにぶり、あるいは停頓するようにもなるのではないか。

環境の変化に適応しなければならないのは生物の個体ばかりではなく、生物の種も種の

立場で、これをやらなければならない。種そのものが、その構成要素の一つとなってい

る生物の全体社会になにかの原因で大破壊がおこり、そのあと再建しなければならない

とき、種を維持しつゝしかも種は変ってゆくのではなくてはならない。

種の生命は個体の生命をこえて、持続してゆくものでなければならないのである。

種はこの要請を種に属する個体のすべてを出来る限り同質にしておくことによって満た

しているかのようである。こうしておくことによって、どの個体が死に、どの個体が生

き残って子孫を残そうとも種は変らず存続することが保証されるからである。

種は同じ環境の変化に対して、同じように反応し、同じように変化するものでなくては

ならない。同じように変化しながら結果的には違う種にまで進化して行くものでなけれ

ばならない。この場合自然淘汰はこの進化をわきから護衛するものではあっても、進化

をすゝめている主体はどこまでも種そのものにあるのでなければならない、とする。

 

 .今西は同種の個体間に甲乙がないということを前提にしており、どの個体が生き

死んでもさしつかえないように同種の間に甲乙があってはならないと述べている。

ここにダーウィンの適者生存と自然淘汰との大きな違いがあるのだ。

 

2.人類の進化について

 1400万年前に生れた人類の祖先は未だ二足歩行をしていたか確かではないが、200万年前には二足歩行が確認されている。樹上から地上に降り立ったのであるが、人類の一

部が好奇心か何かで下りてきたのではない事は、この時代アフリカでもインドでも時期

を同じくして二足歩行が始まったことが判明している。

人類もサルの一種から人類に変わったのである、その進化の特徴的なことは3つあり、

1つは四足歩行から二足歩行に変わったこと。2つは頭が大きくなったこと。3つ目は

歯が弱小化したことであるが、一番基本的変化は二足歩行である。

化石の研究で人類を見分ける手がかりは二足歩行であったか否かが決定的である。

人類は1400万年前から200万年前までの長い間をかけて二足歩行を準備して来たとも云えるのである。

世界中の人類がほゞ期を同じくして地上に降り立って二足歩行を開始して人類となった。

今西ははこれを「人類は立つべくして立った」と表現している。

今日世界には実に250万種に及ぶ生物が存在しているが、弱肉強食の世界ではなく、各々が上手に住み分けて生存しているのだ。

 

2021年

2月

05日

「内蒙古の生物学的調査」から及「草原行」今西 錦司 全集第2巻 21年に読んだ本 6

№ 6「内蒙古の生物学的調査」から及「草原行」  今西 錦司 全集 第2巻

 

1938年に行われた「京都帝国大学内蒙古学術調査隊」への参加を第一回とし、1939年

には専門の立場から僅か2人での調査隊である。

当時はすでに登山家として有名であった今西が、山のないモンゴルの草原の植物生態的

研究に何故これ程の情熱を傾けたのかは、読んでみると、又この後の今西の活動を考え

ても良く解ってくる。

日中戦争状態のなかで、遠征費も乏しく、装備も著しく不足、調査の運送手段にも事欠

き食料や水不足に悩みながら、草履、脚絆履きで地図もなければ道もない中で植物、動

物の生息状態や分布を丹念に調査している。特に植物調査にはさすがに詳細を極めている。又草原に点在する内蒙古人の小部落の生活と経済活動も良く見極めていて、その視

点はリアルである。大半は野営であり、食料も不足し、困難を極めるなかでの興味を惹

くものは何が何でも追求せずにはおかない好奇心とエネルギッシュさで、まさに驚くべ

きものがある。

 

2021年

1月

31日

生命の世界  今西 錦司 全集 13巻 21年に読んだ本(5)

(5)「生命の世界」 今西錦司 全集13巻 

1937年7月7日 盧溝橋事件をきっかけに日本軍が中国に攻め入り、日中戦争に突入。

今西は「生命の世界」の序に次のように書いている。

「今度の事変が始まって以来、私にはいつ何時国のために命を捧げるべき時が来ないと

も限らなかった。私は子供の時から自然が好きであったし、大学卒業後もいまに至るま

で生物学を通して自然に親しんできた。まだこれというほどの実績ものこしていないし、やるべきことはいくらでもあるのだが、私の命がもしこれまでのものだとしたら、私は

せめてこの国の一隅に、こんな生物学者も存在していたということを、何らかの形で残

したいと願った。それも急いでやれることでなければ間に合わない。この目的に適うも

としては、自画像をかき残すより他にはあるまいと思ったのである」と。

 

1939年、10年に亘る研究の成果である「日本渓流におけるカゲロウ目の研究」で理学

博士の学位を受けるが、当時の新聞には「登山家が博士に」と報じられている。

今西は学者というより登山家として知られていたのである。

 

1941年「生命の世界」は出版された。書下ろしである。

一章の相似と相異と二、三章で今西は地球の世界を船にたとえている。

「地球という一大豪華船に船客を満載しているというのは、地球のことであって、その

船客が他から乗り込んできたのではないのと同じように、この豪華船の建造に要した材

料もまた他から持ち込んできたものではないのである。地球が太陽から分離して、それ

が太陽に照らされながら、太陽の周囲を回っているうちに、それ自身がいつのまにか乗

客を満載した。今日にみるような一大豪華船となったというのであるから、全く信じら

れないようなことであるに相違ない。地球自身の成長過程において、そのある船の材料

となり、船となっていった。残りの部分はその船に乗っている船客となっていった。

船も船客も元来一つのものが分化したのである。船は船客をのせんが為に船となったの

であり、客船は船に乗らんがために船客となっていったということである。

つまり、この世界が混沌とした、でたらめなものでなくて、一定の構造、もしくは秩序

を有しそれによって、一定の機能を発揮しているものと見る」という今西の世界観が語

られている。

 

そして第四章の棲み分け論である。「生活内容を同じうするということは、環境的にみ

れば、同じ環境を要求しているということである。それでもし同一の環境条件を共有す

るということが許されないとしても、同じ内容を持つものが相集ってきて、その連続し

た環境を住み分けるということは、当然予想されていいことなのではあるまいか」と述

べて、いよいよ「棲み分け」理論が始まる。

 

今西は「棲み分け」をどのように思いついたのか。

「渓流のヒラタカゲロウ」の研究で1933年加茂川へ採集に出かけて「いままで気づいていなかったことを発見した」と記述している。4種類のヒラタカゲロウの幼虫の棲み分けの発見は「種社会の発見」であった。この発見は偶然などではなく10年に及ぶ、徹底した孤独なフィールドワークによるものであった。

 

18世紀ヨーロッパで始まった産業革命は資本主義を確立させて、自由な競争を前提としたダーウィンの進化論の適者生存、自然淘汰、弱肉強食は生物学的に資本主義の競争を

理論づけるものとして受け入れられたのである。

今西は生物社会が弱肉強食などではなく、各種が又同種内でも棲み分けて居るのだとの

画期的な論陣を張った。

しかし欧米ではなかなか受け入れられなかったが、その後理論は少しづゝ拡がっている

ようである。 

 

2021年

1月

21日

水木しげる ねぼけ人生(4)ちくま文庫(2021年に読んだ本)

4.ねぼけ人生 水木しげる  ちくま文庫

 

洋画研究所でデッサンばかりやらされていた水木は上野美術学校に入るべく、その入学

資格になる学歴欲しさに、日大付属中学の夜学2年に編入。しかしここにも軍国主義の

波が押し寄せてきていた。校長はやたらと「非常時」を口にし、昭和16年12年8日ラジオが軍艦マーチを流しており戦争が始まった。校長は日の丸の鉢巻きを締めて建国体操

を始めるし、新聞や雑誌では文化人や有名人といった連中が、若者は国の為に戦争で死

ぬのが当たり前で、天皇陛下のために死ぬのは名誉なことだというような事を自分の都

合のいい万葉集の歌なんかを引用して力んでいた。

 

やがて菓子屋から菓子が消え、砂糖が配給制になりだし、18年夜間中学3年の時水木に

召集令状が届く。鳥取連隊に入隊するや、連日のビンタの洗礼を受けて、1ヶ月目いつ

沈められても惜しくないようなボロ船が入港、これで我々が最前線に送られるのだ。

水木が乗せられた船も、ひどいボロ船だった。舷側に手をついていると、鉄板がぽろっ

と取れるのだ。それも道理でこの船は日露戦争の時、バルチック艦隊を発見し、「敵艦

見ユ」を打電した信濃丸だというのだ。浮いているだけでやっとだという感じで、ス

ピードも出ない。「これよりラバウルに向ヶ出航する」という船内放送があった。

船員に聞くと「まあ、やられると思えば間違いありませんな、はははは・・・」といっ

たぐあいである。

 

命がけでラバウルに上陸すると同時にビンタだった。以後、ビンタだらけの毎日が続く。既に日本は制海権を失っていたのである。ココボにつくと遺書を書かされ、2,3日後

部隊長と云う大佐が訓示をし、やたらに決死、決死と口走った。次いで大尉が訓示をし、これはやたらに玉砕、玉砕と口走った。あとは食料、武器とろくな装備もなく、ジャン

グルを逃げまどう毎日、次々と兵士は死んで行く。水木は爆撃で左手を失い、半死半生

で生き延び、やがて敗戦となる。

 

1936年の2.26事件の後から明らかに日本侵略戦争を拡大し、軍部が政治をコントロー

ルする軍国主義となって行く典型的なファシズムである。大きな特徴の一つは言論、表

現の自由の弾圧であり、新聞、雑誌等言論機関の言っている事がおかしくなって来て、

各政党は解党して合流、大政翼賛会へと移行していくのだ。軍部は先の見通しもないまゝ戦線を拡大、アメリカとの経済力、軍事力のケタ外れの違いもかえりみる事なく、軍隊

内部の面子とその場の成り行きで無謀極まる全面戦争に突入、破滅へと突き進んだのだ。

しかし軍人が悪かったのは云うまでもないが、国民の支持がなければあれだけの戦争は

出来ない。侵略戦争は犯罪である。日本社会は何故それを許したのかという事である。

戦争勃発で日本中が沸き立ったのは紛うかたない事実であった。日本のファシズムを止

めたのは日本国民でなく、アメリカであり、日本の民主化はアメリカの都合の良い形で

つくりあげられた。従って、戦後の日本を支配して行く人達の多くは戦前の支配者であり、戦犯であったのである。

今日憲法違反の軍隊を保持し、世界有数の軍事力有して海外派兵も現実のものとなりつ

ゝあることや、公文書の偽造、破棄、国会での首相の嘘の発言の数々、審議拒否の数々。まさに民主主義国家の否定とも云うべき事態となっている。国民の多くは憲法違反の自

衛隊を容認し、こうした政府を必ずしも否定してはいない。菅総理は記者会見で「緊急

事態宣言」発令に際し、記者に「これで収まらなかったらどうする」の問いに「考えて

いない」と答えている。戦前の軍部と全く同じである。

 

「ねぼけ人生」の中で軍隊中部の私的制裁の実態が描かれているが、当時の日本社会を

そのまゝ映し出している。農家の二,三男は農地も与えられず小作人同然で人間として

の尊厳も奪われて、非人間的な地位におとしめられていた。

一方の都市住民は半封建的な上・下関係の中で人格も自由も失われており共に自己実現

とは無縁の生活を送っていたのである。彼等が軍隊の中でそのウップンを晴らしていた

のは容易に考えられる事であり、自分の尊厳が守られなかった者に、敵方の人々に残虐

行為に及んだのも充分理解出来る事であるのだ。

ドイツがナチス戦犯の時効を認めず、今でも追っているのとは大変な違いであり、第二

次大戦の清算を日本国民の手で行うことが不可避である。

 

尚水木しげるは「ラバウル戦記」「ヒットラー」「白い旗」「総員玉砕せよ」「姑娘(クーニャン)」等の作品もある。

 

2021年

1月

11日

高見 順 著  故旧忘れ得べき (2)闘病日記 上・下(3) 

 高見  順 著 故旧忘れ得べき(2) 闘病日記  上・下(3)

(2)故旧忘れ得べき  高見  順 集英社 日本文学全集  No.65 

昭和10年2月発行の同人雑誌「日暦」第7号から11号まで、以降「人民文庫」3月刊から

9月刊まで6回連載されたものである。1925年(大正14年)治安維持法が制定され、昭和3年改正され言論、思想の自由が蹂躙され、弾圧が苛烈を極めていた時代である。

当時高学歴青年層の誰・彼の区別なく熱病のように襲った社会主義革命思想の傾向は東

大生の中にとりわけ影響が強く、生活力のない、労働者との結びつきのない、社会的に

根のない彼等の情熱は失われざるを得ず、理想と希望の燈は他愛もなく消えて、生活の

安定した瞬間に生きる気分をなくして、暗中に低迷した若者達、変り身早く出世街道に

乗った者、乗れずに生活苦に呻吟し性格を歪めていく者、様々な生態が描かれている。

作品の中でも当時の風俗描写の筆の冴えは誠に見事なものである。弾圧の中で多くの転

向者が出たが、高見の転向はマルクス主義を引きずっており、この作品にその気分の

複雑さが窺える。

 

(3) 闘病日記    高見 順  上・下 岩波書店

昭和38年10月高見順はガンを宣告された。そして昭和39年12月31日「昭和39年12月

31日、昭和39年よ、さようなら今年1年こうして生きることができた!」で終わって

いる。昭和38年10月5日千葉大付属病院で検査、ガンが食道、胃、胸の3ヶ所にあるこ

とが判明する。同月9日手術、以降壮絶な闘病生活が始まり、昭和39年11月一時退院。

同年12月5日千葉の稲毛「放射線医学総合研究所」に入院。放射線治療を開始する。

「放医研」は全国に5件程しかない組織で、放射線を扱う為に広大な面積を必要としており、従って地価の安い地方にしか存在しておらず、高見の入院した稲毛は東京から最も

近い場所に位置している。私も2019年秋ここに前立腺の治療の為に3週間程通って、今も通院している。

 

高見順は激痛の伴う闘病生活中、著しい体力の衰えと気力の減退のなか「日本近代文学館」設立の代表者となり各方面への折衝にも気を配っており、社会的関心も失っていない。更に驚くべきことに家から病院に「内村鑑三全集」を取寄せており「正法眼蔵啓迪」上・下巻、暁烏敏(アケガラス ハヤ)師の全集1,2,3巻各頁600頁に及ぶ、大拙全集、沢木興道師「永平寺広録抄話」全7巻等多くの書を病床で読んでいる。

又、昭和39年11月17日の公明党結成や、同年8月の中野重治、神山茂夫の党員資格停止処分や、佐多稲子、国分一太郎、渡辺義道、野間宏の除名に関する報道や12月の志賀義雄等の4人の除名処分を不当として別に「共産党」として活動を始めた事などに注目している。

除名が続いたのが1956年(昭和31年)のスターリン批判に端を発し、1962年のキューバ危機で公然化した中ソ論争に際して日本共産党もその態度を明確にする必要に迫られて、各国共産党の中での自主独立を主張した。これに対し党内の有力党員から激しい反発が

生じ、これは事実上国際共産主義運動のリーダーであるソ連共産党に反対することになり、国際的孤立を招く事になるとし、ついに多数の除名へと繋がったのである。

はっきりとはしないが高見順は1927年日本(ママ)帝大文学部英文科入学後1928年には壷

井繁治、三好十郎らの結成した左翼芸術同盟に参加、小説を発表し始めており、日本プ

ロレタリア作家同盟(ナプル)の成南地区キャップ、そして日本金属労働組合等の非合法運動にも携わっており、1933年2月小林多喜二の死の直後、治安維持法違反で検挙されて勾留されている。以後特高にマークされてきており多分共産党員であったのであろう。

 

高見順は自分の立場をこう語っている。『私たちはたとえ転向しても「反動」にはならないという事だ。そうなりたくなかった。日本主義で武装することなど当局から要求があったが、あくまで拒もうとした。そこで現実につくという態度をとり風俗小説的なものを書くようになっり、デカダンスの積極性というようなことを考えた』と。

昭和40年(1965年)8月17日最後の一喝で読経は終わった。

その時閉じられたまゝだった高見の眼じりから涙がひとすじ流れ落ちた。

 

註:本の題名の頭の()番号は2021年に読んだ本のカウント参考番号です。

 

2021年

1月

04日

「鷲は舞い下りた」2021年に読んだ本 (1) 

.「鷲は舞い下りた」  ジャック・ヒギンス  ハヤカワ文庫

 

1943年9月イタリアは降伏し、ムッソリーニが地位を追われ、バドリオ元帥が彼を逮捕してどこかへ隠す。ヒットラーは特殊部隊を編成してムッソリーニを救出する。

作戦会議の中ヒットラーが「チャーチルを私のもとに拉致してくることだって可能では

ないか」要求する。

ドイツ警察長官ヒムラ―は軍情報局長官カナリス提督に命令を下す。カナリスはこの意

味のない命令に対して、直属のラードル中佐に形だけのもっともらしい報告を出すよう

に命ずる。

イギリス在住の女スパイ、ジョウナ・グレイの日頃から克明で的確な報告に信頼を置い

ていたラードルは彼女から注目すべき報告を受ける。イギリス東部ノーフォークの一寒

村にチャーチルが週末を過ごすと云うのだ。

ラードルはドイツ落下傘部隊長クルト・シュタイナー中佐にこの作戦を、ヒットラーの

特命をもって指示スする。

シュタイナー中佐は選りすぐった10数人の精鋭、そしてIRAの兵士リーアム・デブリン、元イギリス自由軍兵士プレストン少尉を加えて着々と計画を進行させて行く。

ついに落下傘で現地に降り立った精鋭達はイギリス軍々軍服を着用し偽装して順調に事

を運んで行くが、地元の子供が溺れたのを助けるという突発的な事故が起きて、計画が

発覚する。隊員は次々に倒されて残る数人が脱出するが、シュタイナー中佐のみ残って

任務の遂行を目指すが、最後のところで成功をのがすのだ。

 

この作品を優れたものにした要素の第一はナチスドイツですら悪一辺倒でなく相対化し

て描かれていること。第二に大戦中にチャーチルを誘拐するという荒唐無稽とも云うべ

き話をあたかも有り得たかも知れない話としている事で、ドイツ軍に関する情報を最大

限に収集しており、その計画の過程を臨場感溢れる語りで進行させている点である。

第三に登場人物である。指揮官シュタイナー中佐を「勇気があって、冷静で、卓越した

軍人、そしてロマンチックな愚か者だ」としており、物語の中でその人間が余すところ

なく発揮されている。

女スパイ グレイ、IRA兵士リーアム・デブリンを始めとして実に魅力的に描かれており、作品を厚みのあるものとしている。

 

2020年

12月

23日

2020年に読んだ本 (その4)

51. 狂風記 上・下  石川  淳 集英社

この作品は1971年2月から80年10月にかけて昴に連載されたものであり、石川淳の小

説作品の集大成というべきものである。

始まりの場所はいちめんの堆積物の山、紙屑、あきびん、あきかん、つぶれたダンボール、さびついた自転車、犬,猫の死骸、それは廃棄物の山である。

そこに住みついているのが青年マゴで一丁のシャベルを持って自分の過去を探してこの

廃棄物の山を掘りつゞけていて、そこで不思議なる美女ヒメに出合う。

ヒメは天保時代の長野主膳の妾の末裔で手元には2部の巻子本が保管されている。

天保13年壬寅11月某日28才とあり主膳は彦根の井伊直弼を尋ねるくだりから始まり、

その側近となり斬首刑となっていた。ヒメは葬儀屋を営んでおり現世と黄泉の国を行き

来している女だ。

マゴとヒメの2人が、夜闇の中で銀白色の車でこゝに乗り付けた若い3人が死体を投げすてゝ行くのを目撃する。尚死体を投げ捨てた3人のうちの一人が鐵三のホモの相手であり、腹上死した鐵三を捨てに来たのだ。

死体はこれ一流会社柳商事の柳鐵三である。所在不明となった社長に会社は対応に苦慮

して病気と発表する。副社長の桃屋義一は鐵三の父の出戻り娘と結婚して柳家の婿となり、柳商事乗っ取りを企む。若者のうち安樹は鐵三のドラ息子で鼻つまみ、初吉は義一

の弟であり二人は跡目をめぐって暗躍を開始する。そこに財界の重鎮鶴巻大吉、甥の大

学教授で政界を目指す野心家の小吉、鐵三の秘書で愛人の新川眉子等が入り乱れて話は

進む。

石川淳は古代の神話から現代のありとあらゆる出来事まで網羅し、その裾野に拡がるヒ

メとマゴの壮大なロマンを繰り拡げる。

この絢爛たる物語にリアリティをもたらしているのが、政・財界にうごめく反社会的人

々のその醜さを容赦なく書ききっている事にある。

 

52. 文壇日記 高見 順  岩波文庫

昭和35年2月、10年振りに日記を書くことを再開して以後ガン宣告を受ける38年10月

迄の日記の収録である。彼は文学者であるが社会に対する関心も強く、マルクス主義者

として人生を始めており、党員ではなかったものゝ、思想的転向者であることは自ら自

覚していた。「小林秀雄が ”君は安保反対なんだろう、よせやい” と云われて、これはどういう意味だったんだろう。林房雄ふうの賛成者なのか。文士の政治参加に反対なのか。いわゆる進歩的文化人に対する反発なのかと述べ、小林秀雄は仕事を重んじている。それは分る。だが、だからと言って新安保反対にまったをかけることはない。自分は仕

事をしたいと、ひっこんでいればいいのだ」「私は安保反対だが、それに狂奔してはい

ない。むしろ狂奔したいぐらいのだが」と自分の立ち位置を明確にしている。

又日記を書くことに対しては「日記を書く気がしない。こんな私生活を書きとどめて何

になる」と作品制作が遅々として進まない事への自虐的な言葉もみられる。彼はライフ

ワークの小説2編、すなわち「激流」と「いやな感じ」の作品作りと又それだけでは生

活費を稼ぐ事ができない為に不本意ながら中間小説に手を染めなければならない。

又ラジオドラマも書かねばならないことに苛立っていた。作品づくりに苦しみながら各

種文学賞の選考委員として、ペンクラブの専務理事として、文芸家協会の理事として、

又最大の精力を注いだ。近代文学館理事長として様々な関係者との交渉に携わっていた

のである。会合のあとの食事、酒の席にも律義に参加しており、古き江戸っ子の気分を

保ってきた人物であることが分かる。

多忙の中で日記にみられる驚くべき読書家でもあることだ。古書店を渉猟し大量の本を

買っている。文学、美術、哲学、自然科学、社会科学等の専門書に及び、良く読み込ん

でいるのだ。彼の従兄は永井荷風で彼と並んで日記文学の双璧である。

尚、死の直前に平野謙に自分は共産主義者として死にたいとも語っていた。

 

53.    起承転々  高見順  集英社

昭和10年10月号「文芸春秋」に発表された。

これは高見の「コキューの嘆き」を主題と作品の一つである。

物語は神田の喫茶店に中年の佐伯と若い雅子が坐っている側のテーブルに伊南外2名の

医科大学生が入って来たところから始まる。伊南等は雅子のあまりの美しさに引き寄せ

られる。佐伯は雅子を妹だと紹介し、3人を行きつけの酒場に誘う。

伊南は雅子に夢中になる。佐伯はさる会社の常務であり、後妻のバックの力で成り上がったもので、雅子のパトロンである。雅子は有夫の女で女優志望でもあり佐伯に近付いた。伊南と雅子は急接近し、話を聞いた伊南の母親は、母一人、子一人で心血を注いで育て

た息子の願ってもない話に驚き、夢中になり、佐伯家に正式結婚申込に乗り込む。

佐伯の妻はこれに驚き、うちには妹もいなければ、親戚にも該当する女はいないと、突っぱねる。二人は互いにこの話に怒り呆然とする。

雅子は何とか映画監督に渡りをつけて、この機に夫に離婚を申し出る。

といった小品である。雅子のような女性はその後現実に出現して来るのである。

この小品の決め手は会話技術の巧みさでもある。左翼敗退後の高見の気分の落ち込みと云ったものが何んとなく窺える作品でもある。

 

54.いやな感じ  高見 順  文芸春秋新社 刊

高見順が昭和38年ガン宣告を受ける前に書かれた最後の作品である。

主人公 加柴四郎は3年前19才の時、いっぱしのテロリスト気取りで福井大将を狙撃したが安物の拳銃を使用した為に失敗。その一派は捕まって死刑となったが、四郎は辛うじ

て逃げ、助かっている。四郎はアナーキストの労働組合で働いているが、それだけでは

食って行かれずに砂馬慷一の手先となって恐喝まがいの行為によって生活している。

私娼窟の女クララこと瀬良照子に惚れ込み通うが、彼女に性病をうつされた挙句彼女は

男と逃げてしまうのだ。

 

四郎が働く労働組合はアナーキストとボルシュビキの勢力争いが激しく、やがてボル側

の説得工作によって切り崩され、アナーキストは四郎一人となってしまう。

逃げたクララは10年後中国でカフェの女主人公として姿を表わしている。

 

ボル派の檄文「無政府主義は空想的なり。破壊的なり。社会運動を妨害する邪徒なり。

・・・・吾人詰束せんとするや、彼等直ちにこれを妨ぐ、これを破る。我国社会運動の遅々として進まざる、即ち此の無政府党あるに依る。実に彼等は社会主義の仇敵なり、

人類の仇敵なり・・・・吾人は断言す。無政府党は無頼の巣窟なり」と。「而もこの無

頼たるや、国粋民労の草賊よりも恐るべく憎むべし。嗚呼 無政府党は社会主義の敵なり、人類の敵なり・・・云々」1922年9月26日 日本労働協会

 

この主張は「日本問題に関する決議」コミンテルン22年テーゼによると「社会民主主義指導者はブルジョアジーの買収された代理人であって、ブルジュアジのー命を受けて協

調主義と愛国主義と社会帝国主義の毒素を大衆に伝染せしめんと努めている。大衆獲得の闘争、なかんずく社会民主主義的労働者獲得の闘争は次のことなくしては不可能である。すなわち社会民主主義者を不断に、精力的に暴露、議会主義的幻想をひろめていること。えせ自由主義ブルジョアジーの助手及び追随者としての役割を演じていることを不断に、精力的に暴露する事である」と結論づけている。

 

現在では理解が困難なこの問題を、私の知人田辺均氏の父親が上田庄三郎と一部論壇で

話題となった「アナ・ボル」論争を行っており、又スペインの内戦の共和国軍の中心的

組織の一つである労働組合の有力組織はアナーキスト等であった。

やがて四郎は軍部の一部や、右翼、アナーキストと結びついて、その界隈で知られるようにもなって官憲に追われるようになる。四郎はその後中国に渡って次第に本格的なテロリストに変貌して行くのだ。当初の四郎の考えは、ボルシュビキの理論ばかりで実行の伴わないやり方を嫌悪しており、テロによって突破口を開き、大衆を蹶起させるべきと云うものであったのだが・・・

高見順は当時の政治、軍事状況や右翼の実情、巷の下層生活者等を丹念に調査研究もし、左翼の動き方や方針もかなり熟知していたようである。作品の完成に相当の苦慮があったと本人も苦しんだようだが、力作であることに問題はない。隠語も数多く使われており、この収集の努力も頭が下がるものがある。

 

2020年に読んだ本 (完)

 

2020年

12月

08日

2020年に読んだ本(その3)つづき

㊿ 定本 後藤田正晴 保坂正康    ちくま文庫

  

  後藤田は徳島県吉野川市に大正3年8月3日に父増三郎と母ヒデの4男として誕生

  した。後藤田家は藩から庄屋を命ぜられた旧家で、父増三郎は藍作に手を染めたり、

  筵、備後表などの売買に携わり商才もあり、10代の半ばには長崎で蘭学も身につけ

  ている。教育にも熱心で学校の設立にも尽力を尽くしており、正晴の生まれた頃は

  郡会議長でもあって、当地随一の知識人であった。

  正晴10歳の頃に両親が死亡し、すでに他家に嫁入りしていた姉を頼って大学を出

  るまで援助されている。正晴の寄寓先は徳島県富岡町の井上晴巳で、晴巳の父は

  明治初年にイギリスに留学しており、帰国後私財を投じて太平洋に面した富岡町の

  海岸を埋め立て地域住民に喜ばれていた。晴巳はのちに富岡町長を務めており姉好

  子は文字通り正晴の母代わりの役を果たしていた。

  負けず嫌いで、言い出したら引っ込まぬ性格は中学時代には顕著にあらわれていた

  という。

 

  徳島県立富岡中学から旧制水戸高校に入学、文科乙類の生徒となる。

  ドイツ語を第一外国語とするクラスであった。後年、後藤田は「人生の中でもっと

  も影響を受けたのは水戸での高校時代である」と語っている。

  親しかった高久泰憲(タカキュー会長)の言によると「後藤田は古武士的なところ

  があって、一見近寄りがたい雰囲気があった。でもいったん口をきいて彼の笑い顔

  をみるといっぺんに変わってしまう。破顔一笑と云えばいい人だろうか笑ったとき

  の顔がいい。あれはいまもかわっていない。別れ際の印象がとっても爽やかでだか

  ら誰とでもすぐ親しくなれるんです。私なんか先輩扱いされなくとも憎めなかった」

  と語っている。

  3年生の下宿時代後藤田は密かに猛勉強をして、昭和10年東大法学部入学。当時東

  大法学部の学生は大半高等文官試験を受験、エリート官僚の道をめざしており、日

  々勉強ばかりしており、東大時代にはだゝの一人も友人をつくっていないのが当然

  であった。友人などつくる暇がなかったのである。東大は高文の予備校という意味

  しか彼等にはなかった。

  授業に出て教授たちの過酷さに驚かされる。「答案はつねにドイツ語で書いてもら

  おう」と云われローマ法の原田教授は授業の最初の2,3回でラテン語の基礎を教え

  そのあとはラテン語で授業を進めたと云う。高文試験に失敗、昭和12~13年に

  かけて、誰とも交流することなく図書館にこもって猛勉強し、昭和13年高文試験

  に合格。大日本帝国の内政の中枢的地位を占める内務省に入省した。

  官僚のエリート中のエリート集団である。

 

  昭和15年4月台湾歩兵第2連隊補充隊に2等兵として入営。昭和20年8月中国国民党

  軍の捕虜収容所に送られる。昭和21年4月日本帰還、内務省に復帰。昭和22年8月警

  視庁保安部課長として就任。昭和47年警視庁を退任し、田中内閣の官房副長官に就

  任。51年徳島全国区から衆議員当選。

 

  昭和57年11月中曽根内閣の官房長官就任。62年10月までが政治家としての充実期に

  なる。中曽根内閣は官僚政治家後藤田がその能力と手腕を存分に発揮した舞台とな

  った。世間に「カミソリ後藤田」と喧伝された。

  後藤田は法相の秦野章と並んでこの内閣のタカ派的性格をあらわしているとされ

 「らつ腕の警察コンビ」「野党のタカ派色を警戒」「金権、右傾ドッキング」などと

  マスコミの見出しの対象とされた。

 

  田中は中曽根に対して「後藤田君を傍に置いてお使いください。彼はあなたを助け

  るだろう」と云ったという。根っからの改憲論者である中曽根に対し、後藤田は

 「僕は憲法を評価しているよ。見直せという論もわかるがそれに伴うリアクションの

  大きさも考えなければならない」と中曽根のブレーキ役となった。「憲法改正を政

  治日程にあげ国論を二分する争いを引き起こすような事態は好ましくない」と後藤

  田は断言しており、一貫して「憲法を守れ、安易に自衛隊を海外に出すな」と発言

  している。中曽根内閣の初期には「タカ派」と言われ、平成3年からは「ハト派」

  といわれた。

  後藤田が日本の国防方針や国際社会での軍事協力について明解に自らの立場を明ら

  かにしたのは昭和62年10月、再び官房長官に就いていた時だった。

  当時イラン・イラク戦争によってペルシャ湾にはイランが敷設した機雷が無数に浮

  遊し、そのためにタンカー船の触雷事故が相次いでいた。しかもこの海域に遊弋

 (ユウヨク)中のアメリカ軍艦隊に対しイラン軍が攻撃を仕掛けたりしていた。

  アメリカは機雷除去のために日本政府にきわめて具体的な対応を考慮して欲しいと

  要求してきた。ペルシャ湾の安全航行確認のため、海上自衛隊の派遣や海上保安庁

  の巡視船の派遣など、中曽根や外務省は考えた。経済力を背景に国際社会での政治

  的発言の強化を狙ったのである。後藤田は猛然と反撥した。「ペルシャ湾への派遣

  は閣議で決めるでしょうな。こういう重大な決定は閣議で決めなければおかしい。

  しかし、私は閣僚として決して署名はしませんよ」と身体を張って抵抗した。

  ペルシャ湾への掃海艇の派遣を示唆するアメリカはあまりにも勝手である。そのア

  メリカの要求にすべて応じるわけにはいかんというのが後藤田の結論であった。

 

  後年、後藤田は中曽根を評して「私は彼を人間的には好きではないが、だからと言

  ってともに仕事をするのが嫌だというのではない」とこの心情を使い分けられると

  いう逞しさこそがむしろ後藤田はが信頼される理由でもあったのだ。

  ペルシャ湾への派遣が問題になったとき、後藤田は軍事行動につながりかねない措

  置に対して外務省など幾つかの官庁の幹部にためらいが少ない事に驚いている。

  官僚を抑えられる立場に自分はいる間はいゝが、そうでなくなったら日本の将来は

  どうなるのかと不安を抱いたという。

 

  平成5年6月宮沢内閣不信任案成立、解散とともに後藤田は副総理を退任。

  55年体制以来38年間続いてきた一党支配の政治体制の舞台は一変した。

  混迷は自民党の中で後藤田内閣の動きが深く広がったが、彼には全くその気がなか

  った事で幻の後藤田内閣となった。

 

  戦後不世出の官僚政治家として縦横に力を振い、毀誉褒貶の激しかった稀有の政治

  家で、一貫して節を曲げることなく、事に当った硬骨の政治家、現在保守政治家に

  類例をみる事はない。(平成17年9月19日没 享年91歳)